報告書によれば、明治20年に高祖父が神田小川町に建てた大宮家の土蔵・文庫蔵が、昭和63年(1988)に調査が実施されるまで残っていて、「新たに重層の建物を建築すること」となって解体されたというのだ。当時の間取りの記録は残されていないものの、関東大震災でも「この土蔵のみ辛うじて災害から免かれた。大火災によって破損した土蔵を大修理改造してこれに現存の住宅が再建されたのは、大震災後の昭和3年のことであった。その再建の後、16年を過ぎた昭和19年から20年におよぶ、今次対戦[ママ]における数次にわたる東京大空襲に際しては、幸いにして難を免れたのであった」と、報告書はつづく。
しかも、調査時の所有者は大宮たづ子、正義ほか共有となっており、「大宮材木店の初代から数えて4代目にあたる」という。俄然、興味が湧いて大宮正義氏の名前で検索すると、自民党選出の千代田区議会議員を長年務めたあと、2004年に亡くなっていたことが判明した。大宮さんは、てっきり小川町を離れて材木を扱うのに適した木場へ移ったのだと思っていたが、少なくとも20年前まで子孫の誰かがこの地に住みつづけて、千代田区議などになっていたのだ。30年ほど前の情報では、職業は材木関連ではなく飲食店経営となっていた。祖先探しで小川町は何度か歩いたことがあるのに、なぜこの事実にもっと早く気づかなかったのか。
翌日も気になって、2019年に千代田区役所でもらった除籍謄本を引っ張りだし、萬吉さん長男の徳太郎氏をはじめ、そこに書かれている大勢の名前を検索してみた。昭和4年刊の『神田区人物誌』には、これまた神田区会議員だったという徳太郎氏の項に、「代々和泉屋と号して木材商を営めり。此の度、復興事業に際会して、木材の需要頗る増大せり。氏は生粋の神田っ児にして、意地と張りを有し、義侠心に富み、公共事業の為には何ものをも惜まず[中略]氏は特に一宗派を信仰する者に非ざるも、社会人として道徳を根底に置き、久遠なる宇宙に思を寄せ」と大いに誉めそやしたあと、「和泉屋の門戸は牢として動かざる地盤と、顧客を有し、都下斯業界の重鎮たりしが、現在は廃業の状態に在り」などと書かれていた。関東大震災のあと、一時的に材木業も盛んになったが、小川町のような街中ではやはりつづけにくかったのだろう。
このページに掲載された徳太郎氏の写真は40代くらいに見えるが、2年前に同氏の長男精一氏のご子孫を探り当て、訪ねた際に見せていただいた白い長い鬚を生やした写真の人物と同一であることは疑いない。昭和11年刊の『土木建築業並関係業者信用録』の大宮精一氏の項には、「当家は先代大宮萬吉氏が愛知県下より上京し、神田丸太河岸佐藤由兵衛氏経営の材木店にて修業後、現業を以て独立せしに始り」とある。大一木材の大宮巨統さんからは、深川の材木屋で丁稚奉公と伺っていたので、下積み生活が長かったのかもしれない。
昭和2年刊の『国民自治総覧』の徳太郎氏の項には、「抑も同家は維新前愛知県海原郡より上京、多年材木業界に刻苦精励して独立、今日の基礎を築ける大宮萬吉氏の苦闘苦心の結晶なり」と書かれていたほか、萬吉さんは「八十歳の高齢を保ちて今尚矍鑠たり。老来益々勇躍淋凛[ママ]町内の夜警衛生等に尽瘁して殊功あり」と絶賛されていた。祖父母のアルバムに残された葬儀の写真に、神田公友会などと読める花輪が所狭しと並んでいた理由がわかる気がした。
「海原郡」は正確には海東郡だろう。除籍謄本によれば、私の高祖父に当たる萬吉さんは尾張国海東郡勝幡村で弘化4年に生まれている。その後、深川熊井町に住んだのち、明治8年3月に神田小川町1番地に越し、徳太郎氏はその1カ月後に生まれていた。徳太郎氏の生母は産後まもなく亡くなったと思われ、翌9年に私の高祖母に当たる志げさんを後妻に迎えている。昭和3年に志げさんが先に中野で死去していたので、てっきり小川町は引き払ったものと思っていたため、今回の発見はまったく意外だった。
100年にわたって存在した土蔵があったのであれば、萬吉さんの店がそこにあったと考えてよいだろう。萬吉さんの次女である私の曽祖母タケさんは「神田区小川町壱番地」生まれだが、この「1番地」は、山城淀藩の稲葉丹後守正邦の上屋敷跡で、かなり広大な一画すべてに「1番地」の番号が振られていた。明治32年ごろに作成された『東京名所図会』では、大宮萬吉木材店は「一番地の西方即ち戸田邸前通りにあり」となっているが、いまの靖国通りの南側にあった戸田忠行邸は、小川町一番地の向かいではなく、いまの小川町3丁目(幕末にはただ「御用屋敷」)の向かいに位置していた。私の学生時代には、3丁目付近までスキー用品店がびっしり並んでおり、記憶が正しければニッピンの神田店などもあった。
明治9年の「明治東京全図」では、「壱番」はまだ「稲葉正邦」となっているが、その前年に高祖父がその一角に店を構えていることから、淀藩のこの屋敷も没収され、分割されて新たに台頭してきた大宮さんのような庶民に売られていたのだろう。土蔵は「大宮材木店の東側に隣接する同一敷地内」だという『千代田区の民具』の記述と図から、場所を特定すると、その名も大宮ビルという2棟の建物がグーグルマップ等から確認できた。これらが新たな「重層の建物」に違いない。
「明治東京全図」には、小川町の「壱番」と通りを挟んだ向い側の錦町に、「九條道孝 区務所」と書かれたかなり大きな区画がある。この数年、九条家について散々調べて論文まで書いた身としては、興味を抱かずにはいられない。大正天皇妃となった九条節子はこの別宅で明治17年に誕生したらしい。私の曽祖母タケさんはその前年に生まれている。
明治の小川町界隈は、仏文会(現法政大)の跡地に東京物理学校(現理科大)が入るなど、新しい東京の文化の中心地のような場所であったことは、以前に調べた際に知っていたが、改めて地図を見ると、東京英語学校や開成学校があるし、神田川方面に坂を上った先には「魯国公使附属ニコライス」の文字も見える。いまのニコライ堂(1891年竣工)の場所だろう。少し右手の筋違橋門の手前には、上田藩が1世紀以上にわたって上屋敷をもっていたが、幕末にその地にあったはずの青山下野守の屋敷なども、明治9年の地図では跡形もない。
『神田区人物誌』はタケさんの異母兄である徳太郎さんが、「子福長者にして家庭には九人の子女あり」とも書く。除籍謄本では7男4女の名前が確認できるが、息子のうち2名は早世したのかもしれない。長男が精一氏で、『木材総覧』(1976年)などから、小川町の店は3男の松三氏が継いだものと思われる。残る3人の息子と思しき人物は、それぞれ関東逓信病院の医師、電電公社の職員、茨城大学の心理学教授に見つかった。娘たちの行方は、残念ながらたどれない。大宮さんは材木問屋と思い込んできたが、それぞれに多様な道を歩んでいたこともわかり驚いた。
折しも、10月25・26日に神保町ブックフェスティバルの「本の得々市」で、拙著『埋もれた歴史』(2020年刊)の版元であるパレードブックスさんが出店し、在庫が減らずに困っている拙著も売ってくださるというお知らせをいただいていたところなので、校正中で気持ちの余裕はまったくないが、現地調査を兼ねて小川町・神保町を大急ぎで歩き回ってみようかと思っている。うちの親族はみなそれぞれに忙しく、一族の歴史などにほとんど興味を示さないのだが、母のいとこがお付き合いくださるとのことなので、雨天でない限り、いずれかの日に決行しようと思っている。何か新たに判明したら、この記事に付け足すなり、改めて報告を書くなりしよう。
なお、土蔵に保存されていた「数々の貴重な民俗資料」は、1995年創立の千代田区立四番町歴史民俗資料館に寄贈されたと報告書には書かれていたが、調べてみると、市ヶ谷にあったこの資料館は早くも2011年には閉館し、日比谷図書文化館に機能移転していた! 日比谷公園内のこの三角の建物は、ここ数年、毎秋、赤松小三郎研究会の講演会の会場となっており、考えてみれば、展示室のようなものを見たことがある。大宮さんからの器などは、おそらく倉庫に仕舞い込まれているだろうが、この11月3日にも河合敦氏の講演会「赤松小三郎に影響を与えた人々〜最新の幕末史研究を踏まえて〜」(14:00開演)に行く予定にしているので、ダメ元で一応覗いてみることにしよう。私の曽祖母タケさんが使っていたかもしれない器であれば、ぜひ見てみたいものだ。
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