2026年4月20日月曜日

物理本から学ぶこと

 横浜の関内駅の近くに吉田橋というかつて関門が置かれていた橋、もしくはその名残がある。そこから港に向かってつづく大きな通りは馬車道と呼ばれる。幕末に横浜が開港してまもなく、この道を多くの馬車が行き交うようになったためと言われ、この通り沿いに最初に設置されたガス灯とともに、馬車はいわば、西洋の進んだ文明を象徴するものとなった。

 幕末の日本では、乗り物といえば駕籠、または馬しかなかった。当時、日本に滞在していたアメリカの弁理公使ハリスなどが、「ノリモン」がいかに窮屈で乗り心地の悪い代物であるか書いていたので、彼らの目には日本はさぞかし後進的な国に映っただろうと読みながら思っていた。だが、実際には、西洋でも19世紀にはまだセダンチェアという従僕が担ぐ一種の駕籠が使われていたことが、目下、校正中の回転をテーマにした物理本に書かれていた。日本でも床に座り慣れていない外国人用に、のちに椅子駕籠が開発され、人力車が普及するまでのあいだ短期間ながら使われたようだ。  

 この物理本には、車輪付きの乗り物の歴史を論じた章がある。車好きの人にしてみればいずれも当然のことなのかもしれないが、私などは、そうなのか!と驚くことがそこには多々書かれていた。その一つは、四輪の荷車や馬車が長らく角を曲がれない代物であったという事実だ。二輪馬車の場合、角を曲がることで内輪のスピードが自然に抑えられれば、何とか無事に曲がれたようだが、四輪ではそうはいかない。江戸時代までの日本で使用された数少ない車付き乗り物である牛車や大八車が不安定な二輪車であった理由が、ようやくわかった。  

 四輪の馬車が本当の意味で実用化されたのは、チャールズ・ダーウィンの祖父に当たる医師エラズマス・ダーウィンが、太り過ぎて馬に乗って診療に行けなくなり、操縦メカニズムを考案して以降のことなのだ。彼の没後の1818年にその特許がドイツ人によって取られ、アッカーマン式リンク機構として特許知られるようになったのだという。

 ということは、1866年1月(慶応元年12月)に、横浜に駐在していたイギリス公使館員のジョン・マクドナルドが自家用の馬車に老中松平伯耆守宗秀を乗せて東海道を走り、川崎の六郷の渡しまで送った一件は、イギリス人にとっても当時の最新技術を見せつけるチャンスだったに違いない。この馬車の後ろから、アプリン大尉率いる騎馬護衛隊が警護でついて行く様子を描いたワーグマンの絵を、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で見つけたときも驚いたが、いろいろ考えると本当に画期的な出来事だったわけだ。  

 この挿絵はあまりに印象的だったので、横浜開港資料館にある現物の新聞の画像を撮影していただき、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス、2020年)で使わせてもらった。当時は、この馬車がそれほど最新鋭の乗り物とは思いもしなかったので、それ以上深く調べず、馬車のほうはおざなりに見て「老中一行を乗せた二輪馬車を御するマクドナルドや、その後ろにつづくアプリンら護衛隊の様子を」などと書いてしまったが、実際にはこれは四輪馬車だった。私が誤解したのは、大きな後輪に比べてステアリング機能のある前輪は車体の下に収まる小ぶりなサイズで、沿道で興奮する村人や子どもたちの陰になっていたためだった。当時の馬車には現代の自動車のように、型式によって名前がついていたこともわかったため、画像検索したところ、おそらくこれは大型のブレークではないかと思う。  

 今回の本で、アッカーマン式リンク機構も多少は理解したので、レゴでもそれらしきものを再現してみた。前輪を小さくしたいばかりに、古い型の車輪までヤフオクで入手したのだが、小さめのサイズでつくったこともあり、内輪と外輪がカーブに沿って別の角度になるような精巧なものではない。馬車の後ろには、当時の日本人が憧れたらしい紺地に白い一本線入りのズボンを履いたアプリン大尉も、アーネスト・サトウが揶揄した金ピカ帽を被らせて添えてみた。  

 この馬車の御者席に座っていたマクドナルドは、この数カ月後に医師ウィリスの治療の甲斐もなく、29歳で脳軟化症と卒中で亡くなり、横浜外国人墓地に埋葬された。彼が取り寄せたというこの馬車がその後どうなったのかは不明だが、明治2年、本町通りから神奈川宿まで通じる馬車道が開通し、2月ごろには乗合馬車が始まり、5月には下岡蓮杖らもその事業に乗りだしているので、ひょっとすると乗合馬車として使われていたかもしれない。実際、三代広重の「横浜海岸異人館之図」(明治3年)には、ブリジェンス設計のイギリス領事館の前に、よく似た馬車が描かれている。 

 馬車は曲がり角で横転しやすかったなどと訳していたせいなのか、だんじり(地車)祭りなどで、山車が横転する事故の映像が翻訳中たびたびフェイスブックのタイムラインに出てきた。気になってつい横転した画像を見てみると、岸和田の山車の車輪には、ステアリング機能は何もついていないようだった。梃子の原理で後輪を浮かせて、などという説明も見受けられ、ひたすらコース取りを人力で調整するものと思われる。ただでさえ高い重心の山車の上部に大勢が乗り込んでいるのも気になった。坂道で暴走し横転したという伊豆の国市の山車は、前輪が小さく、方向を変えられるようだった。この事故は曲がれなかったわけではなく、ブレーキ代わりの綱を後方で引く人がいなかったことによるらしい。 

 物理にも車にも疎い私が、車輪付きの乗り物についてこんなことを考えるようになっただけでも、ちょっとした進歩だと自分では思っている。いつもに増して、初校ゲラはかなり赤が入ってしまったが、通して見直したことでだいぶ頭のなかは整理された。ほかにも書きたいことは山ほどあるし、訳しながら「勉強」と称してつくったレゴ作品もまだまだあるので、追々また書くことにしよう。何はともあれ、まずは索引を終わらせねば!

レゴで再現してみた東海道を初めて馬車が通ったときの光景

拙著で使わせてもらった『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵

1885年のブレークの写真
By Thomas, John, The National Library of Wales Catalogue ウィキペディアより

一応、前輪が曲がれるようになっている。

横浜外国人墓地のマクドナルドの墓(右端)2016年4月撮影

孫が私の誕生日につくってくれた駕籠。雪の日に桜田門外の変を再現すべく外に出してみたものの……八甲田山のように。