2026年10月13日火曜日

中居屋重兵衛その2

「中居屋重兵衛その1」で触れた佐佐木杜太郎の『中居屋重兵衛:開国の先覚者』(新人物往来社、1972)を、久々に本棚の奥から引っ張りだしたところ、2014年におそらく「日本の古本屋」のサイトから1,299円で購入したときの納品書が出てきた。祖先探しを始めて間もないころに神奈川県立図書館で見つけ、その後、古書が入手できることに気づいて購入したのだと思う。入手した当時は知らないことだらけで面食らって、半分も理解できなかったが、いま改めて読み直すと、幕末明治初期の生糸の輸出量統計数値なども詳しく出ていて、中居屋の大番頭だった松田玄冲の「日下恵」と「万日下恵帳面」の翻刻史料も収録されており、この書をいくつかの間違いをもとに切り捨てるのはもったいないと思う。今回は、本書を含むいくつかの中居屋関連の著作・論文をもとに、当時から私が疑問に思っていた件、「銅(あかがね)御殿」について再考してみる。

 横浜の本町4丁目に開港当初あった中居屋重兵衛の店は間口30間という大店舗で、屋根が銅瓦葺きであったことから「銅御殿」と呼ばれた、とどの歴史書にも書かれている。また、その記述とともにかならず、銅瓦が華美であることを神奈川奉行から咎められて、五日間閉店したとか、手代が入牢したとかいったエピソードが語られる。

 中居屋の店が豪華な造りであったことは間違いなく、すでに開店休業状態となって久しい1861年6月11日のフランシス・ホールの日記にも、店正面に間口の3分の2を占める、幅1.5mほどの石造りの池があって金魚が泳いでいることなどが描写されるとともに、「The building is conspicuous to one passing in the street by its dark heavy tiles, roof timbers…」(この建物は、その濃色で重厚な瓦、屋根の木材[中略]ゆえに、通りを行く者にもよく目につく)と書かれていた。F・ホールは神奈川の成仏寺にいた。ここで留意すべき点は、中居屋の店の屋根が黒っぽい色で、木材であるとホールが書いていることだ。  

 安政6年8月下旬、開港から2カ月あまりが経った時点で、中居屋のライバルであった三井の横浜店手代も「四丁目ニ中居屋重兵衛と申方、表間口三十間も有之、チャン流し之板屋根にて一際目立候普請」と書簡で書き送っていた。チャン流しとは、防水用に瀝青が塗られていることを意味する(三井文庫蔵『永書』、西川武臣『横浜開港資料館紀要』7に引用)。

 1889年に『横浜貿易新報』に野沢枕城という人が連載した記事(「原伝三郎伝」として『横浜どんたく』下巻に収録)には、横浜の古老の話として、「然れども銅を剥がしたる後なるか、銅にはあらずブリツキか、または板の上をコールタール様の物にて黒く塗り」と描写されていた。

 その1でも触れた中居屋の元手代の小林七郎次は談話のなかで、「邸宅は高壮で屋根は一寸板[厚さ3cm]を用い、麻を張り、その上にチャンで黒塗りされた。生麦の宿から眺められ、世人は〈浜の門跡様〉とよんでいた」と語っている。この談話は大正2年に小林が重兵衛の郷里の生家を訪れたときの思い出話だと、萩原進は『炎の生糸商』に書いている。  

 荻原氏、佐佐木氏双方の著者のカバーや函に使われた二代広重の「横浜風景一覧」は文久元年(1861)の作で、「同四丁目」に「中井」と書かれた立派なお屋敷を描いているが、屋根は黒々とし、むしろ壁がベンガラ壁のような赤茶色である。銅葺きなら緑青で薄緑色になるのではないかと思ったが、綺麗な緑青になるには10年以上はかかるようなので、開港から2年を経たころなら当初のあかがねの光沢は消え、目立たない茶褐色になっていたはずだ。銅瓦にはほぼ純銅が使われたようなので、合金である10円玉とは多少異なるだろうが、色味は似ているはずだ。  

 翌文久2年に刊行された横浜のガイドブック『横浜開港見聞誌』では、「また本町四丁目には中居という見世あり。座敷は異人のこのみにまかせ、中庭へ小鳥をはなち、金あみをもて天井四方をかこい、風流なるはびいどろにて壁の内をはりて、水をいれて金魚のここかしこに遊びてめずらかなり。この座敷に二尺余の四足台に横一尺七八寸、竪六七寸の箱をおきてあり。これはヲルゴルの大なる物にして、最もその音色美にして高し」と書くが、なぜか銅瓦については一切触れていない。  

 こうした傍証にたいし、銅瓦を葺いたために罰せられたとする記述も散見する。野史台隠士著『中居屋尊皇驚異記』は、西川武臣氏が問題視しておられた作品で、原文を読めていないが、ここに神奈川奉行の赤松左衛門尉範忠が「銅瓦で屋根を葺くなど分を越えた奢りである。五日間の閉店謹慎と早々に銅瓦を土瓦に改めることを申付け」たと書かれていた(荻原進『炎の商人』に引用)。萩原氏は1949年に群馬文化協会から刊行した『中居屋重兵衛:横浜開港の先駆者』で、この一件が安政6年7月27日だとするほか、『炎の商人』では銅製品が禁制の輸出品となったのは同年9月4日だったとする。野史台隠士の著書では、5日間の閉店の命令に中居屋が毅然と抗議したことも記されているようだ。ただし、問題は赤松左衛門尉のこの記録の出所が不確かで、赤松自身が神奈川奉行になったのは同年8月28日であるという齟齬があることだ。 

 佐佐木氏は、このとき主人の重兵衛の代わりに番頭の善助が入牢したと「日下恵」の記述から判断している。もっとも、「日下恵」は綴じる際に順番が滅茶苦茶になっているのか、日付順に並んでいないので何ともわかりづらい史料だ。表紙は「安政六年未六月吉日」で始まるのに、すぐに「二月五日六時半 和蘭陀五はんの人 弍人変死」と、安政7年のこの日に横浜居留地で起こったオランダ人船長殺害事件のことが記されている。そのあと12月27日夜と書かれた一連の記述があり、干鰯、銅、魚油、昆布、中物、水晶といった商品のあとに、「上田家中 長谷川宗次様 溝口喜三郎様/上田産物会所 江戸南新堀 支配人山崎由兵衛」と書かれている。長谷川と溝口の名前は、江戸詰めの上田藩士であることは、『上田藩松平家物語』から確認できる。南新堀におそらく何らかの事務所があったのだろう。 

「日下恵」では、そのあと一行置いて「中居親類之由 一 佐治治助様(悠輔) 二月四日御懸り」と書かれたあと、合原猪三郎と推定される人物を含む奉行所の役人が取り調べにきた記録があり、さらに一行おいてから「紀州御産物方」として人名および諸々の費用が並び、そこに「金壱分 牢屋小遣」「金壱両 善助 小遣ニ渡ス」などの記述が見られる。そのあとの日付は3月15日だ。ところが、しばらく行くと「安政七年正月四日」戻ってしまう。それでも、その先の3月4日にも「弍百文 牢屋小遣」、11日にも「金壱朱 牢屋」などとあり、さらに極月(12月)廿一日にまた「善助え牢見舞」と書かれている。諸々の情報を総合すると、安政6年12月27日に上田藩の産物会所の担当者が中居屋に赴き、同日、神奈川奉行所の役人もきて、善助が入牢し、牢屋で年を越して翌7年3月4日もまだ牢屋にいた、と考えると筋が通るが、どんなものだろうか。  

 中居屋の店の屋根に話を戻すが、屋根のほうも同じくらい情報は錯綜している。銅瓦だったのかチャン流しだったのか、横浜の歴史家たちは頭を悩ませたようで、『横浜市史』第2巻には「中居屋の建築は銅瓦の屋根で、『凡日本にはあるまじく』とうわさされたが、銅瓦はその筋から禁止され、檐口へのみ銅を張り、『其外はチャンを流し候由』」という折衷案を、大日本維新史料稿本が引用する『雑記』20からまた引きする。この『雑記』は見つけられていない。  

 悩ましいことに、万延元年(1860)正月5日に大番頭の松田玄冲が故郷の飯沼村名主、吉池文之助に書き送った書簡にも、「旧冬中ハ由之助様御出府之処、長々之御滞留御案事可被遊と存奉候、中居屋重兵衛義も張銅一条ニ付、閉店被仰付、夫故ニ由之助様江御勘定不埒ニ相成」などと書かれている。その1で言及した『蚕都信州上田の近代』のなかの西川氏の論文にこの書簡の全文が翻刻され、「手紙には、営業停止の理由が『張銅一条』にあったと記され、店の屋根を銅葺きにした店の普請が、あまりに華美であったことが幕府の怒りに触れたとある」と解説されている。  

 しかし、その他の史料から判断すると、中居屋は前年10月、遅くとも11月には営業停止命令を受けていた可能性が高く、重要な取引先である飯沼村に生糸代が未払いの状態のなか、とりあえず現状報告した書簡だという事情を考えると、なぜいまだに銅瓦なのかという疑問が湧く。銅瓦は葺き直したか、檐口だけではなかったのか。  

 一世紀以上にわたって、代々の歴史家が頭を悩ましてきたに違いない銅瓦問題だが、中居屋重兵衛が実際に幕府から咎められていた根本の問題を、関係者がひた隠しにし、「張銅一条」と誤魔化したための混乱だった可能性はないのだろうか。つまり、中居屋の店の屋根は、当初から三井の手代が書いたように、あるいは中居屋の手代が晩年に語ったように、3cm厚の板の上に麻を張ったチャン流しだったのであり、開店から数カ月で閉店させられるあいだに、屋根を張り替えるような大工事をする余裕はなかったのではないか、というのが私の素朴な疑問である。次回は中居屋が営業停止になった状況を整理し、中居屋をめぐる謎の本質にいくらかでも迫れれば、と思っている。

(左)『開国の先駆者:中居屋重兵衛』(佐佐木杜太郎著、新人物往来社、1972年)この本の表紙は、中居屋の紋である丸内に三本立算木という変わった紋と、実家の黒岩家の剣花菱の家紋がエンボスされた布貼りであることに、いまさらながら気づいた。
(右)『新版 炎の生糸商 中居屋重兵衛』(萩原進著、有隣新書、1994年)

2026年10月10日土曜日

中居屋重兵衛その1

 ようやく本業に専念できる状況になったはずなのに、少し前に横浜の歴史を見直したことをきっかけに、思いがけない発見や、ずっと引きずってきた疑問等が多々あり、結局、幕末史からなかなか抜け切れずにいる。先日、近所の歴史を調べるために久々に中央図書館に行った折に、ヨコハマ資料の書棚で『蚕都信州上田の近代』(阿部勇・井川克彦・西川武臣編、岩田書院、2011年)を借りてしまったのが運の尽きで、そこから中居屋重兵衛について再々度調べ直したりしている。きちんと一つにまとめる余裕も気力もないので、頭のなかのメモリーを食っている問題を小出しに備忘録代わりにブログに書いておく。

  取り敢えずは、以前にブログに書いた桜田門外の変と中居屋重兵衛のかかわりについて。この問題について西川武臣氏が、中居屋が水戸浪士と一緒になって事件に深くかかわったとするのは、昭和初めに野史台隠士と中里機庵が書いた俗説に過ぎず、「確かな資料が新たに発見されない限り」事実ではないと断定しておられることへのささやかな反論だ。西川氏は、私がこの件について最初に読んだ佐佐木杜太郎の『開国の先覚者 中居屋重兵衛』(新人物往来社、1972年)を、「俗説に基づき記された部分も多く、間違いも多い」と評価しておられない。確かにこの時代に書かれた歴史書の多くは、出典が記されておらず、読者は真偽を確かめようがない。それでも、中居屋については当時日本にいた外国人も多く書き残しており、傍証はいくらでもあると私は考え、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも多少触れたほか、残った疑問点は何度かブログにも書いた。

  また、近年、ネット上の情報も増えたし、国会図書館デジタルコレクションが拡充したおかげで、古い多くの史料を誰もが家にいながら検索できるようになったために、数日間調べただけでも、じつに多くのことが判明した。まず、西川氏が問題視した野史台隠士と中里機庵は同一人物であり、本名は中里右吉郎であることだ。明治29年の官報などで同名の人物が大分県士族としてヒットするので、中津藩士またはその子孫の可能性が高い。佐佐木氏の著書から私が信憑性の高い証拠と思った林鶴梁(1806-1878)と福井藩の村田氏寿(1821-1899)の対話は、明治10年までに両者が接する機会があれば不可能ではなく、中津藩士の中里氏が横浜開港期の福沢諭吉の足跡を調べるなかで中居屋に出会ったとすれば、村田氏寿から当時の秘話を聞きだすこともまったくありえない話ではないだろう。

  今回、中居屋について調べ直すなかで、上田市飯沼地区についての論考や史料を多数読むことができた。飯沼村は実際には上田藩領ではなく、岩村田藩領(藩主内藤正縄)であり、そこの名主である吉池家は、嘉永4年から信州糸を集荷し、上州商人に販売していたという。中居屋の大番頭だった松田玄冲は飯沼村の出身で、焔硝(硝石)の商売を通じて中居屋と知り合ったと考えられている(阿部勇『信濃』63-3-734、2011年)。

 吉池家当主、文之助の息子、由之助が父親宛に安政7年3月10日に桜田門外の変について実行犯をはじめ、事件の詳細を書き送っていることが、上田の歴史家阿部勇氏によって明らかになっている(詳しくはこちらで)。 3月3日に生じた事件については、閏3月晦日まで公表されずにいたことを考えれば、由之助がこれだけの情報を得ていたということは、中居屋が事前に水戸浪士と深い関係にあったことの十分な証左となる。

  佐佐木氏の著書には、桜田門外の変の知らせを受けて中居屋が歓喜した一件が綴られている。一人娘たかの初節句の祝いの席だったという描写で、肝心の情報源が書かれないまま、ドラマ仕立てになっていたが、これは長野県小県郡祢津村新張出身の中居屋の番頭、小林七次郎が昭和4年の『群馬県吾妻郡誌』で語っていたことは、萩原進の『炎の生糸商 中居屋重兵衛』からわかる。中居屋は前年10月中旬には幕府によって閉店させられたと思われ、上田藩が11月下旬には産物世話役を処罰していることは、本書および横浜開港資料館紀要9の西川氏論文から判明している。翌安政7年に、手持ち無沙汰の中居屋は雇人7、8人を連れて郷里の中居村に帰り、その後草津温泉でも数泊している。3月3日のお祝いの席に江戸から知らせが入ったのだとすれば、横浜で聞いた可能性が高いと思われる。ただし、『群馬県吾妻郡誌』は読めておらず、萩原氏の引用文からは、それ以上に詳しいことはわからない。 

 ついでに、『NHK歴史ドキュメント3』(1986)という書が国会図書館デジコレでヒットし、ざっと読んでみたところ、桜田門外の変で使われた拳銃、コルトM1851についての一応の分析が出ており、中居屋重兵衛の子孫の手元にある銃はそれをもとに日本でつくられた青銅製のもので、施条(ライフリング)されていないとしている。近年も桜の花が刻まれた日本製の拳銃が使われたという説をテレビ番組で報じていたようだが、私はこの説には懐疑的だ。中居屋に銃を売ったのはアメリカ人ホールと言われており、なかには「エッチ・ホール」とする記述もあったが、開港当初から横浜にいて、ウォルシュ商会にいたジョージ・ホール医師(ミドルネームはロジャース)と私は考えている。日記を残したことで有名なフランシス・ホール(ミドルネームはフランク)は、ジョージとも懇意だったが、神奈川に住んでおり、彼の日記も桜田門外の変について3月26日には書かれているが、拳銃の提供者とは考えにくい。

  取り止めのない記事になってしまったが、中居屋と桜田門外の変は関係があるはず、という私の従来の主張の裏付けとなれば幸いだ。中居屋に関する西川氏の論文には多くの貴重な情報が含まれており、それらを参考に、中居屋が拳銃を提供することになった動機という、より重要な点についても、追々まとめてみたい。

『蚕都信州上田の近代』
阿部勇・井川克彦・西川武臣編、岩田書院、2011年

2026年9月15日火曜日

『現代日本の庭園100年』

「日本庭園はお好きですか?」  
 そんな問いから、この仕事は始まったと記憶している。私は風流とは程遠い人間で、庭園よりは自然の野山を歩き回るほうが好きなタイプなので、正直言いえば、答えに窮した。しかし、原書の概要を読んでみると、何やら不思議な作品ではあった。外国人が書く現代に息づく日本庭園の豪華ヴィジュアル本なのだ。著者スティーヴン・マンスフィールドは、日本に長らく住み、日本文化に造詣が深く、『ニッケイ・アジア』の定期寄稿者とのことなので、ご存じの方も多いかと思う。  

 古くはラフカディオ・ハーンのように、あるいは故ドナルド・キーンのように、日本人以上に日本文化の本質を捉えていた外国人もいたし、近年は日本のアニメや漫画、ゲーム、小説などが海外でも幅広く親しまれたおかげか、ウィアブー(Weeaboo)とかウィーブ(Weeb)などと呼ばれる日本オタクのなかには、若い外国人でも驚くほど日本をよく知る人が増えている。  

 日本庭園の知識など皆無に等しかったし、学生時代に造園学の授業を受けた娘が、夢窓疎石がどうのこうのと言っていた記憶はあっても、当時の私には馬の耳に念仏で、頭には何も残っていなかった。たまたま、スケジュール的に待ち時間ができてしまったときでもあり、腹を括って引き受けてみることにした。したがって私にとってこの仕事は、紙上で日本各地の庭めぐりをしながら、日本の庭園文化を猛勉強する機会となった。著者がたびたび言及する平安時代の庭園書『作庭記』や『後楽園記事』なども少しばかり読んでみたし、大名庭園や小川治兵衛の本などは図書館で借り、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』や、アレックス・カーの『もうひとつの京都』も読んでみた。 

 もちろん、読めば自分の目で確かめたくなる。のんびり休暇を取って本書で言及される津々浦々の庭園を訪ねる余裕はなかったので、近場ばかりだが、柴又の山本邸、小石川後楽園、湘南台文化センター、根津美術館などを訪ねたほか、用事のついでに安田庭園や向島百花園、国立博物館の庭園をぶらつき、長野に行った折にはホテル犀北館に重森三玲の孫、青作氏が作庭した庭があるのを地図で見つけて訪ね、なかに入らせてもいただいた。

  少しばかり勉強したくらいでは、「石の乞はんに従ひて」などという奥深いことはまるでわからない。別に有名な庭園に巨石を見に行かなくとも、八ヶ岳の登山道には見上げるような巨石がいくらでもあるのに、とつい考えたくもなる。遠方から水を引いて遣水などつくらなくとも、苔むした岩のあいだをせせらぎが流れる場所もそこかしこにある。巨石のあいだを通り抜けるときなどは、その岩がそこまで転がり落ちた時代を想像せずにはいられないし、汗だくの体を冷やしてくれる水に手を浸せば、自然の恵みに感謝したくなる。

  しかし、日常的に山を歩くことは、山小屋の番人や歩荷にでもならない限り不可能だ。日本の庭の起源を、平安の寝殿造の庭どころか、磐座や賽の河原(と思われるもの)、斎庭や佐庭、結界などにまでたどる本書の説明を読みながら、日本の庭園は自然界の驚異を身近な空間に、いわば作庭家が神に成り代わって再現したミクロコスモスなのかと考え直すようになった。西洋やイスラームの庭園の多くが、人間が自然を支配した象徴として幾何学的で秩序や規則性を感じさせるのにたいし、日本の庭園は不規則な曲線だらけだ。一見すると適当に石を転がし、植栽を配置しただけに見える庭もある。砂利に箒目をつけた、ミニマリズムの抽象画のような石庭ですら、左右対称であったりはしない。「道教の非対称のバランス概念に則した奇数」が、日本の庭には随所に見られるようだ。収まりのいい、割り切れる偶数でなく、危ういバランスを保つ奇数は、所詮、人間のやることは自然には敵わず、諸行無常という感覚に通ずるのかもしれない。落ち葉を掃き終えた庭に、千利休がわざと数枚の葉を散らし、不完全さと自然の揺るぎなさを思いださせたという、本書で紹介されるエピソードには、庭園の美学だけでなく、自然にたいする日本人の哲学が凝縮されている。 

 飛び石の配置にも意味があることはそれなりにわかったし、庭園内をめぐる「延段」の通路が、来園者に決まった経路を歩かせ、草木や築山による「見え隠れ」の技や、目の錯覚も利用して、さながら遊園地のアトラクションのように、実際よりも広い場所に感じさせていることなどは、なるほど!と納得するものがあった。庭園という世界で、古代から人びとが再現しようと思ってきたものや、決まり事がわかり、作庭家の意図や遊び心が見えてくると、近所を歩いていても、この家の石垣の青石はどこのものだろうとか、お隣の家の車庫前のあれが光悦垣かとか、小石を固めた雷おこしのような敷石部分も一種の延段かとか、このお寺の裏山斜面の植栽は本書の表紙にも使われた林昌寺の坂道の庭そっくりだとか、いろいろ見えてきて楽しくなる。都内ですらなかなか行けないので、「垂直」の庭がある丸の内オアゾやGINZA SIXの屋上庭園もまだ拝見していないのだが、似たような「垂直」の庭なら根津美術館に行く途中でも見たし、そもそも近所の駅の入り口や、地下通路にすらある。何気ない意匠や工夫に込められた意図がわかり、それもまた古来脈々と受け継がれてきた文化の一端なのだと思えば、凡庸に見えた日常の光景が違う目で眺められるようになる。 

 伝統の様式を安易に踏襲することには、著者は批判的だ。傑出した作庭家には斬新な創意工夫が見られ、そこから新たな伝統が生まれてきたことも本書は伝える。表面的な様式にこだわるのではなく、根底に流れる精神や哲学ということだろうか。幾何学的な形状だけでなく、自然素材でないものを庭の景物として採用した事例や、極端な例では豊島の横尾忠則の原色の庭などにも本書は紹介する。個人的には那須にあるアートビオトープ那須の「水庭」に心を惹かれたが、ここは維持管理費の問題か何かでいったん閉鎖され、いまは「無垢の音」として一部改修して公開されているようだ。まるでナルニア国の『魔術師のおい』に出てくる「世界と世界の間の林」が目の前に広がったような光景だが、かつてそこにあった水田の取水口の仕組みを利用したものという。庭園の多くは、水という最大の資源の管理のわざを見せているのだと思う。

 明治維新後、接収された武家屋敷の敷地が解体され、桑畑や茶畑となったという一文は、訳しながら複雑な心境になった。生糸と茶は、開国した日本が世界に売ることのできた二大品目であり、こうした動きは桑茶政策と呼ばれる。広大な大名庭園の維持管理は、それだけの財政基盤がなければできない。明治期に土地利用がどう変わったかは長年の私の関心事の一つでもある。 

 本書に寄稿する禅僧の作庭家、枡野俊明氏は、心に庭をもつように、小さくてもいいから自分の庭をつくりなさいと助言していることで知られる。うちのアパートの草ぼうぼうの庭を何とかするだけの気力はなかったので、昔バードバスに使っていた大きな鉢皿にミニチュア苔庭をつくることにした。道端や庭のコケなどを集め、そこにあちこちで拾った石を少し置いただけのものだ。東福寺の重森三玲の市松模様の庭を真似て、山で孫が拾ってくれた四角い平らな石も並べてみた。『鬼滅の刃』の炭治郎だ!などとも言われているようだが、幾何学的な四角い石と苔の配置は西洋的なモダンさを感じさせながら、不規則であるために動きがあり、どこかエッシャーの「昼と夜」をも思わせる不思議な魅力がある。古い茶筅を引っ張りだしてきてお茶を点てて、ミニチュア「苔庭」の前でしばし無心のひとときを過ごし、眠気もなくなったところでまた仕事に戻ったりもしてみた。 

 植物が大好きな孫はこの苔庭が好きで、うちにくるたびに真っ先に寄って霧吹きでシュッシュッと水やりをしてくれているのだが、コケは暑さにも日差しにも弱く、どんどん勢いがなくなった。じつは本書の仕事は昨年末には終わっていたのだが、発売が今月下旬となったため、次に取り組んだ『回転の科学』のほうが先に刊行されることになった。苦手な物理に頭を悩ましているあいだに、うちの「苔庭」では下に敷いたテラリウム最適用土なるものに入っていたと思われる胞子から、いつのまにか前葉体が出現し、シダが生えてきた。画像検索からすると、ヒメカナワラビとイノモトソウかその近縁種だろうか。まだ胞子はできていないので、取り敢えずこのまま様子を見るつもりだが、「苔庭」ならぬ「羊歯庭」があまりにもジャングルになったら庭に移すつもりだ。  

 画像ではよくわからないだろうが、本書は手に取るとずっしりと重い。コーヒーテーブルも、見栄えのする本棚もないわが家では置き場に困るほどだ。それでも、くつろぎのひとときにパラパラとめくっていただければ、次の休暇に訪ねてみたくなる場所がいくらでも見つかることを請け合おう。退職して悠々自適の身となられた方であれば、ぜひお手元に一冊置いていただきたい。本年になって出版業界を取り巻く事情は厳しさを増しているという。紙代、インク代、運送費、いずれもが値上げとなるなか、こんな豪華本を刊行してもらえたことを感謝している。

『現代日本の庭園100年』(スティーヴン・マンスフィールド著、河出書房新社)
左:原書 右:邦訳版

柴又の山本邸。昭和初期の建造だが、庭の造りは明治初期に尾張の徳川慶勝が撮影した瓦町の屋敷の庭とよく似ていた

小石川後楽園。庭園内の「見え隠れ」を楽しんだあと、現代の「借景」となってしまった文京区シビックセンターの研究会に参加した。東京ドームは曇り空では思いの外目立たないが、騒音がひどい

湘南台文化センター。水は流れていなかったが、平成初期の近未来の不思議な空間はまだ結構楽しめた

根津美術館の庭。カキツバタの時期に尾形光琳の屏風とともに見てきた。丹南藩下屋敷跡の庭は都心とは思えない空間だったが、あいにく隣が大工事中でここも騒音がひどかった

2026年9月12日土曜日

『老中松平忠固史料集』

 昨年7月に刊行された論文集に次いで、「老中松平忠固と生糸貿易研究会」からこのたび『老中松平忠固史料集』(岩下哲典編、吉川弘文館)から刊行された。史料集は、研究会メンバーが4年にわたる活動のなかで掘りだした、これぞと思う史料を集めた第I部と、忠固の老中日記からの抜粋である第II部、および水戸・越前・彦根という雄藩の史料に描かれた忠固の比較検討表で構成されている。

 第II部の忠固日記は、この史料集の目玉と言ってよい部分で、これは鈴木乙都氏が中心となって実現した。東大史料編纂所データベースで写本の画像が見られるとはいえ、一コマずつ細切れに見ていく作業は見やすいとは言い難い。『昨夢紀事』の饒舌さとは対照的な忠固日記だが、そこに書かれたことも、書かれなかったことも、日本の開国史の重要な時期に忠固が幕政の中心にいたことを考えれば、重要な意味をもってくるはずだ。老中日記の翻刻という試み自体が、ほとんど類を見ないものだそうだ。

 第I・II部の多くは、史学者も知らない、またはよく調べたことのない史料であり、雄藩の公刊史料のほうは逆に、史学者なら一度は目にしているはずのものだ。ところが、そこでは忠固は「敵」や「悪者」や「無能な老中」とされていたために、史学者も彼の存在に気づかないか、興味が湧かないままに、歴史の脚注に葬り去っていたに違いないものだ。この比較表は、関良基先生の労作だ。論文集に輪をかけて高額の本となってしまったが、研究者の方々や全国の図書館が購入してくださることを願っている。

  研究会は通算47回にわたったとのことで、基本的には毎月1度のオンライン会議だった。メンバーはそれぞれ独自の仕事や研究をかかえた人ばかりで、皆勤賞は、なかでもとりわけご多忙な会長の岩下先生くらいだったのではないだろうか。この間、たいへんなご苦労があったと思う。

   研究会の活動で何よりも貴重な体験となったのは、上田市立博物館と上田市立上田図書館で史料調査をさせていただいたことだった。上田にはかなり大量の史料が残されている。なかには虫食いのひどい分厚い史料もあったが、細い筆で書き込まれた墨の文字は200年近く前のものとは思えないほど黒々とし、和紙はまだ十分に形状を保っていた。博物館に収蔵されるまでに、誰によってどこで保管されて、今日まで残ったのだろうかと、ページをめくるたびに、包み紙を開くたびに、どきどきした。そんな体験を少しでも伝えられたら、という思いもあって、私自身は史料集に3点(掲載した画像としては4枚)の絵図を選んだ。 

 そのうち2点は京都のもので、上田藩と京都とのかかわりが何かしら見えてくるのではと期待してのことだった。1枚は上田藩の京都藩邸、もう1点は黒谷金戒光明寺の塔頭、歓寿院の絵図で、どちらも現存はしない。しかし、いずれも上田の領主となった藤井松平家が、上田に移る以前から、幕末まで維持しつづけていたものだった。他藩と比較することはできないが、それなりに特殊なかかわりだったのではないだろうか。 

 残る1点は、江戸の中屋敷で、忠固の没後に上屋敷となった隅田川沿いの瓦町藩邸の複数の絵図だ。瓦町藩邸は、私の高祖父がいた場所でもあったため、これまでに何度かコウモリ通信にも書いている。今回、史料集に掲載するために改めて調べたところ、すぐ近くが浅草御蔵で、藩邸の敷地内に入り込む形で入っているのが、その関連の御書替役場であること、藩邸のある場所が富士見の渡し場であり、南隣りの茅町には浅草代地河岸があり、柳橋芸者でも知られた繁華街であったことなどがいろいろわかってきた。要は交通の要衝であり、浮世絵にもこの一帯は数多く描かれていた。 

 絵図といっても、通りに面した狭い2箇所の入り口の複数の門の図や、内部の居住空間の大まかな平面図しかない。だが、そこに書かれた細かい文字を読み取ると、門の間口が12メートルほどであることや、見張りが常駐していたはずの番所や、非常口と書かれたくぐり戸があること、表通りとのあいだには下水が流れていたことなどがわかる。平面図には長屋がずらりと並ぶ様子が描かれている。江戸詰めの藩士は「家族を国元に残し、江戸の藩邸内の割屋・長屋に住んでいました」という『上田市誌歴史編 城下町上田』に書かれていた説明どおりなのだ。少し小ぶりの建物があったので、共同の「厠」かと思い、写真を拡大してみたら、「厩」であることがわかり、嬉しかった。 

 あれこれ眺めるうちに、いつもの悪い癖で、その門をつくってみたくなった。紙工作に始まり、少し進化してアイスの棒細工に、最後はレゴにまで手を出して、タン色のブロックやタイルをいくつも購入してしまった。1作目では門を開け閉めてしては、番所の兵士との会話を楽しんでいた孫も、レゴの門ができたころには「好きだね」と呆れていた。紙細工の門の前に立つ菅笠に野袴姿のおじさんは「大坂入城行列図」の絵巻のなかに見つけた高祖父を模したものだ。これも、3年前の史料調査で閲覧させていただいた。今回の史料集では、忠固が大坂城代に就任した弘化2年の同じ行列のものだが、絵巻とは別の行列帳の史料が、宮崎航平氏によって翻刻・解説されている。 

 私は絵図のほかに、短い老中書簡も2通、掲載していただいた。1通は、私が忠固について調査を始めた当初、『幕末外国関係文書』で見つけたハリスへの見舞い状で、卵300個を贈ったという目録が強烈で覚えていたものだった。冷蔵庫のない時代に、300個の卵を一度にもらったのか? 毎食、巨大オムレツをヒュースケンと2人で食べても、食べきれないぞ、などと想像して笑ってしまったものだ。ハリスがアメリカにもち帰った老中書簡の現物が、彼が設立したニューヨーク市立大学シティ・カレッジに残っていることがわかり、研究会に決して安くはない費用を負担していただいて、海を渡った老中連署の書簡の画像を史料集に含めることができた。残念ながら、卵の目録のほうは見つからないようだった。いつか誰かが現地でもう一度、探してくれることを願っている。 

 もう1通の書簡は、堀田正睦宛の老中書簡で、国会図書館のマイクロフィルムで明治期の写本は確認できたが、現物はあいにく見つからなかった。それでも、将軍継嗣問題に言及した重要な内容のものなので、忠固の立場を理解するうえで、いま一度、しっかりと読み返していただきたいと思い、敢えて加えてもらった。この問題に関しては、4年を経たいまも、研究会のメンバー内で意見の一致を見ていない。お互い、「推し」の歴史上人物があり、どの立場に偏って眺めるかで、結局、「藪の中」状態になるのが歴史という学問の宿命なのかもしれない。 

  昨日、史料集の刊行を記念して、研究会の活動の集大成となるお披露目会があり、私も参加してきた。昨年刊行の論文集にたいする佐藤隆一先生による詳細にわたる書評会があったあと、忠固のご子孫の方や上田の方々、関係の深かった地方からの方々、史学者など、大勢の方が参加してくださった史料集の記念講演会があり、そのあと丸ビルの高層階にある高級フランス料理屋に場所を移して、コース料理をご馳走になった。松平忠固の研究会が発足するきっかけをつくり、研究資金をご提供くださった東方商館の本野敦彦社長の奢りだった。上田藩は忠固の老中時代は西の丸下の役宅を上屋敷としており、36階のレストランからは、皇居一帯が見下ろせるという粋な計らいだった。これまで上屋敷の正確な場所を確認したことがなかったが、嘉永5-6年の大名小路の絵図によると、いちばん坂下門寄りが松平伊賀守だったようだ。左手に見えるのが桜田門だ。私の高祖父は幕臣とトラブルになって馬で逃げた際に、「桜田門内に駆け付け役屋敷を三匝して塀を乗り超えて邸内に」入ったらしいので、その光景も想像してにやりとしてしまった。 

 本野氏は20年前に、歴史の闇に完全に埋もれていた松平忠固を貨幣史の研究中に見出し、それ以来、忠固を世に知らしめるためにドラマ化を目指して奮闘されてこられた。その熱い思いがついに映画化のプロジェクトとなり、来年末公開を目指して動きだしているという。昨日は映画の関係者の方も何人もこられて、夕食会も大盛会となった。  

 本業だけでもいつも締切りに追われているので、慣れないことばかりのこの4年間は私にとっても本当に苦しい日々だったが、途中で投げだすことなく、ひどく足手まといになることもなく、何とか役目をはたすことができて肩の荷が下りた気がする。研究会の活動を通じて学んだ多くのことを、今後は気ままに、自分の好きな研究活動に応用していきたい。
 
上田藩瓦町藩邸の表門外取締門の①紙工作物

②アイスクリームの棒工作物、冠木門に屋根を付けた図

③レゴ・バージョン

丸ビル高層階からの眺め
「
大名小路内桜田神田橋内京橋南北図」東京都都立図書館 https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000013-00042225

2026年7月31日金曜日

『回転の科学』

   昨秋から取り組んできた拙訳書『回転の科学』(ローランド・エノス著、河出書房新社)の見本が送られてきた。この数年、何やかんや二年越しになる仕事が多かったなか、この作品はありがたいことに比較的順調に進んだ。原題はThe Science of Spin:How Rotational Forces Affect Everything from Your Body to Jet Engines to the Weatherという。著者は生体力学を学び、マンチェスター大学とハル大学で教えてきた人だが、邦訳出版された前著『「木」から辿る人類史』(水谷 淳訳、NHK出版)からもわかるように、研究範囲は驚くほど広い。 

   リーディングを依頼された際に、これは面白いかも!と直感したのだが、じつを言えば、本書のテーマである物理は私の苦手科目の一つだった。長らく、翻訳の仕事を引き受けるときも「数学と物理以外であれば」と、いつも条件をつけていたほどで、それが少しずつ変わったのはフェイガンの『水と人類の1万年史』(河出書房新社、2012)で水車の魅力を知り、ダートルネルの『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(同、2015)で回転機械の仕組みをいくらか理解したころからだろうか。気象学、気候科学や物理学史の著作に携わった経験も、「物理は苦手」という私の意識を少しずつ変えてくれたかもしれない。幸い、本書の著者は、物理が過度に数学に依存してきた弊害があると考え、数式を避けて読者に直感でわかる物理的な説明を心がけてくれている。 

   とはいうものの、本書が扱う分野は工学分野にとどまらず、第1部は宇宙物理学、第3部はスポーツ科学という、私の未経験分野も含まれている。内向きの向心力のような目に見えない力や、歳差運動のような方向がどんどん変わる運動を、三次元空間で思い描く能力が私にはいちじるしく欠けており、宇宙空間の事象ともなれば、どっちを向いて、どの方向に回っているのかわからなくなる。 

 ありがたいことに、今回はChat GPTという強力な味方がいたので、何度も質問を繰り返し、図示してもらい、どうしてもわからない疑問点を一つひとつ解決していった。インターネットすらろくに使えなかった時代から考えれば、翻訳を取り巻く事情も何と変わったことか。AIのデータ処理に大量のエネルギーと水が使われ、それが人類の新たな深刻な脅威となっていることをこれまでいくつもの訳書で学んでいたので、少なからず後ろめたさはあった。それでも、私に可能な限り正確に訳し、本書を世に送りだすことには意義があると、自分を納得させることにした。はたしてうまく訳せたのかどうか自信はないが、通常はお茶を濁した説明で終わっているという猫捻り問題などもしつこく質問したので、AIも呆れたのか、「そこまで理解していれば、大学の物理学科に入学できます」と、最後にはお墨付き(?)を頂戴した。高校時代に本書を読む機会があったならば、私の人生の進路は変わっていたかもしれない。 

   回転技術・機械を扱った第2部は、多少馴染みがあったせいもあって、楽しく訳すことができた。ガーンディーがインドの独立運動の象徴として使いつづけた紡ぎ車チャルカが、産業革命前の時代の人力で動く装置の頂点だという本書の指摘を読んだあと、その簡易版のようなブック・チャルカを自作してみたほどだ。実際、人間がつくった機械の多くは繊維製品をつくるためのものであり、なかでも綿や絨毛のような短い繊維を撚り合わせて糸をつくる製糸技術に、人の知恵が凝縮されていることを本書でたびたび実感した。 

 綿花から種を取り除くために日本で古くから使われている綿繰り機は、本書で言及されている12世紀インドの発明品と同種のものであることを発見して驚いた。しかも、ペリー艦隊の再来航時、横浜に下見のための上陸した際に、通訳として同行したサミュエル・ウィリアムズがそれに注目していたのである。1854年1月21日(嘉永7年1月21日)、午後の3時15分になって突如、香山栄左衛門が応接場として横浜はどうかと言いだしたときのことだ。「木枠に二個のローラーを組み合わせ、それぞれの先端に短いスクリューを取り付けて、これを相接して回転させることにより、種子から綿をはじき出す機械を見つけた」と、『ペリー日本遠征随行記』には書かれていた(洞富雄訳)。二つのワームギアを組み合わせると、どういう動きになるのか実際に試してみたいのだが、これはまだ実行できていない。 綿の繊維を揃える作業では、日本では綿打ち弓が使われていたが、欧米の羊毛産業ではカーダーが長らく使われ、やがてこの作業も回転装置で機械化された。私は100均でペット用の毛梳き器を買って試してみたが、糸がスムーズに紡げるほどには上達していない。 

   本書を訳しながら、レゴで多数の作品をつくってみたことは、すでに「コウモリ通信」でも何度か書いた(たとえばこの回 やこちらの回)。ごく最近になって、レゴのボッチは定間隔なので、織機もつくれそうだと試してみたものの、綜絖(そうこう、ヘドル)にする手頃なパーツが思い当たらず、取り敢えず片道だけは綜絖を滑車で上下し、シャトルを許せる速度で動かせるものが出来上がった。せっかくタイルをはめて杼摺(ひずり)にしたのに、「飛び杼」ならぬ「這い杼」くらいの速度ではあるが、子どもが織物の原理を知るにはよさそうなものだ。 

 最も単純な作品は、世界初の機械だというはね釣瓶、シャドゥーフだ。このごくシンプルな装置でも、ピボットにどのパーツを使えばよいのか意外に悩まされた。しかも天秤となる短いほうの軸の先端に、汲み上げる水と同程度の錘をつけることが肝心であることは、つくってみてから理解した。 

 いちばん試行錯誤したのは、水車場と通常、私は訳している水力利用の工場、millだろうか。上斜式にすれば少量の水を流すだけで水車を回せるのではないかと思ったのだが、水の重力エネルギーが無駄な抵抗を受けずに推進力に使われるような仕組みをレゴで再現するのは、私には難しかった。かなり高い位置からそれなりの水量を流せば回るには回るのだが、水がもったいなので、諦めて手回しすることに。それでも、大きさの異なる歯車を組み合わせて回転速度を変え、ベベルギアやワームギアで回転方向を変え、カムやクランクで往復運動に変換させることなどは挑戦でき、若干のパーツをつけて石臼や蜂蜜用の遠心分離機、製材所、縮絨器(というより餅つき器)のようなものもつくった。 

「指南」という言葉の語源が、古代中国の指南車にあったことを本書で知り、差動歯車の仕組を理解しようとネット検索中にレゴで指南車をつくった人を見つけ、それを参考にして、上に仙人のようなミニフィグを乗せて、同じ方向を指しつづける装置をつくったこともある。

 人間の動きは歩く、走るを含め、多くが回転運動であるという本書の指摘から、坂道を自重でカタカタ歩く玩具なるものも挑戦してみたのだが、適度な重さが必要らしくレゴではうまく再現できず、ハンドルを回して歩くオウサマペンギンのようなものに改造した。ところが、足が回るだけで「歩いているようには見えない」と孫に一蹴され、上体を揺らす工夫をしてみたが、このプロジェクトはそこで頓挫している。

 ブーメラン、スリング、コース・フィッシング用の投げ棒、ブンブン独楽など、本書で言及されている道具も、その関連で思いついたヌンチャクや竹トンボとともに、紙工作などでお試し品をつくってみた。私もブルース・リーの真似をして遊んだ一人だったが、小学生のころにこうした遊びをもっと実体験していたら、違う世界が広がっていたのだろう。学生時代に一年ほどお遊びで通ったテニススクールで教わったことは、投げる、打つなど、私のあまり得意でないスポーツを訳すうえで、それなりに役立った。スポーツの専門家は、本書をどう読むだろうか。 

 だいぶ背伸びをして引き受けた仕事ではあったが、高校時代よりよほど勉強して取り組んだおかげで、多少は視野も広がった気がする。本書を手に取ってくださる方々が、私と同じくらい、いや、それ以上に、本書を活用してくださることを願ってやまない。

『回転の科学:宇宙・気象・エンジン・人体』ローランド・エノス著、河出書房新社、2026年 ペーパーバックのコンパクトな本です! 
自作のブック・チャルカ 実用性があるとは言えませんが……


レゴでつくってみた指南車


どんどん「機械」を付け足し、広がってしまった水車場

2026年7月11日土曜日

『英語病にご用心!』を読んで

 明け方、蒸し暑くて暗いうちに目が覚めてしまい、どうにも眠りに戻れないので、諦めて読みかけの弟の近刊、『英語病にご用心!:体験談から覗き見る語学の達人たちの舞台裏』(東郷公德著、開文社出版)を最後まで読み通した。インタビュー本なので、すらすらと読めるのだが、何しろ合計13人もの、各界の第一線で活躍する人たちが登場する。厚さ2cm強の軽そうな見た目のペーパーバック版ながら、実際には480ページ近くあるのだ。その分、読み応えは十分にあった。  

 もとはコロナ禍で、新入生向けにオンライン配信したガイダンス動画がきっかけだったそうで、本を執筆中という話をだいぶ前に聞きながら、いつまで経っても刊行されないと思っていたところ、当初の企画がいったん完全に潰れて、大量の原稿を抱えて飛び込み営業した末に、5年の歳月を経てめでたく出版に漕ぎ着けた、という汗と涙の結晶らしい。インタビューに応じてくださった方々や、あいだを取りもってくださった方々など、大勢の人を巻き込んでの企画なので、その間、さぞかし胃の痛い思いをしたことと思う。  

 弟は上智大学の外国学部英語学科で教えているので、インタビューした人の多くは上智の関係者であり、なかでも英語学科というやや特殊な環境が背景にある。弟は日本で教育を受け、県立浦和高校から英語学科に入ったため、帰国子女がやたらと多く、「休み時間に周りでみんな英語で話している!」状況に怖気づいた一人だったらしい。 私が出たフランス語学科も、帰国子女が多いという点では似たり寄ったりかもしれないが、入学前からフランス語がペラペラの数人は「スペシアル」組になり、フランス語の初歩の発音練習や会話練習は免除されていた。私たちその他大勢は、幼稚園のお遊戯さながらに身振り付きで、フランス語特有のリズムを習う訓練を延々とやらされたので、「r」の発音をなかなか習得できない人など、多少の優劣はあったにせよ、どんぐりの背比べ状態だった。 

 弟はのちに一年間、家族連れでイギリスに留学しているが、オーラルな英語力にはいまだに劣等感をもっているらしい。それなのに、シェイクスピアの研究者となり、よりによって古巣の英語学科で、日本語より英語のほうが得意な学生を相手に教えている。英文学科で教えれば、もう少しましだったのでは、とひそかに思っている。そんな英語学科の学生のあいだに「英語病」と彼がみなす症状が散見されることにたいし、長年、違和感、危惧感を抱いたあげくの作品のようだ。 

 もっとも、「英語病」の命名者は弟ではなく、本書最後に登場する精神科医の山下悠毅氏なのだという。山下医師は2012年12月に自身のブログで、英語も仕事もできる人に劣等感を抱き、「自分だって〝英語さえ〟できれば」と信じて疑わない人がいることへの警鐘を鳴らしていた。こうした人びとは被害者意識が強く、自分が報われないのは「親の育て方が駄目だったから」、「英語ができないから」だと思い込むのだそうだ。それどころか、「英語病」になると、英語を学ぶことが宗教の教義のようになり、むしろ「英語教」に近いのだと。山下医師と弟の「英語病」の定義が若干異なるように思うのは、弟がその進化系の症例を見ていて、山下医師はより一般的な挫折組の患者を診ているからなのかもしれない。

   いずれにせよ、うちの近所でも、小学校の下校時に校門前で英語塾のバスが子どもを迎えにきていたりするので、私の子ども時代はもちろん、子育て時代とも異なる英語学習熱の背景は見えてきた。英語で何かしらのコンプレックスを抱いた親世代が、自分の苦労や失敗を繰り返させたくないから、または子どもに恨まれたくないからと、英語塾通いを何よりも優先させているのだろう。だが、実際には、本書で多くの方が指摘するように、英語は道具に過ぎず、目的にはならない。まして信仰対象にはなりえない。 

 本書は英語教育だけでなく、日本の国語教育の問題にも多く触れている。古文・漢文はわりと好きだったのに、現代国語はちっとも興味をもてず、最後まで苦手教科の一つだった私にとっては、「言語技術教育」の普及に尽力されている三森ゆりか氏のお話には、共感するものが多々あった。「主人公はどう思いましたか?」とか、「感動したところを書きなさい」などと試験で問われるのが、とにかく嫌いだった。日本では「なぜ?」が軽視されているという件では、孫が「なんで?」「どーして?」を連発していた時期を思いだした。答えに窮して、帰宅後に理由をググって調べたこともあった。うちの娘夫婦はどちらも辛抱強く教えるタイプだが、弟もそうであったことを知り、だから「この子はこんなに理屈っぽくなってしまった」と奥さんに怒られたと読んで、光景を思い浮かべて笑ってしまった。ちなみに弟のところは英語学科の同級生同士の夫婦だ。

  ついでながら、「言語技術教育」の専門家でおられる三森氏に、一読した程度でこんなことを書くのは非常におこがましいのだが、Language Artsの訳語と思われる「言語技術」は、人の脳のなかで言語化される前の世界共通の部分とのことらしいので、「技術」以外の訳語を当てはめたほうがよかったのではないかと思った。実際、「言語技術」は、近年のAIの大進化を裏で支えるlanguage technologyの訳語として、ウィキペディアではまず検索される。両者に共通する面もあるのだろうが、こちらはコンピューター関連の用語だ。そもそも、「技術」という訳語は定義がやたら広い。日本語はそれだけこの手の語彙が不足しているわけで、私はいつも訳し分けるのに苦労している。じつは、scienceとtechnologyを混同する日本人があまりにも多いため、私は最近、後者の定訳だった「科学技術」から「科学」を省いて、「技術」をもっぱらtechnologyの訳語に充てている。そうなると、skillやtechnique、artsをどう訳すかという問題になり、さらにはそれに近い言葉としてabilityやcapabilityとどう区別するかなど、考えればきりがなくなる。三森氏の「言語技術」に関しては、インタビューを読む限り、「技術」よりも「能力」が近いように思い、「能力」を使いたくなければ、「言語術」でもよかったのでは、などと読みながら感じた。

   もう一つ、ついでながら、critical readingやcritical thinkingに関する考察もたいへん興味深く拝読したのだが、「批判的読解」とか「批判的思考」と訳すことの弊害を恐れて、横文字やカタカナ語のまま使っていては、おそらくいつまで経っても日本社会には浸透しないだろうと思う。大半の人は批判を非難と混同しているので、まずはその区別をつける必要がある。文章を批判的に、客観的に、さまざまな角度から読む訓練ができていないからこそ、好きか嫌いか、敵か味方かの二項対立になって終わるのだ。

   NHKニュースキャスターの有馬嘉男氏との対談では、村井吉敬先生の話題が出てきた。私も一年のときに一般教養で履修したはずと思い、成績表を探したのだが、卒業証書もろともどこかにしまい込んだらしく、見当たらない。経歴詐称と言われないように、暇になったら家探しをせねば! 弟の奥さんが村井ゼミだったことも本書で初めて知った。それまで欧米に向いていた目をアジアに向けさせてくれた濃い内容の授業だった記憶はある。感化されて、東南アジアに関連の活動で赴いた同級生も何人もいたが、当時、私の関心はもっぱらスキーに向いていたので、授業に出る以上の成果はなかった。

   弟の教え子で、ダンサーや国際交流イベント企画運営で活躍している知夏七未氏が、ミス・コンテストとNGOという異なる体験をつづけるなかで、救世主としてではなく、対等な友達として支援することの重要性を語っていたのも、どこか村井先生に通ずるものを感じた。

   弟がシェイクスピア研究者になったのは、確か安西徹雄先生の影響が大きかったはずだ。ほぼ同時期に同じ四ツ谷のキャンパスにいたのだが、異母弟で一緒に育っておらず、会うとぎこちなく挨拶する程度の間柄だったので、学生時代のことはよく知らない。私は小6か中学に入りたてのころ、ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』のサントラ盤LPを買って、わからないなりに何度も聴いていたので、やはり同じ授業を受けていた。その後、こんにゃく座のお芝居などではシェイクスピア作品をいくつか観たが、翻訳のなかの引用文としてシェイクスピアを訳さなければならなくなると、その場凌ぎで対応するしかない。演出家で翻訳家の小川絵梨子氏との対談で、バルコニーのシーンの会話がいかに訳しにくいか、弟が力説していたのも印象的だった。「ひとつの作品に対して色々な人の訳があると補完される」という小川氏の言葉に、こういう考え方は素敵だなと思った。 

  英語の落語で日本文化を海外に発信している立川志の春氏との対談で、シェイクスピアの『冬物語』の話で盛り上がっているのを読むと、いつかこの作品に限らず、英語落語なるものを聴いてみたいと思った。ただし、落語の世界は師匠との同化が求められるそうだ! 

  同世代に近い人が多いせいか、FEN(米軍のラジオ極東放送網)に言及している人も散見された。私は中学生から高校初めまでの数年間、毎週土曜の夜の『全米トップ40』を聴いていた一人だし、FENもそれなりにBGMで聴いていた。先日、亡くなったボニー・タイラーのヒット曲「It’s a Heartache」などがヒットしていた時代だ。 

『J-MELO』のチーフ・プロデューサーだったという原田悦志氏との対談で、音楽は歌詞を聴くのか、サウンドとして聴いているのかという議論は、うちでもよくするので面白かった。私は圧倒的に後者で、音楽のほうは間奏や低音までよく覚えていたりするのに、歌詞の意味はずいぶんしてから気づくことが多い。娘と孫は歌詞派だ。孫にいたっては、『メトード・ローズ』というピアノ教本で出てくるフランスの曲(Marie trempe ton pain)の歌詞を教えると、意味もわからないのに、驚くほどの記憶力でそれらしく覚えて歌う。ときどき「パン・マリ」が「たまり」醤油のようになっているが、フランス語っぽいリズムで歌えるのだ。こうした言語脳が発達する時期の外国語教育に関する考察は、残念ながら本書にはない。

「トリ」はやはり、弟の高校時代の同級生という宇宙飛行士の若田光一さんだろうか。私は若田さんが搭乗したISSを眺めていたので、余計そう思うのかもしれない。インタビューはヒューストンに滞在中の若田さんと2021年4月にオンラインで行なわれた。ソユーズ宇宙船はいまもISSに向かい、カザフスタンの草原に帰還しているので、言われてみれば当然なのだが、「ロシア語は宇宙飛行士の必須言語」なのだそうだ。若田さんのロシア語習得までの涙ぐましい努力を読んだあと、インタビュー後に始まったロシアによるウクライ侵攻は、究極の国際空間である宇宙ステーション内にどんな影響をおよぼしているのか、ISSはこの先どうなるのか、気にせずにはいられなかった。
 
 本書のためのインタビューが実施された2021年から現在までに、世界情勢はコロナ禍の残響なのか、温暖化が一段と進んだためか、確実に悪化した。いまや世界はどこも危険そうに見え、円安ですべてが高くなり、オンライン情報だけが格段に豊富になった。「大部分の日本人が生きて行くのに、英語はほぼ不必要です」という弟の主張は、この時代に即しているのかもしれない。日本の若者は狭い日本を飛びだす代わりに、自分たちの居場所を奪いそうな在日外国人のみならず、訪日外国人客まで敵視し始めている。英語だけでなく、多様な言語を学ぶ機会を小学生に与えるという弟の提言は、どれもこれも中途半端になって終わりそうな予感がする。遊びの一環で少しばかり覚えるならいいけれど、外国語はある程度、継続して時間を割かない限り身にはつかない。あまりにも多くの選択肢を与えるのではなく、数カ国語のなかから一つ、または二つを自分で選ぶ、くらいが関の山ではなかろうか。

   日々、英語を使って儲からない仕事をつづけ、いまや瞬時に答えが出る機械翻訳に教えられることも増えた一翻訳者が、英語を学ぶ意味を付け加えるとすれば、英語というインターフェイスは、その他どの言語よりもそれによって得られる情報が多いことだ。それはビジネスで役立つとかいう実際的な側面以上に、批判的読解をするうえで重要なものになる。戦犯として絞首刑になった広田弘毅が巣鴨プリズンに面会にきた孫に、「自分に恥じない人間になりなさい。そして何か他国語を一つ覚えなさい」と言った言葉が忘れられない。外国語は自分を外から見つめ直す鏡なのだと思っている。

東郷公德著『英語病にご用心!:体験談から覗き見る語学の達人たちの舞台裏』(開文社出版、2026年)

2026年6月1日月曜日

『ハヤ号セイ川をいく』Minnow on the Say

 このところ、就寝前のひとときを楽しく過ごしている。ほんの数十分ずつなのだが、3月に岩波文庫から原田勝氏による新訳で刊行されたフィリッパ・ピアスの『ハヤ号セイ川をいく』を図書館で借りて読んでいるのだ。ピアスは、アーサー・ランサムと並ぶくらい私が好きな児童文学作家で、なかでもデビュー作であるこの作品は、代表作の『トムは真夜中の庭で』にも増してお気に入りの一冊だった。 

 小学生のころ、地元の「どんぐり文庫」で借りて読んだピアス作品は『トムは真夜中の庭で』だけで、『ハヤ号セイ川をいく』は、『サティン入江のなぞ』や『まぼろしの小さい犬』などとともに子育て中に図書館で借りて読み、原書も入手して読んだものだった。 

 残念ながら、以前の講談社からの版は翻訳にかなり難があり、原書を手に入れて読んだところ、あきらかな誤訳も散見されたため、ならば自分で訳してみようと一念発起したことがあった。まだ会社勤めをしていたころか、失業中だったか、記憶が定かではないのだが、いずれにせよ1990年代にこの作品を全編翻訳し、製本テープで本の形にし、小学生だった娘に読み聞かせていたのだ。棚の奥を探してみたら、3.5インチのフロッピーも見つかり、古いフロッピーディスク・ドライブを探しだして入れてみたが、唸るばかりで開けなかった。あのころはプリンターがなく、ワープロ専用機でつくったような気もする。 

 のちに講談社の編集者と会う機会があり、一応、打診はしてみたものの、当時はまだ版権も切れていなかったのだろう。私の最初の翻訳作品は結局、娘が読んでくれただけで、何にもならずに終わった。転職した当初は、児童文学の翻訳者になりたかったのだが、いまや小学校高学年くらいの子どもたちは塾通いやゲーム等々に忙しく、そもそも子どもの人口が私たちの時代とは比べものにならない。児童書は、絵本以外はなかなか売れない時代になったらしい。出版業界全体が厳しい状況だが、このジャンルはますます狭き門となっており、私が入り込める隙は見つからない。岩波から新訳が出るというニュースを見たときは、正直言って残念だったが、まあ、こればかりは仕方がない。 

 そんなわけで、ここ数日は夜な夜な、岩波少年文庫の新訳を少し読んでは、自分の訳や原書と読み比べて、にんまりしたり、憤慨したり、付箋を貼ったりしていたのだ。インターネットも使えなかった時代の翻訳と比べれば、新訳は当然ながらはるかに読みやすくなっている。講談社版の訳では「殺人的落下物」という意味不明な言葉になっていた(と記憶している)箇所も、新訳では「いきおいあまって転落してしまうかもしれないと思ったからだ」(fearing some murderous drop from the roof-top might lie)と、きちんと訳されていた。前の訳者は私同様に老眼だったのか、急流下り(rapid shooting)がウサギ狩りと訳されている箇所もあったはずだ。 

 物語そのものは、2人の少年が詩を手がかりに先祖が隠したと伝わる宝探しをする話で、詩のなかの言葉に込められた意味を、あれこれと推測する。一般論として詩を訳すのは非常に難しい。しかも、この物語では詩が大きな意味をもち、何度も異なる状況で、異なる解釈で同じ詩が繰り返される。毎回訳して変えてしまっては、英語の原文を想像できない小学生の読者には、意味のわからない手がかりとなるだろう。残念ながら新訳でも、この詩は毎回、状況に即して違う言葉で訳し直されてしまっていた。

原詩は次のようなものだ。 
  Whan Philip came to the single Rose 
   Ouer the water 
  The tresor was taken where no one knows 
   None but my daughter.

新訳ではこうなっていた。
 フィリップはやってきた   
  一輪のバラのもとへ水の上をわたって  
 宝ははこばれていった   
  わたしの娘しか知らないところへ

30年ほど前の拙訳はこうだった。 
 フィリップが来たとき ひとつのバラへ   
  水をこえ  
 宝は運ばれた 人知れぬところへ   
  わがむすめよりほかは

 少年たちはこの詩をどこで区切るべきかをめぐって頭を悩ませるので、原詩の語順や改行はできる限り変えないほうが望ましい。和歌の掛け言葉のように、二重、三重の意味をもたせるには、「一輪のバラ」と誤解しようのない明確な表現を使うと、single roseがのちに「一重咲きのバラ」に意味を変えた場合に、たとえ漢字では「輪」と「重」の違いであっても、読みも違うので、ふりがなに頼る読者は混乱するのではないか。私も悩んだあげくに、「ひとえ(つ)のバラ」とし、シングルとルビを振ったり、多少の訳註を入れたりすることで誤魔化したが、ここはもう一工夫欲しかった。

  Ouer (over)という前置詞は、のちに宝の隠し場所が移されたときにunderに書き換えられ、謎解きに大きな意味をもつ言葉なので、この小さな一語を「水の上をわたって」と具体的に書いてしまうと、あとからなぜそれが「川にかかる」橋と読み替えられるのかわかりにくい。詩が後年、書き換えられたときも、なぜ「水の下へ」と大幅に書き換えられたのかと、幼い読者であれば疑問に思うだろう。読者対象は小学5・6年生から、ではあるが。 

   いまだったら、「水をこえ」と動詞にせずに、より前置詞的に「水の上へ」にしたかもしれない。この詩が言及されるすべての箇所が、この表現でうまく収まるかどうか確かめなければならないが、うまくいけば「上」と「下」の書き換えだけで済む。文末が「へ」ばかりになるのを避けるには、「ひとつのばらのもとに」、「人知れぬところに」と変える必要もある。「わがむすめをのぞいて」とすれば、一応、脚韻も踏める。  

   もう一つ、新訳で残念に思った重要なことがある。ネットでちらりと検索した限りでは誰もこの点に言及しておらず、著者のあとがき(1999年版)でも触れられていないので、単に深読みのし過ぎなのかもしれないが、この物語でピアスは言葉に裏の意味を込めているのだと私は思った。原題はMinnow on the Sayという。舞台はピアスが生まれ育ったケンブリッジ郊外で、セイ川のモデルとなったのはあのケム川だ。セイ(say)というやや風変わりな川の名称に、「言う」という意味を込めていたのではないのか。そして、ヒメハヤという小さな淡水魚の名前であるminnowには、me know「ぼくは知っている」という意味が込められていたのではないのか。

  船名の命名者は、カヌーの本来の持ち主ではなかった年下の少年デイヴィッドだ。下流のリトル・バーリー村に住む路線バス運転手の息子という設定である。デイヴィッドはふさわしい船名をあれこれ考えたあげくに、「I shall call her the Minnow」とひらめく。この箇所は新訳では、「ハヤだ。この船はハヤ号だ」となっていた。船名は別にして、雰囲気は出ている表現だ。私訳では「ミノウ号にしよう」とし、この船名で通すことにした。その後、上流のグレート・バーリー村の大地主の末裔で、カヌーのもともとの所有者であるアダムと一緒に再度、船名を考える場面があり、そこでもデイヴィッドが勇気を出してミノウ号という名前を提案し、最終的に年上のアダムもその考えを受け入れる。 

  アダムの伯母のミス・コドリング(新訳ではコドリングさん)はコドリング老人の娘なので、宝の隠し場所を知っているはずなのに、「もちろん、おばさんは自分が知っていることを知らない」(of course, she doesn’t know she knows)という、やたらknowが強調された箇所もあった。物語の後半で登場するスミス氏はデイヴィッドが自分の正体を見抜いていたことに感服し、‘I shall remember you as the boy who knows everything, except that he doesn’t know quite everything.’、「おまえのことは、すべてを知っていると思いこんでいるが、じつは知らないことがある男の子としておぼえておこう」と、またもやknowを強調した言い回しをする。私訳では「きみのことは、何もかも知っている少年として記憶にとどめておこう。とはいってもまったくすべてではないがな」としていた。 

 一族に伝わる家宝を探すことにミス・コドリングにたいし、少年たちが自分らの動機を打ち明け、説得する場面では、'No, it’s just so that we can have our say.’と、自分の意見を言うという表現でsayが強調されている。新訳では「ちがうよ。ぼくらの話をちゃんと聞いてもらいたいだけさ」となっている。意味としては通じるが、訳者は「セイ」に格別な意味を感じていなかったのだろう。私訳では「ううん、ただ、ぼくたちの言いたいことがちゃんと言えるようにさ」と、「言う」を強調していた。

 コドリング邸が売られてしまう切迫した場面で、デイヴィッドが大人たちを必死に止めようとした際には、ミス・コドリングが「デイヴィッド、言いたいことを言ってちょうだい。てみじかにね」(‘David, say what you have to say, quickly.’)というセリフもあった。もっとも、knowもsayも非常に使用頻度の高い、ごく一般的な動詞であり、私のピアス好きが高じて、余計な勘繰りをしているだけかもしれない。それでも、子どもが成長する過程で、大人にも負けない推理を働かせ、自分の意見をぶつけながら謎解きをするこの物語で、この二つの言葉がキーワードなのだと思って読むと、ピアスが本来描きたかったことが見えてくる気がする。

 あまりにも思い入れの多い作品なので、選ばれた訳語が随所で気にはなるが、30年ぶりに読み返すのはじつに楽しい。十数年前にほんの数日間ではあったがケム川沿いも歩いてみたし、娘が留学時代にこの物語そっくりにケム川で船遊びする様子なども写真で見てきた。グレート・バーリー村のモデルである高級地区グレート・シェルフォード村の水車場の所有者だったというピアスの実家が、コドリング家のモデルとなったであろうことや、第二次世界大戦で戦死した息子の死を受け入れられないコドリング氏がいまなら認知症と診断される症状になっていたこと、早くに夫を亡くし、娘を連れて実家に戻ったという著者ピアスが、ミス・コドリングに自分を重ねていたであろうことなども改めて認識した。アルマダ海戦の時代までさかのぼって共通の先祖がいる子孫同士がそっくりな顔立ちで、先祖の肖像画の前に立つ場面などを読んだことは、おそらく私がのちに先祖探しにはまる遠因となっただろう。キバナノクリンザクラ(カウスリップ)、アップルミント、スイカズラ、ニレ、サンザシ、イボタ等々、たくさんの植物も登場する。夜中にこっそり家を抜けだして、カヌーを漕いで石橋を探検するシーンは、いま読んでもわくわくする。 

 近所の書店の岩波少年文庫のコーナーには入れてくれそうにないので、孫が読むにはまだ少し早いが、新版は横浜市の生活応援クーポンを使って(!)購入してみた。いつか、私の昔の訳文や原書と読み比べて英語の勉強でもしてくれたら嬉しい。原書はいまではネット上で読むことができる。翻訳にはこのサイトと同じペーパーバック版を使ったはずなのに、狭い家のなかでその本は行方不明になっている。

岩波少年文庫からの新訳(右側)、水色の表紙のものが私の最初の翻訳作品! ハードカバー版はのちにカバー写真に惹かれてつい購入した。

娘に読み聞かせながら、わかりにくい箇所や、読みにくい部分を訂正していた痕跡が……。
 

2026年5月21日木曜日

『上田郷友会月報』

 先月から、校正に次ぐ校正で、なかなか自分のペースで仕事ができない。数日ばかり本来の翻訳作業に戻ったのを機に、原稿やレジュメ、企画書などに着手する傍ら、久々にグーグルで祖先探しにつながる新しい情報がないか検索したところ、珍しく曽祖父門倉安栗の名前で2件ヒットした。よく見るとどちらも同じネットオークション関係で、曽祖父の訃報記事が掲載された大正7年の『上田郷友会月報』の古本が売りにだされていた。出品者がその号の主要項目を書きだしてくれていたおかげで、検索エンジンに引っかかったようだ。

 記事そのものは何年も前に上田市立上田図書館で閲覧した際に見つけており、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも触れているが、現物の雑誌はもっていなかった。それどころか、これまでたびたび活用させてもらったこの雑誌を一冊も所有してなかったので、ゴミを増やすことになるかと迷いつつ入札し、めでたく落札した。せっかくの機会なので、すでにゲラ刷りも届いてしまったが、この数カ月間、見つけてはデスクトップのフォルダーに放り込んでいたいくつかの情報とともに、忘れないうちにまとめておく。 

 明治18年創刊の『上田郷友会月報』は現在もつづく長寿雑誌で、実質的には明治20年創刊の『中央公論』を超える雑誌と思うが、これまで広く公開されていなかったせいか、昭和23年6月から平成8年2月まで『郷友信濃』と名前が変わったせいか、世間の認知度は低い。現在は国会図書館デジタルコレクションで平成23年分まで読むことができ、このサイトにリンクがまとめられている。 

 郷友会の活動はよく知らないし、この雑誌の歴史もざっと読んだ限りだが、もともと上田藩の藩医の子どもなど、医学関係者が発起人となって始まった会とのことで、創設者の一人とされる山極勝三郎は世界で初めてがんを人工的に生成して原因究明に寄与し、日本人でノーベル賞候補となった最初の人だ。多分に政治絡みで受賞できなかったものの、著名な医学博士である。

 勝三郎氏に私の祖父がお世話になったことは親戚から聞いていたが、曽祖父のこの訃報記事を読んで初めて、曽祖父安栗が「十四、五歳の頃、医師山極吉哉氏(山極博士の養父)の書生として厄介になったのであるが当時は中々の腕白ものであった」ことがわかった。しかも、上田藩の藩医だった養父の「山極氏の意見で獣の医者よりは人間の医者の方がよかろうと云ふ説に伝次郎氏の未亡人も同意されたので、山極氏の薬局生となって始めて医者のいろはの手解きをして貰い傍ら、本郷の済生学舎へ通うて前期試験には山極氏の宅に居る頃に及第したのである」とも書かれていた。祖先は数百年にわたって馬役を務めてきたが、このとき馬との暮らしと決別したことになる。 

 曽祖父が日本医科大の前身となった済生学舎出身であることは叔母たちから聞いていたが、いつ医師免許を取得したのかは長らくわからなかった。当時はデジコレもなかの文字の検索機能がなかったため、何年分もの官報のケシ粒のような文字をひたすら追ってみたが諦めた経緯がある。この訃報記事に明治32年に医師になったと書かれていたので、格段に便利になったデジコレで検索すると、明治33年(1900)1月26日の官報の「医籍登録者」のリストに名前がすぐに見つかった。 
 
 山極吉哉が、私の高祖父の死後まもない明治22年の月報に「故門倉伝次郎先生小伝」と題した記事を寄稿してもいたことも、最近になってデジコレから判明した。高祖父は明治21年10月に没している。しかもそこには「門人 山極吉哉謹辞」と書かれていた。藩医であった吉哉氏に、馬役から馬医になっていた伝次郎が何を教えたのか思いつかないが、親しい間柄であったことは想像がついた。だからこそ、伝次郎の遺児が医者として独り立ちするまで面倒を見てくれたのだろう。 

 明治43年になって再度、伝次郎の略伝が月報に掲載されたが、その情報源の多くは吉哉氏のこの記事だった。吉哉氏の記事で新たな情報としてすぐに目に留まったのは、安政6年9月に藩主であった松平忠固が亡くなった際に「御遺物トシテ御紋付上下拝領」となっていたことと、横浜にいたイギリス公使館付き騎馬護衛隊隊長のアプリンに西洋馬術を習い始めたのが元治元年10月と明確に年月がわかったことなどだった。 

 今回私が入手した曽祖父安栗の訃報記事を書いてくれた「無濁生」が、郷友会の創設時から多年にわたって幹事を務めた宮下釚太郎であったことものちに判明した。この追悼文には、高祖父の伝次郎が幕臣とトラブルになって追われ、「桜田門内に駆け付け役屋敷(老中邸)を三匝して塀を乗り超えて邸内にはいられたと云う」というエピソードが紹介されていた。だが、さほど広くもない西の丸下の上屋敷に高祖父がいた可能性は少ないと思ったため、図書館で読んだときは半信半疑だった。少し前のコウモリ通信に書いたように、『象山全集』の頭注から佐久間象山が松代で蟄居となり江戸を発つに当たって、象山の甥から「松平伊賀守様 御上屋敷」の上田藩の弟子である伝次郎と桜井純蔵宛に、中山道に向かう途中の白山付近でひそかに会えればという内容の手紙が送られてきたことが判明したため、上屋敷のこの一件もまんざら嘘でもないかもしれないと思い直した。西の丸下からであれば、銀座の木挽町の象山塾まで通うのは訳なかっただろう。 

 宮下釚太郎はじつに多くの記事を書いているが、昭和3年の月報にも「名馬高砂に就て」というエッセイを寄稿している。当時、松平家の家令を務めていた宮下は、谷中の天王寺にあった松平家の墓地に行った帰りに立ち寄った古本屋で、『天下古今文苑奇観』に塩谷宕院の「記名馬今高砂」が収録されているのを見つけ、それが松平忠固の栗毛の愛馬のことだとわかったため、帝国図書館(いまの国会図書館)でその書を借りて読んでみた、という内容だ。 

 引用の原文は漢文で、「今高砂者奥之鍛澤所産也、其色栗毛、筋骨剛脛、眼清気深、胸下有施毛」と始まり、宮城県鍛沢産の栗毛の名馬を「嘉永三年、上田侯獲之」、つまり松平忠固が獲得したとする。「昔吾自姫路来先君賜良馬名高砂者」とつづき、姫路藩から養子にきた際に、当時の上田藩主松平忠学が高砂という良馬を与えてくれたようだ。「今此馬其流亜也、宜呼為今高砂、愛撫弗惜、出必従之」とあるので、おそらく新しい馬も仙台馬で似ているため、今高砂と呼ぶことにし、大切に飼いいつもこれに騎乗していたという。この今高砂もすでに老齢になりと書かれたあと、「如禄官吏乞骸骨者然、御藩士門倉信敏、介石野恒卿、請余為之記」とつづく。 

 古文は仮名交じり文でもなかなか読めないが、漢文となるとかなりお手上げ状態で、グーグル翻訳で中国語→日本語で変換してもよくはわからない。ただし、ここに名前の出てくる門倉信敏が高祖父伝次郎(諱が信敏)であることは間違いない。塩谷宕院(1809〜1867年)は遠江掛川藩に仕え、のちに昌平黌の教授となった儒学者とのことなので、石野恒卿を介して、伝次郎がこの馬について何か書いてくれと頼んだ、と推測してみた。うんと暇になったら、後半部分も頑張って読んでみるつもりだ。

 少なくともこの史料から、忠固は文政12年(1829)に養子入りした当初から仙台馬に乗っていて、最初の老中時代で西の丸下の上屋敷にいた嘉永3年時には新しい仙台馬を愛用していたことはわかり、伝次郎はその面倒を見る役目もあって上屋敷にいたとすれば、一応辻褄は合う。宮下釚太郎が借りたと思われる『天下古今文苑奇観』(2巻、明治12年)も、いまではデジコレで簡単に読める。便利な世の中になったものだ。この文章そのものは塩谷宕院が没する慶応3年以前に書かれたはずで、明治3年刊の『宕陰存稿』にも収録されていた。上田藩以外の古い文献に伝次郎(信敏)の名前が翻刻されていたのは、私としては画期的なことだった。 

 明治以降の伝次郎の経歴については、明治初期のものは動乱期のため史料が乏しく、私の知識がそれに輪をかけて乏しいため、長らく調べあぐねていた。だが、デジコレが進化したことと郷友会月報が公開されたおかげで、新たにいくつかのことがわかった。明治3年に伝次郎が「馬術局教頭」に任命されたなどと吉哉氏が書いているのは、明治維新後の上田藩内の組織改革に伴う組織のことで、曽祖父が生まれた翌年まで、一家は少なくとも上田に留まっていたようだ。明治5年9月に「軍医寮八等出仕拝命」、同6年3月に「允請軍医寮九等出仕拝命」、同7年1月「陸軍馬医副ニ任ス。同年三月横浜在勤被申付」とつづくので、明治5年以降は明治政府に出仕するようになったと考えられ、実際、官報などにも多少の記録が見つかる。明治8年6月には「叙従七位」ともあった。明治10年12月には、すでに57歳と当時にしては高齢だったのに、西南戦争に駆りだされた。その後も再び鹿児島へ「軍馬買弁」のために送られたりしていたため、鹿児島の馬関連でも多少の記録が残っている。  

 月報が『郷友信濃』と名称を変えていた時期の昭和35年の号には、これまた驚くべきことが書かれていた。時代もかなり経ているので、信憑性はかなり低そうだが、こう記されている。「明治天皇は乗馬が御好で馬をいたはられた。前に申上げた身長六尺余、体重三十貫の御身であるので馬に重みのかからぬ様かがみ腰でのられている天皇に、馬術の教官は馬政局長官、上田藩の門倉伝次郎先生である」。馬政局が設けられたのは伝次郎の死後の明治39(1906)年なので、長官云々は間違っているし、明治天皇も身長も167cm、体重92kg程度と考えられているので、やや大袈裟である。  

 明治天皇は、東京奠都後まもない明治5年(1872)に西洋式の出たちと馬具の騎乗姿を内田九一が撮った写真が残っている。幕末までは御所から外に出ることもままならなかったはずなので、多少の乗馬の心得はあったとしても、本格的に馬術を始めたのは東京に移ってからと思われる。『日本馬術史』(1941 年)等を参考にすると、明治天皇は西洋馬術を日本騎兵の開祖とされる大高坂正元(1850〜1924年)から学んだと言われているようだ。大高坂は土佐藩が明治初年に招聘したフランス人アントワンに西洋馬術を学んだ人らしく、明治4年に土佐藩からの御親兵のうち騎兵を率いたという。明治5年に明治天皇の馬術御指南役として宮内省出仕、6年、少尉に進み近衛騎兵隊付になるが、武技御教育をつづける等々が、ネット情報としてわかった。その後、明治10年にやはり西南戦争に行っている。明治天皇と年齢も近い現役将校なので、大高坂が実際の教官であった可能性は高い。

 もっとも、伝次郎が明治政府に出仕することになったのは、代々馬役の家で、嘉永4年に象山塾に入門して、そこである程度の西洋馬術を学び、その後、元治元年から少なくとも1年以上は横浜でアプリンから実際に訓練を受け、馬医としても活動していた経歴ゆえだろう。明治政府に出仕してまもなく叙位されたのも、明治天皇の西洋馬術と何かしら関係があるかもしれない。高祖父の戒名に「従七位」の文字が入っていたことは、最近になって一枚の古い写真から判明していた。となると、唐沢勇という人が昭和35年になって『郷友信濃』に書いた記事にも、何かしらの真実は含まれていたのかもしれない。  

 この記事は、伝次郎が「幕末東京愛宕山の石段を上り下りをして日本一の額を掲げられた人である」という、宮下釚太郎が曽祖父への追悼文に書いていたエピソードにも触れていた。上田の図書館でこの件を読んだあと、4年前に現場にも行ってみたが、女坂ならともかく、男坂はめまいがするような急坂で、この階段を馬で駆け上がったら、いまなら動物虐待と非難されること間違いなしの場所だった。神社でも「将軍梅」や「〈出世の石段〉のいわれ」も見ていたが、写真も古いPCに入れっぱなしで忘れかけていたが、本年1月に毎日新聞で講談「寛永三馬術の出世の春駒」の記事を読んだことで、この逸話を思いだした。寛永11年(1864)1月28日に将軍家光がお供の者たちに、愛宕山の急な石段を馬で駆け上がって梅の一枝を手折ってくるよう命じたところ、四国丸亀藩の曲垣平九郎が「馬を信じ、馬の気持ちを思いやりながら見事成功させ」たという内容だ。ついでにテリー・ベネットの写真集で、フェリーチェ・ベアトが1867年に撮影した愛宕神社の階段写真も見つけていた。  

 講談で長く語り継がれた話を真に受けて、高祖父がこの急階段に挑戦したのかどうかわからないが、宮下釚太郎が大正年に伝次郎の息子の訃報記事を書いたころまでは、少なくとも上田でそう語り継がれていたのだろう。愛宕山は、桜田門外の変の決起前の集合場所とも言われる。「愛宕山に参って、下谷に寄って、松坂通って〜」という遊び歌を母が子どものころに歌って聞かせたのは誰だったのだろう。気になるところだ。

 今回入手した『上田郷友会月報』第385号 
 大正7年11月25日発行

『宕陰存稿』に収録された「記名馬今高砂」 
 画像は国会図書館デジタルコレクションより

 愛宕神社 2022年2月撮影

2026年4月20日月曜日

物理本から学ぶこと

 横浜の関内駅の近くに吉田橋というかつて関門が置かれていた橋、もしくはその名残がある。そこから港に向かってつづく大きな通りは馬車道と呼ばれる。幕末に横浜が開港してまもなく、この道を多くの馬車が行き交うようになったためと言われ、この通り沿いに最初に設置されたガス灯とともに、馬車はいわば、西洋の進んだ文明を象徴するものとなった。

 幕末の日本では、乗り物といえば駕籠、または馬しかなかった。当時、日本に滞在していたアメリカの弁理公使ハリスなどが、「ノリモン」がいかに窮屈で乗り心地の悪い代物であるか書いていたので、彼らの目には日本はさぞかし後進的な国に映っただろうと読みながら思っていた。だが、実際には、西洋でも19世紀にはまだセダンチェアという従僕が担ぐ一種の駕籠が使われていたことが、目下、校正中の回転をテーマにした物理本に書かれていた。日本でも床に座り慣れていない外国人用に、のちに椅子駕籠が開発され、人力車が普及するまでのあいだ短期間ながら使われたようだ。  

 この物理本には、車輪付きの乗り物の歴史を論じた章がある。車好きの人にしてみればいずれも当然のことなのかもしれないが、私などは、そうなのか!と驚くことがそこには多々書かれていた。その一つは、四輪の荷車や馬車が長らく角を曲がれない代物であったという事実だ。二輪馬車の場合、角を曲がることで内輪のスピードが自然に抑えられれば、何とか無事に曲がれたようだが、四輪ではそうはいかない。江戸時代までの日本で使用された数少ない車付き乗り物である牛車や大八車が不安定な二輪車であった理由が、ようやくわかった。  

 四輪の馬車が本当の意味で実用化されたのは、チャールズ・ダーウィンの祖父に当たる医師エラズマス・ダーウィンが、太り過ぎて馬に乗って診療に行けなくなり、操縦メカニズムを考案して以降のことなのだ。彼の没後の1818年にその特許がドイツ人によって取られ、アッカーマン式リンク機構として特許知られるようになったのだという。

 ということは、1866年1月(慶応元年12月)に、横浜に駐在していたイギリス公使館員のジョン・マクドナルドが自家用の馬車に老中松平伯耆守宗秀を乗せて東海道を走り、川崎の六郷の渡しまで送った一件は、イギリス人にとっても当時の最新技術を見せつけるチャンスだったに違いない。この馬車の後ろから、アプリン大尉率いる騎馬護衛隊が警護でついて行く様子を描いたワーグマンの絵を、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で見つけたときも驚いたが、いろいろ考えると本当に画期的な出来事だったわけだ。  

 この挿絵はあまりに印象的だったので、横浜開港資料館にある現物の新聞を撮影していただき、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス、2020年)で使わせてもらった。当時は、この馬車がそれほど最新鋭の乗り物とは思いもしなかったので、それ以上深く調べず、馬車のほうはおざなりに見て「老中一行を乗せた二輪馬車を御するマクドナルドや、その後ろにつづくアプリンら護衛隊の様子を」などと書いてしまったが、実際にはこれは四輪馬車だった。私が誤解したのは、大きな後輪に比べてステアリング機能のある前輪は車体の下に収まる小ぶりなサイズで、沿道で興奮する村人や子どもたちの陰になっていたためだった。当時の馬車には現代の自動車のように、型式によって名前がついていたこともわかったため、画像検索したところ、おそらくこれは大型のブレークではないかと思う。  

 今回の本で、アッカーマン式リンク機構も多少は理解したので、レゴでもそれらしきものを再現してみた。前輪を小さくしたいばかりに、古い型の車輪までヤフオクで入手したのだが、小さめのサイズでつくったこともあり、内輪と外輪がカーブに沿って別の角度になるような精巧なものではない。馬車の後ろには、当時の日本人が憧れたらしい紺地に白い一本線入りのズボンを履いたアプリン大尉も、アーネスト・サトウが揶揄した金ピカ帽を被らせて添えてみた。  

 この馬車の御者席に座っていたマクドナルドは、この数カ月後に医師ウィリスの治療の甲斐もなく、29歳で脳軟化症と卒中で亡くなり、横浜外国人墓地に埋葬された。彼が取り寄せたというこの馬車がその後どうなったのかは不明だが、明治2年、本町通りから神奈川宿まで通じる馬車道が開通し、2月ごろには乗合馬車が始まり、5月には下岡蓮杖らもその事業に乗りだしているので、ひょっとすると乗合馬車として使われていたかもしれない。実際、三代広重の「横浜海岸異人館之図」(明治3年)には、ブリジェンス設計のイギリス領事館の前に、よく似た馬車が描かれている。 

 馬車は曲がり角で横転しやすかったなどと訳していたせいなのか、だんじり(地車)祭りなどで、山車が横転する事故の映像が翻訳中たびたびフェイスブックのタイムラインに出てきた。気になってつい横転した画像を見てみると、岸和田の山車の車輪には、ステアリング機能は何もついていないようだった。梃子の原理で後輪を浮かせて、などという説明も見受けられ、ひたすらコース取りを人力で調整するものと思われる。ただでさえ高い重心の山車の上部に大勢が乗り込んでいるのも気になった。坂道で暴走し横転したという伊豆の国市の山車は、前輪が小さく、方向を変えられるようだった。この事故は曲がれなかったわけではなく、ブレーキ代わりの綱を後方で引く人がいなかったことによるらしい。 

 物理にも車にも疎い私が、車輪付きの乗り物についてこんなことを考えるようになっただけでも、ちょっとした進歩だと自分では思っている。いつもに増して、初校ゲラはかなり赤が入ってしまったが、通して見直したことでだいぶ頭のなかは整理された。ほかにも書きたいことは山ほどあるし、訳しながら「勉強」と称してつくったレゴ作品もまだまだあるので、追々また書くことにしよう。何はともあれ、まずは索引を終わらせねば!

レゴで再現してみた東海道を初めて馬車が通ったときの光景

拙著で使わせてもらった『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵

1885年のブレークの写真
By Thomas, John, The National Library of Wales Catalogue ウィキペディアより

一応、前輪が曲がれるようになっている。

横浜外国人墓地のマクドナルドの墓(右端)2016年4月撮影

孫が私の誕生日につくってくれた駕籠。雪の日に桜田門外の変を再現すべく外に出してみたものの……八甲田山のように。

2026年3月2日月曜日

レゴによるストレス発散

 6年ほど前、「コウモリ通信」をブログに移行するに当たって、1カ月に1本は最低投稿しようと思っていたのに、先月はあまりに多忙で、ついに一度も書く余裕がなかった。昨秋あたりから締め切りのオンパレードで、ベルトコンベアーを前にした作業員のごとく目の前の仕事を終わらせることに必死になってきた。昨日、本来の締め切りより2カ月以上遅れでようやく苦手な物理分野の本の翻訳原稿を提出した。一息つく間もなく、ようやく確定申告に取り掛かった。ところが、昨年まではマイナンバーカードを手動で入力する抜け道があったはずなのに、今年のe-tax画面ではどうにも見つからず、マイナポータルとやらを使用せざるをえなくなり、昨夜はそれを使って本人確認ができるまでにやたら手間取って終わってしまった。今朝、多少は頭の冴えた状態で、数年分の自分の乱筆メモとネット情報を頼りに難関の入力作業に取り組んだが、今年も同じところを何度もぐるぐる回るはめになった。それでも何とか迷路を抜けだしたのは、この先もいろいろ詰まっており、少しでも自由時間を確保したいからだ。  

 本来ならば、この数カ月間、少なくとも私のささやかなストレス発散の場となってくれたレゴについて、何かしらまとまったことを書きたかったのだが、頭が疲れ過ぎているので、取り敢えずひな祭りに関係するものだけ少しばかり書いておく。何しろ、今日は3月3日なので。  

 自分でもなぜこれほどお雛さまにこだわるのか不思議だが、たぶんそこに凝縮された職人のわざに惹かれるからであり、またこの数年、公家社会についていろいろ調べたためでもあるかもしれない。子どものころ家にあった古い段飾りのうち、私が何よりも好きだったのは、さほど大きくない木箱にすべてが収まっていて、箱そのものも使って七段飾りを魔法のようにつくれる仕組みだった。後年、何種類ものお雛さまをつくったが、そのたびに階段作りにいちばん工夫を凝らした。そのためか、フェイスブックのタイムラインに流れてくるさまざまなレゴサイトの投稿で、わずかなピースでつくった階段や、1×1の細かいピースを積み重ねた香水やお酒のボトル作品を見た瞬間から、頭のなかに小さな雛壇が浮かんでいた。  

 実際につくってみると、袖や裾などを側面につけると、たとえ1×1を基本としたものでもスペースが足らず、階段は当初予定した二倍の幅でつくらざるをえず、いろいろ失敗はあったが、おおむね頭に描いたとおりに、欄干と階のあるミニチュア段飾りが出来上がった。昨年3月に書いたように、「平等」の本を訳しながら、階段づくり励んでいる自分に苦笑せざるをえなかったが、「殿上人」の意味を知るうえでは階は欠かせない。  

 出来上がった段飾りを見せると、孫は「仕丁がいないから嫌」と言うし、姉は「うちのお雛さまでいちばん好きだったのは御殿だった」と言う。いまは姉宅にある昭和初めのうちの段飾りには、「源氏枠」という屋根のない「御殿飾り」が最上段にある。ネット情報による天保期ごろに始まり、その後、檜皮葺などの屋根がついた形に移行したらしく、実際、伯母の1歳時の写真と思われるものには、この段飾りの横に、屋根のついた別のセットも写っていた。どこで制作されたものなのか、調べてみたら面白そうだが、御簾のある御殿らしき頭上の飾りくらいなら、レゴで簡単につくれる。というわけで、まずそれを付け加えることにした。  

 階がある場合、地下人以下と思われる仕丁は、その下の砂利敷きにいたはずだ。真ん中に階があるので、その両側に並べざるをえないが、仕丁は3人が定番で、「十五人飾り」がフルセットらしい。そのうちの1人は下足番なので、その人を階の脇に置いて、あとの2人を両脇にするか、などと考え、仕丁も加えることにした。それによって本来、庭にあるはずの桜・橘も下に降りて、何とか五段飾りに見えるようになる点が何よりも重要だった。日本文化の奇数へのこだわりは、日本庭園の本で何度も読んでいたからだ。ちなみに、孫は、私が青いタイシルクの端切れでつくった布製の仕丁がツルツルしているため、赤ん坊のころから気に入っていた。私自身も子どものころから、足が見えて、血色のよい仕丁には親しみを覚えていた。よって、レゴでもクリップで足をつけてやった。  

 こうして入れ替えると、右大臣・左大臣の段が寂しくなるので、最後に菱餅も加えてみた。平安時代には三公として太政大臣に次ぐ地位にあったはずの大臣たちが、なぜ弓矢までもち番兵のような恰好をしているのか長年、疑問だった。今回、ちらりと調べてみた限りだが、実際にはこの2人は実際の大臣ではないとする記述も散見され、階の下に置かれているお雛さまの画像も見つかった。江戸時代には関白が朝廷を仕切るようになり、三公は位ばかり高く、実権のない役職であったことの名残なのかもしれない。 あとになって、ライトヌガー(いわゆる肌色)の1×1のオープンスタッドならあることに気づき、左大臣と仕丁のうちの2 人は赤い顔にした。レゴのピンクは、素敵な色がないので、この淡い色をもっぱら使い、御殿の桜はヤマザクラなので、中心部分が濃いオレンジ色なるようにして白い花にした。ヤマザクラの芽吹いたばかりの葉は、実際そのような色をしている。  

 段飾りとほぼ同時に、レゴで牛車もつくっていた。うちのお雛さまには残念ながら牛車はなく、娘にはフィルムケースの蓋を車輪にした牛車をつくってやったことがある。レゴでは、あの巨大な車輪をうまく再現できず、ずっと諦めていたのだが、馬車用の車輪を丸いプレートにバーで取りつけることを思いついたのだ。それでも、覗き窓のようなものを引き戸にするアイデアがなかなか浮かばず、溝付きブロックが使えることがわかってようやく乗りだすことができた。牛は、ネット上で見た黒い雄牛のアイデアを基本に、黒毛和牛のようなものを適当につくった。牛車のなかには、ちゃんと長い黒髪にミニフィグも乗っているが、簾はうまく上にめくれないので、出入りするときは取り外すしかない。  

 この数カ月、実際にはこのほかにも自作レゴが随分と増え、娘が使っていた机の上を占領するようになっている。飽きるまでもうしばらく飾って、いずれはバラバラにしてまた何かをつくり直すつもりだ。レゴのいいところは、完成しないところかもしれない。

 改良版がこちら

 当初の段飾り

 側面から見たところ

レゴの牛車ともに。後ろにあるのは、曽祖父から母がもらった内裏雛。木箱に「寶印けし親王」と書かれており、芥子親王は15-20cmほどの小さい雛人形のことらしい。宝印は久月の可能性もありそうだ。

2026年1月21日水曜日

『〈平等〉の人類史』

 2年越しで取り組んできた仕事がようやく形になった。本文が450ページほど、膨大な原注を入れると結局500ページを超える分量となり、私の得意ではない思想史の本であったことや、出版社側の都合等で、なかなか刊行に漕ぎつけられなかった。  

 この間、ウクライナ戦争はつづき、ガザ侵攻も悪化の一途をたどり、第2次トランプ政権が発足して、世界中が振り回されてきた。長年、自由貿易を主張してきた民主主義国のアメリカが、幕末の「不平等条約」の関税率が穏当に見えるほどの高関税を一方的に課すようにもなったのだ。今年に入ってからは、年始よりベネズエラの大統領夫妻を拘束したうえに、石油利権を獲得して内政に干渉するという事件に次いで、トランプ政権は中国・ロシアに対抗するという名目でグリーンランドにも食指を伸ばし、国内では移民・関税執行局ICEがナチスのゲシュタポや戦前日本の特高警察まがいの一斉検挙や家宅捜査を強行している。 

 予測不能なこの2年余りを、それなりに心穏やかに客観視しながら過ごせたのは、『〈平等〉の人類史』(作品社)を訳す機会に恵まれたことが大きい。これまでの常識では考えられないこうした展開が、戦後の民主主義社会の当然の帰結ではないとしても、十分に予測しえた結果であることを理解したからだ。 本書の原題はEquality: The History of an Elusive Idea(『平等——捉えどころのない理念の歴史』)という。著者のダリン・M・マクマホンはダートマス大学の歴史学の教授である。書名を見ても、多くの人はさほどピンとこないだろうし、かく言う私もリーディングを依頼されたときはそうだった。近年は単なる平等(equality)ではなく、結果の平等を実現させるべく、ハンディキャップを考慮した衡平(equity)が主流ではなかったのか。そんなことを考えながら、500ページ以上におよぶPDFを読み始めたのだが、いつのまにか引き込まれていった。レジュメにはこう書いた。「平等という考えは想像上のもので、絶対的な平等など矛盾した言葉だという著者の主張は、とりわけ示唆に富む。しっかり読み込んだら、視野が一気に開けそうな気がする」 

 大和言葉は極端に抽象名詞の少ない言語であるため、哲学や思想関連の翻訳は、まるで辞書をつくる作業のように、一つひとつ言葉の定義を確かめながら、漢語やカタカナ語を織り交ぜた訳語を選ばなければならない。本書のテーマ「平等」にいたっては、著者によるequalityの説明と日本語の「平等」の意味がどうにも食い違う。本来は「同等」のほうが近かったのかもしれない。「平等」は最澄が唐で学び伝えた概念と言われ、日本人なら10円玉の裏側にある宇治の平等院鳳凰堂が真っ先に思い浮かぶのではないだろうか。 

 私などは平等と言えば、漫画『ベルサイユのばら』で学んだ「自由・平等・博愛」や、「男女平等」や「四民平等」が思い浮かぶが、後者は「士農工商」とともに、最近の歴史の教科書からは消えているらしい。後世の歴史家が明治維新を美化するためにつくった用語だったのだろうか。「博愛」はいまはもっぱら「友愛」と訳される。もっとも、この言葉の本来の意味は兄弟愛であり、そこに姉妹は入っていなかった。私は男女雇用機会均等法が制定された年に、おそらくその恩恵を受けて就職したが、この法律の名称には「平等」ではなく「均等」が使われていた。このころには、「平等」はどこか道徳臭くなっていたのだろうか。 

 日本にいつequalityの概念が入ったのかは、ちょっと調べたくらいではわからなかったが、ヘンリー・ウィートンの『国際法原理』が1864年に中国語に翻訳されたとき、equalityに相当する中国語が見つからず、「平行」と訳されたというエピソードが本書で紹介されていた。この中国語版である『万国公法』は一年を経ずして日本にもたらされ、勝海舟や松平慶永、坂本龍馬らが読み、大いに感化されたという。その後まもなく、日本人は「平行」の代わりに古い仏教用語の「平等」を訳語として充てたようだ。空海が9世紀に一律に誰でも平等に扱う「悪平等」ではなく「善差別」を主張していたそうなので、仏教用語としての「平等」は当初から、数学的なイクォール「🟰」の意味の強い絶対的なequalityとはやや異なり、もう少し曖昧さを含む言葉だったのだろう。 

 西洋の厳密な意味の平等を掲げたアメリカの建国理念やフランス革命は、古代ギリシャ時代の民主主義を手本としていた。それは要するに、税金を支払い、兵役に就ける能力のある男性のみが対象で、奴隷や召使による労働にもとづく「メンズ・クラブ」的なものだった。古代のスパルタでは虚弱児や障害のある新生児は奴隷として売られるか、野垂れ死にさせられていた。従来の西洋の平等の理念は、能力があることを前提とした平等だったのである。だが、人の能力には当然ながら大きな幅がある。女性を含めるとなると、平等にしなければならない人数は一挙に倍になり、男性と同じ能力と義務を期待することも難しくなる。それでも、能力主義の理想を頑なに信じる人は、能力の多くは世代を超えた財力から生みだされるという事実には目を向けない。  

 占領軍が駐留していた敗戦後の7年弱の期間を除けば、他国の支配下に置かれたことのない日本では、「鬼畜米英」だった時代の記憶はすぐに忘れられ、明治以来、西洋社会はおおむねずっと追いつくべき理想でありつづけた。実際には、二度の大戦のあいだの時期に、日本は国際連盟規約の前文に人種的平等条項を入れる人種差別撤廃提案を出し、欧米諸国の二重基準にいち早く楯突いていたことを、恥ずかしながら本書で初めて知った。だが、その動議が握りつぶされると、日本政府は西洋を真似て、独自の民族的、人種的優位性を主張し始め、近隣諸国に侵略するという愚挙に出たことはよく知られる。 戦後は、国連憲章によって主権平等が謳われ、日本でも自由と民主主義が目指すべき理想となり、欧米社会をロールモデルに西側陣営につき、ひたすら先進国の仲間入りをすることが国是となってきた。

 数世紀にわたり植民地化されてきた国々は、名目上は独立したものの、安い労働力として原料生産や下請け産業を担わされた。これらの国々に工場を移転させた先進国が環境を改善する一方で、「開発途上国」と呼ばれた国は公害を押しつけられ、いくらかでも経済が上向けば、今度は消費者として購買力を期待される。 主権平等は結局のところ建前だけであり、現実にはさらに核保有国として認められた米英仏中露の戦勝五カ国と、その他の非保有国のあいだには歴然とした差があった。インド、パキスタン、イスラエルはいずれも表向きは民主主義国だが、核拡散防止条約は非加盟で、脱退した北朝鮮とともに、公然と核兵器を保有している。近視眼的に日本でも核武装をという声もあるようだが、イラクやリビア、あるいはいまのイランのような事態にはならないのか。それとも、こうした動きは危うい均衡を保ってきた戦後の核をめぐる体制が総崩れになることを意味するのか。 

 この数十年は、先進国に端を発する人為的気候変動によって、もともと人間が暮らすには脆弱な環境であった地域に住めなくなった人たちが、どんどん移民となって先進国に押し寄せている。先進国でも、安い労働力である移民と競合する低所得者層ほど排外主義に傾くため、いまやどの国も極右が台頭してきている。本書のファシズムを扱った章はとりわけ面白く、引用されていたナチスの法学者カール・シュミットの言葉、「民主主義は第一に同質性を必要とし、第二に——その必要が生じるとすれば——異質性を排除または根絶しなければならない」は、あまりにも的を射ており、訳しながら思わず唸っていた。ファシズムはもちろん、民主主義から生まれたものであり、表裏一体のものだ。 

 いまや、西洋の道徳的優位は崩れ、国連憲章などが謳ってきた世界の道徳的秩序も崩壊の瀬戸際だ。古くは公民権運動に始まり、アイデンティティ・ポリティクスや、昨今の気候変動絡みのグローバル・サウスの訴えは、当初の「平等」の枠組みから除外されていた人びとが、西洋の二重基準を糾弾するものだ。著者マクマホンはアメリカ人らしく、この現状にまだ希望を失わないが、道徳的・精神的秩序を失えば、弱肉強食が当たり前の世界になり、いっそう混沌とするだろう。世の中には弱者のほうが圧倒的に多く、その人口は増える一方だからだ。機械化、IT化が進み、大量生産・大量消費も不要になったうえに、AI時代が到来したいま、能力の劣る弱者は強者にとって労働者としても、消費者としても不要になってきた。すべての人が必要に応じたものを受けられる平等な社会など実現するのだろうか。 

 著者は将来に向けた明確な指針を示しはしないが、「想像上の平等の歴史を学ぶことで、その平等を新たに想像し始めることができる」と語りかける。そのための材料を、この分厚い一冊が提供してくれる。 

 日本国内でも不穏な動きは広がっているし、主食である米の値段は二倍になったまま一向に下がる気配がないが、世界の国々と比べたら、いまのところまだ平和と言えるだろう。日本にも被差別民は存在したし、明治になっても身分制度は残った。それでも、日本列島という、ほかに行き場がなく、鉱物資源も乏しい島国で、ひたすら人力に頼って地域が共同で水を管理して稲作をつづけきた日本では、早くから奴隷や畜力、機械力を利用してきた西洋諸国よりも、結果的に平等な社会で生きてきたのではないだろうか。万人どころか万物の平等を説いてきた仏教の教えも、社会の根底には残っているはずだ。現状を憂える人びとが、幕末の過激な攘夷論者のように、安直なヘイト思考に走るのではなく、本書を手にして、今後どんな社会に生きたいのかを真剣に想像し始めてくれることを切に願う。

【追記】
こちらで本書の序文を試し読みできます。執筆動機から、本書の概要までが語られています。用語の定義が多く含まれ、具体的な話でない分、多少読みづらいかもしれませんが、本書の言わんとすることはここに凝縮されています。
 

『〈平等〉の人類史』
(ダリン・マクマホン著、作品社)
 原書(左)のカバーの筆による二本線は🟰かと、ずいぶんあとから気づいた(苦笑)。
 邦訳版(右)は、平等にはつねに差異がつきまとい、一色に塗りつぶされるのではなく、同質と異質の相剋であることをデザイナーが表現してくださったもの。


 宇治の平等院鳳凰堂

2026年1月17日土曜日

人力車

 相変わらず、当初の締切り予定を大幅に過ぎてしまった物理本と格闘中だが、難関だった技術史の第2部が終わり、少しだけ峠を越えた感がある。本来、脇目も振らず先を急ぐべきなのだろうが、長年ずっと疑問に思ってきたことに答えらしきものが見つかったので、忘れないうちに書き留めておくことにした。  

 きっかけは、ハンサムキャブという元祖タクシーのような一頭立ての二輪馬車について訳した際に、その説明をあれこれ読んだことだった。ウィキペディアの日本語ページに、ナルニア国物語の『魔術師のおい』で魔女ジェイディスが乗っ取り、古代の二輪戦車チャリオットのように乗り回したのが、この馬車だと書かれていたのだ。その挿絵は朧げながら記憶にあり、母宅から引き上げてまだ床の上に積み上がっている本の山から探しだして確認してみた。瀬田貞治は辻馬車と訳していて、馬車屋のコックニー訛りはべらんめえ調になっていたので、何やらダサい馬車なのだと思っていた。もちろん、それがハンサムキャブであることも、二輪馬車を立って操縦する行為が古代の戦士を思わせることも、子どものころの私には理解できなかった。原書は姉宅に行ってしまったのか見つからず、正確な言い回しは確認できないが、いまさらながら、そういうことかと納得したのだった。  

 ポーリーン・ベインスの挿絵は細かいところまでじつによく描けているが、肝心の車軸はどこを通っているのかわからない。このところ、車輪の仕組みばかり訳していたので、つい気になってあれこれ検索すると、古い写真も、現存する馬車の写真もたくさん見つかった。ハンサムキャブは、フランスの二輪馬車キャブリオレを改良する形で1834年にイギリスでハンサム氏が考案した新型だった。小回りが効き、重心が低くて安定がよいため、たちまち人気を博し、1869年5月にはニューヨークでも利用が始まったようだ。いろいろ見た画像のうち、メトロポリタン美術館所蔵のイラストに目が釘付けになった。何と軽やかな乗り物であることか! 19世紀後半の欧米社会は、自転車技術が大きく発達したことから、馬車に関しても軽量かつ丈夫で実用的な乗り物が多数生産されたのだという。

 シンプルなデザインをしげしげと見ているうちに、この轅(ながえ)部分を人が引っ張れば人力車になると思い当たった。2017年に『馬・車輪・言語』を訳した折に、金貨チョコレートのフォイルを使ってチャリオットの模型をつくったあと、戯れに轅を逆にしてみたら人力車になることを発見して、一人で吹きだしたことがあったが、あながち間違いではなかったかもしれない。古代のチャリオットと車体を逆向きにし、乗客が座れるようにした軽量の二輪馬車がまずつくられ、それをヒントに馬の代わりに人間が引っ張る乗り物が考案されたのだろう。発明はあるとき突然生まれるものではないことは、今回の本でも随所で強調されていた。  

 人力車は日本で1869年か1870年に発明されたとされている。ウィキペディアの人力車のページには、1899年になってから「人力車発明人ニ年金給与ノ建議案」が提出され、1870年に和泉要助が発案し、何人かの助けを得て製作したことが認定されたと書かれており、これが通説となっている。ただし、ウィキのページにもあるように、当初から異論もあり、とりわけ横浜にいたアメリカ人のバプティスト派宣教師ジョナサン・ゴーブルは自分が発明者だと主張しつづけたことで知られ、1909年発行の『ジャパン・ガゼット50年史』に寄稿した長年の横浜在住者も『横浜市史稿』もその説を伝える。  

 ゴーブルは海兵隊員としてペリー艦隊のミシシッピ号に乗って日本に最初にやってきて、そこで知り合った日本人漂流民のサム・パッチ(三八)こと仙太郎とともに、1860年4月に妻イライザと2歳の娘ドリンダとともに再来日し、一時期、神奈川の成仏寺にヘボンやブラウンなどの宣教師とともに住んでいた。ドリンダは1862年にコレラで亡くなってしまったが、ゴーブル夫妻にはほかに2人の娘が生まれている。1867年にはグラバー商会の依頼でしばらく長崎などに行き、後藤象二郎や坂本龍馬にも会う。ゴーブルと土佐藩の関係についてはこのブログを参考にさせてもらった。翌年、横浜に戻ったころから妻の病気が悪化し、歩行困難になり、移動手段として人力車を思いついたという。  

 ゴーブルの来日目的は布教で、日本語版マタイ伝を刊行したことでいちばん知られるが、性格にやや難があり、宣教師たちとの関係もぎくしゃくしていたようだ。しかし、多芸な人で、肥後のプリンス(熊本藩主か)のために天草に製材所を建てる依頼がきたと、1861年に隣人だったフランシス・ホールに語っているほか、靴職人として生計を立てていたとの記述も見つかった。  

 1990年にF・カルヴィン・パーカーがJonathan Goble of Japanという評伝を書き、人力車の発明をめぐる問題に一章を割き、さまざまな典拠を上げている。この本の一部は、2017年にアメリカのフォトヒストリアン、マーナ・ゴールドウェアと大量のメールをやりとりするなかで見せていただいていたが、まだ自分で確かめていない。上智大学図書館にあるので、暇になったら館内閲覧させてもらおう。  

 取り敢えずネット検索するうちに、ゴーブルが人力車の設計をアメリカの知人であるフランク・ポーレイに依頼していたという記述がいくつか見つかった。ニューヨーク州北部のキューカ湖畔のプトゥニー村のポーレイはペリー艦隊に乗り込んでいた大工だったらしい。店に残っていた「人が引く車」の原型の木型を、その鉄鋳物部品を担当した鍛冶屋の孫が見ており、1952年に新聞のインタビューに答えていたという。当時はまだ自転車の車輪も木製だったので、ポーレイは車輪と車体を製造し、車軸、ハブ、軸受等にのみ鉄製品が使われたのではないかと思う。人力車が誰の発明かを論じた「インベンション&テクノロジー」のサイトでは、ポーレイが製作した完成品を船で横浜まで輸送したと書いているが、根拠はすぐには確認できない。  

 開港後の横浜で大八車が使われている様子は、生麦事件の賠償金が支払われた際にワーグマンが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に描いている。牛車のような巨大な車輪ではなく、それなりに実用的に見える木製のスポーク車輪がついたものだ。戊辰戦争時には砲車も使われたようだし、火消しの大八車も普及していただろう。大八車に病人を寝かせて運ぶこともあったかもしれない。実際、1871年1月号の『ジャパン・パンチ』にワーグマンが初めて描いた人力車は大八車の上に椅子を載せたような乗り物で、乗客の西洋人は仰向けにひっくり返り、車夫が梶棒に宙吊りになっている。 ちなみに、その下には「Suspension of Habeus Corpus」(人身保護の停止)と書かれている。サスペンションを「停止」と「吊り下げ」の両義で読ませて笑いを誘い、さらに乗り物のサスペンションも掛けたのかもしれない。

 余談ながら、筆記体の文字を読み取ったあとフェイスブックで見た動画が、アメリカの国土安全保障長官クリスティ・ノームが人身保護令状の意味を勘違いしていたうえに、その停止がアメリカ憲法第1条第9節で反乱などの非常時以外は禁じられていることも知らなかったことを皮肉る内容で、おかげでよく意味を理解することができた! 

 人力車に話を戻すと、『ジャパン・パンチ』の1871年9月号のイラストでも梶棒が車軸を越えて後部まで一直線につながり、その上に幌付きの椅子らしきものがあるが、乗客の西洋人は長い脚の置き場に困っている。1872年10月になると、梶棒と椅子の角度はやや狭まり、車夫が梶棒を小脇にかかえても乗客が後ろに倒れない、いわゆる人力車の形になっているうえに、板バネのサスペンションまで備えたイラストになっている。明治初期のベアト撮影とされる写真の人力車は、サスペンションはないが、まさにこのタイプの原型的な乗り物だ。注目すべき点は、乗客の足の高さが車軸よりやや低めで、重心を下げて安定性を高めてあったと思われることだ。ハンサムキャブとそっくりではないか。  

 明治、大正時代の人力車の写真を見ると、実際にはいろいろなタイプがあることがわかる。ゴーブルが「発明」した乗り物は、設計面だけでなくおそらく製造自体もポーレイに頼ったものだったのだろう。ゴーブルとほぼ同時期に大八車に椅子を載せただけの乗り物を、偶然にか、噂を聞いてか、和泉要助が考案した可能性も大いにある。何しろ、1871年以降日本全国に瞬く間に広まったのだ。明治初期にハンサムキャブが輸入され、それを和泉らが見たとも考えられなくはないが、横浜絵などを見る限り走っている馬車は四輪馬車が圧倒的に多い。通説で言われるように、馬車をヒントにしたのであれば、ハンサムキャブのイラストを見た可能性のほうが高そうだ。  

 最後に、ゴーブルが人力車を考案するきっかけとなった妻イライザについて書いておきたい。イライザは1882年に45歳で亡くなり、横浜外国人墓地に幼い娘の隣に埋葬されている。2017年に別の埋葬者の墓を訪ねるために許可を得て奥の区画に入らせてもらった際に、たまたま見つけて1枚だけ写真を撮っていた。墓碑には「イライザ・ウィークス、J・ゴーブル牧師の愛する妻」とあり、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださるから」と、欽定訳聖書の詩編23章4節が刻まれていた。ゴーブル自身は翌年帰国し、1896年にセントルイスで没している。  

 2017年に前述のフォトヒストリアンとやりとりするなかで、ピエール・ロシエが1861年刊行のネグレッティ&ザンブラ社のViews in Japanのために撮影したステレオ写真で、イギリスのヴァイス領事の使用人である日本人男女3名とともに写る若い西洋人女性のことがたびたび話題になった。ヴァイス領事は独身で、ブラウン牧師の娘ジュリアでもない。何年かのちにゴーブル夫人のイライザの後年の写真を見たとき、あの写真の女性は彼女だと直感したのだったが、そのことを件マーナに伝えたのだったかどうか。いつか暇になったら、鎌倉の八幡宮にでも行って人力車にも乗ってみよう。

ハンサムキャブをレゴでつくってみたあと、ほぼ同じパーツで人力車もつくれるのではないかと試してみた。梶棒の角度がうまくついていないため、ミニフィグが苦労している(苦笑)

ハンサムキャブを乗り回す魔女ジェィディス

メトロポリタン美術館のサイトで見つけたハンサムキャブのイラスト。パブリックドメイン

ベアト撮影とされる明治初期の写真。オークランド図書館のサイトにあり、パブリックドメイン

ワーグマンの『ジャパンパンチ』3巻より

横浜外国人墓地にあるイライザとドリンダ・ゴーブルの墓。2017年撮影