娘が高校生だったころ、授業参観である教室をのぞいてみたら、親は私一人しかいなくて、生徒はほぼ全員が寝ていた。そのとき先生が一人でぼそぼそと教えていらしたのが「まず隗より始めよ」だった。先生はなぜか「生きた馬の骨すら買ってくれるなら……」と解説してしまい、顔を赤らめてあわてて「死んだ馬の骨」と訂正された。生徒はもちろん静まり返ったまま。私は吹きだしたくなるのを必死で堪えたが、数分後にまた同じ説明を先生が繰り返したときにはいたたまらなくなり、教室から走りでた。それでも、「生きた馬の骨」の話は、漢文の苦手な私の頭にも妙な具合に残った。
なぜ、こんなことを書いているかというと、実はいま訳している気候変動と歴史に関する本に、馬と遊牧民に関する話がでていからだ。人間が馬を家畜化したのは紀元前3500年ごろ、ステップの周辺部や黒海周辺でだったと言われる。燕の昭王は在位が前331~前279年なので、涓人が例にあげた昔の君主の時代となると、一日に千里を走る馬は、いまの北京を含む渤海沿岸の燕ではまだまだ最先端の武器だったのだろう。燕は前222年に秦に滅ぼされているが、『山海経』に「倭は燕に属す」と書かれており、倭は燕に朝貢していた可能性がある。
ちなみに、中国の里は500メートルなので、千里は500キロ。さすがにこれでは新幹線のような馬になってしまうが、ヨーロッパまでモンゴル軍が遠征したことを考えれば、汗血馬の実力は相当なものだったに違いない。「こうした距離を比較的速く移動できる者はステップで生き延びることができ、その結果、社会は様変わりした」と、私の訳している本にも書かれていた。つまり、一ヵ所に定住できないような厳しい環境でも、距離を克服できた者は、季節ごとにあちこちで食べ物を集めて生きていかれたということだ。
ところが、馬は牛にくらべて干ばつに弱く、気候が悪化して草がなくなるとどんどん死んでしまうのだという。死んだ馬は食べてしまったそうなので、「馬の骨」はステップでは干ばつ時にはそこらじゅうにあるものだったかもしれない。『スーホの白い馬』では死んだ馬の骨や皮で楽器をつくる。子供のころ想像してぞっとした覚えがあるが、実際の馬頭琴(モリンホール)には弓に馬の尻尾が使われているだけで、以前は馬の皮が張られていた共鳴箱もいまは木製になっている。馬の骨は、何にも使えない代物でもあったようだ。
「馬の骨」と広辞苑を引くと、「素性のわからない人をののしって言う語」とある。日本に馬がやってきたのは4世紀後半。「どこの馬の骨だか」という言葉は、日本人の日々の生活から生まれた表現というよりは、大陸からなんらかのかたちで伝わってきたものに違いない。眠くなる漢文の授業も、こんな具合に枝葉を伸ばせば、もう少し楽しくなるのではないだろうか。
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