2009年1月2日金曜日

富士山を見て思うこと

 この季節になると、晴れた日には尾根道から富士山が見える。横浜から見る富士山は驚くほど大きく、あんな山が後ろにそびえていながら、ふだんは気づかないなんて信じがたい。数年前までは、駅前のエスカレーターを下りながらも、雪化粧した凛とした富士山が眺められた。ところが、いまでは無粋な高層ビルのせいでまったく見えない。

 日本のほぼ中心にある日本一高い山でも、目に入らなければ、忘れ去られてしまう。なにしろ、目の前にはビルが立ちはだかっているし、周囲にはところ狭しと誘惑物があるし、頭のなかは誰しも悩みごとや雑事でいっぱいだからだ。見晴らしのいい場所から眺めれば一目瞭然にわかることも、大きなビルのすぐ下に立って圧倒されているときには、方向感覚すら失いがちだ。  

 考えてみれば、忘れられているのは富士山だけではない。目の前にあり、強引に迫ってくる雑多なものにとらわれて、本当に大切なことや真実が見えなくなっている人は大勢いる。憎しみや不満や不安にとらわれると、視野はいっそう狭くなる。たとえばイスラエルとパレスチナ。傍から見れば、争いつづけ、悲劇を繰り返すことの愚かしさが誰にでもわかるのに、憎悪に駆られた当事者はそれぞれの大儀を掲げて譲らない。 

 私にとって身近なタイでも、ここ数年来、国を二分するような争いがつづいている。昨秋の空港占拠に参加していた友人は、疑問を投げかける私に、自分たちは絶対に正しいから、誰も手出しはできない。だから、心配は無用だし、外国人のあなたにはわからない、と珍しく強い口調で言った。

  確かに、タクシン政権はお金にものを言わせて、タイの社会を根底から揺るがし腐敗させたのだろう。でも、お金で釣られたのも同じタイ国民であり、貧しい彼らにしてみれば、そのお金は何よりも価値があったに違いない。タクシン時代に急成長した経済の恩恵を受けた人だって、限りなくいるはずだ。悪いのは政治家だけではない。彼らをのさばらせたのは国民なのだ。その国民が変わらなければ、政治家の首だけ挿げ替えても何も変わらない。そして、国民は急には変われないし、急激な変化はかならず反動をともなう。  

 そもそも、この世の中に絶対に正しいことなんてあるんだろうか? 自分にとって正しいことが、ほかの人にとっても正しいとは限らない。人はそれぞれ異なった価値観で生きている。おたがいが相手の価値観を尊重し、そのときどきで共同体内のなるべく多くの人が満足する方法を、誰もがまあ納得するやり方で選ぶのが民主主義であって、「正しい」やり方を強引に押しつけることではないはずだ。結果以上に、一応の総意を生みだすプロセスのほうが大切なのだ。黄色シャツと赤シャツに分かれて国民同士がいがみ合うなんて、まるで茶番劇だが、友人たちは熱くなって正義を語る。冷静になって視点を変えれば、国の顔である首相府や空港を占拠した行為のほうが、タイのイメージと経済をひどく傷つけたことがわかるだろうに。ときには、遠くから見ている外国人のほうが、事態の本質を見ていることもあるはずだ。 

 荒波に翻弄されているときほど、そこから抜けだして遠くから、高みからものごとを見つめ直す必要がある。ものの見方を少し変えるだけでも、違う側面が見えてくるはずだ。駅に向かう道も、並行した下の道を通れば、いまでも富士山が見えることが最近になってわかった。大晦日には、船橋の母の家の前にある棟のてっぺんから、2008年最後の太陽と地平線上に浮かぶ富士山のシルエットを眺めた。見る見るうちに沈む夕日に、地球は確かに回っていると感じた。

 尾根道から、
 富士あり(上) 
 富士なし(下)

 駅前に浮かぶ富士山 ――下の道から

 最後の日の入りと富士山

 ついでに、大晦日の金星と三日月

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