2009年6月30日火曜日

無用の用

 最近、仕事で読んだ英語の本のなかに、老子の無用の用について語っているくだりがあり、それ以来、何かにつけて「無」について考えている。 三十輻共一轂。当其無、有車之用。 セン(土+延)埴以為器。当其無、有器之用。 鑿戸牖以為室。当其無、有室之用。 故有之以為利、無之以為用。  

 車輪の30本のスポークは中心に空いたハブ、つまり無でつながることによって役に立つものになる。同様に器もなかの空洞があればこそ、そこにものが入れられるのであり、部屋は戸口や窓という開口部をつくってなかに空間があってこそ部屋になる。よって、有形のものが利用できるのは、無形のものがそれを役立つものにしているからだ、という意味らしい。老子の言葉を英語で知るのも妙な話だが、それはさておき、存在しないものに意味があるというこの言葉には、大いに共感するものがあった。  

 人はとかく目につくものにばかり注意を傾ける。たとえば絵なら、実物のように細かく描かれた細部や鮮やかな色彩に人は感心するけれども、そうした部分が引き立つためには、実はその周囲に目立たない部分や空間がなければならない。ジル・バークレムの「のばらの村のものがたり」シリーズの絵本などは、心をそそるものが画面の隅々にまで描かれていて、最初に手に取ったときは驚いたものだけれど、何冊も読むうちにどれもこれも一緒くたになってしまい、結局、何も印象に残らなくなった。一方、ビアトリクス・ポターの絵は周囲にたっぷりある白い空間のおかげで、ニンジンやジョウロなどの脇役までが、いつのまにか人の記憶に残っている。  

 卑近な例では、私が樹脂粘土でつくっているミルフィオリケイン、つまり金太郎飴のようなものでも、こうした「無」の存在を実感することがある。子供のころ、鳴門巻きにはどうやって「の」の字を入れるんだろうと、よく不思議に思ったものだが、複雑な「寿」の字や松竹梅の図案でも、基本的なコツは一緒だ(といっても、かまぼこをつくってみたことはないけれど)。肝心なのは、「の」や「寿」の線の隙間や背景の白い部分を正確な分量にすることなのだ。どんなに模様の部分に神経を使っても、地の部分、つまり通常は見ていない「無」の部分がいびつだと、結局、模様はきれいにできない。いくつもの失敗作をつくって、ようやくそのことを悟ったあとだけに、老子の言葉は身にしみた。  

 実際、どんな分野においても、その道を極めた人はこの「無」や「間」、「空間」、「休符」、「行間」といった概念を、よく理解している。近所から聞こえてくる尺八や大正琴がいつまでも心を打つ響きにならないのは、休符を無視しているからだろう。住宅の広告に「心地よい空間を演出」などと書かれていると、つい贅沢な素材でできた床や柱などに目が行くが、優れた建築家は空間そのものを見ているのだろう。実際に人が住むのは何もない空間であり、居心地がよいかどうかはその空間しだいなのだ。ならば、と周囲を見まわして、雑然とした家のなかにため息がでた。何はなくとも、せめて空間くらい欲しいと思って、頑張って片づけてみたものの、空間を維持するのは容易ではないらしい。

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