写真集『漂う島とまる水』がいまも心に深く刻まれていると、九州産業大学の大島洋教授が追悼文に書いていたので、『沖縄 シャウト』という著書とその写真集を図書館にリクエストした。マットな黒の背景に、沖縄や奄美やフィリピンの日常の営みを写した小さめの写真が、ページの真ん中にではなく、妙に上下左右に詰めた位置にたっぷりの空間を残して並ぶ写真集は、余計なキャプションもなく黙々とつづく。南国の蒸し暑い空気やにおいが伝わるようなページを繰っていくと、ページ一面に老人の顔のアップがあった。苦悩する目がこちらを凝視する。少しあとのページには、やわらかい逆光のなかで若い女性が、これまたカメラをしっかり見つめて立っている。巻末の解説を読んで、やっぱりそうかと思った。会えたんだ、お父さんに。異母妹さんにも。
あとから私の手元に届いた彼の著書は、こんな言葉で始まっていた。「誰しも強烈に忘れられない出来事が一つや二つはある。むろん、ぼくにもある。それらは記憶の底に小さい澱のように宿って、いつまでも消えない。けっして治癒することはない。そしてその『思い出』は何かをきっかけにことあるごとに噴出し、潰してもあとからあとからあたかも膿のようにわきおこってくる」。彼にとってそれは父親捜しだった。子供のころ、よく父親が釣りに連れて行ってくれたので、行方知れずになったあとも、彼は釣りに明け暮れ、青く広がる奄美の蒼海はフィリピンまでつづいているのだと考えていたという。
人は誰でも、好むと好まざるとにかかわらず、双方の親から何かしら受け継いでいる。だから、不仲な両親を見て育てば、自分のなかに相容れないものが混在している不安を感じるし、見捨てられれば空虚感にさいなまれ、自分は親にすら愛されない価値のない人間なのだと思い込むようになる。親を捜しだしたところで、失われた時間はいまさら取り戻せない。それでも親捜しをするのは、子を見捨てるに至った苦しい事情を知り、弱点のある親を受け止め、自分の心の葛藤を克服するためだろう。
砂守さんが父親の消息を知ったのは、フィリピンに住む顔も知らない17歳の異母妹が1982年に送ってきた手紙からだったが、実際に父親を捜し当てたのは、さらに何年ものちの1990年のことだった。父と別れたとき8歳だった少年は、38歳になっていた。「それがどんな形で、どのような結果になろうとも、それはそれでよかった」と覚悟を決めていた砂守さんを待ち受けていたのは、マニラの貧しい地区に住み、老いて家族の世話になるしかない父だった。「ダイジョービ、ダイジョービ」。「アンタ、イッショに魚釣りに行ッタノ覚エテイル?」。30年ぶりに日本語を話すお父さんのカタコトの台詞が泣けてくる。
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