もともとインターネットという公共の場で、自分の考えを述べることには関心があった。十数年間、この「コウモリ通信」を書きつづけているのもその一環だ。ネット上とはいえ、文字で残るので、それを読んだ人から批判される可能性は充分にある。それでも、私が発信したわずかなことが、誰かの心に残り、なんらかの影響力をもつことだってあるだろう。
フェイスブックの場合は半公共スペースであり、おたがい少なくともある程度は素性のわかる人同士のやりとりなので、掲示板などで見られる匿名の誹謗・中傷の心配はない。顔をだすことは、集団の一人に紛れるのではなく、個人として活動することなので勇気がいるかもしれない。自分の弱みや内面をいっさいさらけださないタイプには向かない。ストーカーもいるので、神経を尖らせる人がいるのも無理はない。でも、みんなが鎧に身を固めて当たり障りのない話しかしなくなれば、それはもう社会ではない。実際には誰もが同じような悩みをかかえて生きている。要はそれを恥と思って苦にするか、しないかの違いなのだ。
震災後はとくに、フェイスブック上でかなり真面目な議論も交わされていた。人はいろいろな意見をもっているものであり、反対意見があってこそ、よりよい方向が見えてくる。これこそまさに弁証法だ。民主主義にとって「脅かされることなく発言し他の意見をきくことのできる機会」が、選挙と同じくらい大切だとアマルティア・センも書いていた。
選挙だけの議会制民主主義が機能しなくなって久しいのは誰でもわかっているはずだ。結局、政治家も官僚も地方行政も、これだけ複雑な社会の隅々の問題まで対処はできないのだ。世界の人口がこれだけ増え、どの国も食糧や水、エネルギー資源のようなごく基本的なものですら他国に依存せずには暮らせないいまでは、一国の努力では何事も解決しない。いら立つあまり強いリーダーを求める声もよく聞かれるが、英雄など幻想に過ぎないことは、ローマや漢王朝どころか古代エジプトを見ても歴然としている。金正日の葬儀で、霊柩車の上に彼の特大の写真が載っていたが、あれこそまさに「強いリーダー」の実態だ。国を代表する特大の顔は、裏に回れば薄っぺらなものであり、あの国を動かしているのはいまも昔も、周囲にいる顔の見えない大勢の将軍たちであるに違いない。
結局、できることは、一人ひとりが周囲の人を理解して支え合うことくらいしかない。でも、一人が差し伸べられる手は弱いから、手は何本もあったほうがいい。救われたいと思う側は、相手を泥沼に引きずり込まないために、自分でも這い上がろうとしなければならない。
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