黄金の国ジパングの伝説は、平泉の金色堂の話を伝え聞いた人の妄想から生まれたのだろうと、これまで漠然と思っていた。しかしそれならなぜ、北緯38度などという具体的な位置が伝えられていたのか。この時代、日本全国の地図はまだどこにも存在しなかった。マテオ・リッチの坤輿万国全図に描かれた日本も、近畿以東は完全にデフォルメされている。1602年の日本版では、太平洋の東の沖に大きな「金嶋」が浮かぶ。もちろん、こんな沖合に島はないが、東日本大震災で5m東にずれた牡鹿半島の目と鼻の先には、その名も金華山という島がある。この島の黄金山神社は古くから金華山信仰の場で、女人禁制の修験場だった。しかし、この島では金は採れない。
ならば、金色堂の金はどこからもたらされたのか。すぐに思い浮かんだのは佐渡金山だったが、開発されたのは江戸時代だった。答えはどうやら北緯39度の海岸から5キロほど内陸に入った、陸前高田市の玉山金山らしい。この恐ろしく入り組んだリアス式海岸を、スペインのガレオン船に乗って測量し、金銀島を探していたビスカイノ一行は、1611年12月2日に越喜来村(現在の大船渡市三陸町)の沖で慶長三陸地震の4mの大津波に遭遇し、村人が山に向かって走って逃げ、村が一瞬にして消える様子を目撃している。
玉山金山の歴史は、仙台藩の鉱山を1595年から代々監督してきた松阪家に伝わる、江戸後期に書かれた文書にしか残されていない。しかし、その内容は他の史料からもおおむね裏づけられるという。当初は砂金採掘だったようだ。白村江の戦い(663年)以前に人質として日本に送られてきた百済の王子の子孫、百済王敬福が743年に陸奥守に任じられ、陸奥国小田郡で大陸の採金技術を使って日本で初めて金を産出し、献上した900両の金は東大寺大仏のめっきに使われた。
「続日本紀」には749年に「陸奥国始貢黄金」と記されている。「平家物語」の「金渡」にも気仙郡の金が登場する。平重盛が1175年ごろ寧波の育王山阿育王寺と南宋皇帝に黄金数千両と材木を、宋人船頭の妙典に託して贈ったと記されているのだ。ちなみに金色堂は1124年に完成している。マルコ・ポーロが元代のモンゴル人や中国人から伝え聞いた黄金の国ジパングの噂のもとは、ここにありそうだ。
玉山金山は、秀吉の天下統一とともにその支配下に入ったが、金山一揆(1594年)のあと伊達政宗の直営となり、以後、仙台藩の莫大な財源となった。ビスカイノは政宗に江戸時代四隻目のガレオン船サン・フアン・バウティスタ号の建造をもちかけた。この船は石巻の月の浦か水浜で、800人の船大工、700人の鍛冶屋、および3000人の大工を総動員して45日間で建造されたと言われ、慶長遣欧使節はこの船に乗って太平洋を渡った。ビスカイノは金銀島こそ発見しなかったが、日本の金のありかにはたどり着いていたのである。
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