なにしろ、このお寺には「波の伊八」と呼ばれる地元安房出身の彫物大工が彫った波に宝珠の欄間彫刻があり、それが葛飾北斎に「神奈川沖浪裏」のインスピレーションを与えたというのだ。ボランティア・ガイドのおじいさんの説明を聴きながら拝見した藁葺き屋根の建物内にある5面の欄間彫刻は、確かに躍動感にあふれた見事な作品だった。伊八の波には、富士山の代わりに宝珠が浮き沈みしており、人生にたとえたのではないかとの説明を受けた。馬で海に入って外房の大波を横から観察したと言われているらしい。北斎のあの作品は、江戸湾の波にしては、あまりにも大波だとかねてから思っていたので、勝浦辺りの波が下地にあったと考えれば、大いに納得がいく。武志伊八郎信由というこの彫刻師は、1752(宝暦2)年に下村墨村の名主の家に生まれたとされるので、馬に乗れる身分だったのだろうが、そんな家の息子が急に彫物大工になった背景には、この寺に「獏」と「牡丹に錦鶏」の優れた彫刻を残した群馬県花輪出身の高松又八(1716年没)が関係していそうだ。
ネット上でざっと調べただけだが、この高松又八という公儀彫物師は、日光東照宮の幻の名工、左甚五郎につながる彫物大工の島村家初代俊元の弟子で、足尾銅山と日光と利根川、江戸を結ぶ「銅街道」沿いにあった花輪に、彫物師の一大集団を生みだした元祖だった。彼の作品は、行元寺のもの以外はすべて消失しているそうなので、その意味でもこのお寺は貴重な存在だ。
一方、波の伊八は、島村家三代俊実の弟子である、上総植野村の島村貞亮に習ったという。彼が行元寺の欄間のために制作した「松鶴」の図には、菊のように見える「唐松」が彫られていた。日光の三猿の後ろにあるのと同様の奇妙な松だ。しかも、日光の「唐松」とそっくりに、中央に松ぼっくりが三つついた形で彫られている。非常に独創的な波にたいし、パターン化されたこの松は、彼の関心がそこにはなかったことの表われかもしれない。
明代の磁器などにもよく描かれた「唐松」にたいし、「大和松」という、日本人の目にはより松らしく見えるパターンもある。日光東照宮の「猿の一生」の8枚の彫刻のうち3枚は「大和松」だ。この有名な猿のパネルは複数の彫刻師による共同作品か、もしくは松を彫る職人が複数いたのかもしれない。波の伊八はとりわけ「唐松」が好きだったようで、画像検索した限りでは、「大和松」は1作品にしか見つからなかった。「唐松」と呼ばれるくらいだから、このモチーフのルーツは大陸にありそうだ。形状からしてチョウセンゴヨウかもしれない。食用の松の実はこの木の種子だ。
独創的でないこうした伝統模様には、文化の伝播の形跡が見えて、それはそれでおもしろい。工房で師から弟子へ受け継がれたパターンやモチーフは、竜や麒麟、仙人、天女、吉祥雲、蘇鉄、棕櫚など、想像上のものや外来のものを、似たような図案で広めてきた。左甚五郎に端を発する彫物大工たちの描く人物が、日光東照宮でも熊谷の妻沼聖天山歓喜院でも成田の新勝寺でも、中国人にしか見えない理由はそのあたりのあるのだろうか。波というモチーフも、波模様として背景に、あるいは縁取り程度によく描かれており、これを最初に図案化した人たちが海洋貿易に従事していたことを思わせる。端役だった波を主題としたところが、伊八の独創的なところだ。
松と鶴のモチーフは、コトバンクによると「藤原時代に賞用された模様」であり、考えてみれば『100のモノが語る世界の歴史』の日本の銅鏡の図柄は松の枝をくわえた鶴だった。とりわけ松食い鶴の文様は、奈良時代に流行した花喰鳥を和風化したもので、起源は東ローマ、ペルシャあたりにあって、元来は王侯貴族を表わすリボンをくわえていたらしい。同書に掲載されたシャープール2世の絵皿には、リボンが付いていた。見る人が見れば、そこに脈々と伝わるものが感じられたのだろう。
画像検索中に、富山にも「井波彫刻」という、やはり江戸中期を起源とする優れた欄間彫刻の伝統があることを知った。しかもこの夏、富山県博物館協会は「波の伊八パネル展」を開催するらしい。房総の伊八関連の作品はいずれも、寺社が細々と管理していて、行元寺のものなどは撮影も不可で、これでは一般に知られようがなく、まして研究対象にはなりにくい。もっと広く公開して、代わりに保存や展示の支援をしてもらえばいいのにと思うのだが、いまはお金のかかる文化財の保存に自治体も国も及び腰なのだろう。観光の目玉として売れるなら利用するという程度の、安易な対応をされて終わりなのかもしれない。政財界の有力者に文化人のいない国は、いずれ集団としてのアイデンティティを失う運命にある。
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