こんな経験がきっかけで車輪の歴史に興味をもったことから、あれこれ検索するうちに何度も拾い読みすることになったのが、デイヴィッド・W・アンソニーの『The Horse, the Wheel, and Language』(2007年)だった。その後、『100のモノが語る世界の歴史』の仕事でウルのスタンダードの鮮明な写真を見て、初期の車輪にはスポークすらなかったことに気づき、一つの技術が生まれる背景にどれだけの歴史が存在したのかを思い知らされた。
一連の仕事がひと段落した2015年にとうとう原書を手に入れ、一気に読んだあげくに、折しも開催されていた「大英博物館展」の内覧会のあと、いま思えば能天気にこの本の翻訳企画を大英の仕事の編集者にもちかけたのだった。以来、紆余曲折を経てこのたびようやく邦訳版が完成した。邦題はそのままずばり、『馬・車輪・言語』となったが、「文明はどこで誕生したか」という副題が本書の内容を凝縮している。
言語学と考古学という二つのまるで異なる分野の架け橋をつくることと、ロシア、ウクライナ、東欧という、長らく壁の向こうで馴染みのなかった地域の歴史と地理を概説することを目的とした本なので、著者は平易な文章を心がけ、専門用語を噛み砕いて説明している。だからこそ、私のような門外漢でも訳せると錯覚したのだが、いつものように調べた訳語をノートに書きつける程度では埒が明かず、途中でキリル文字や妙なアクセントだらけの東欧の文字の表記とともに、固有名詞をエクセルに入れ直す羽目になった。著者はアメリカ人なので、ロシア語などで書かれた論文から、これらの地名や文化名を一つひとつ拾っていった苦労は並大抵のものではなかったろう。そのためか、原書はスペル間違いも散見され、私は余計に悩まされることになった。
本書について述べたいことはいくらでもあるが、まずは馴染みの薄い比較言語学に関連したことを書きたい。学生時代に言語学のほんのさわりだけ習ったことがあるが、当時の私にはチンプンカンプンでどうも興味がもてなかった。その後、『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』(朴炳植著、HBJ出版局)という本を読んだことがあったが、いかんせん基礎知識がないため、いつか検証してみたいと思いつつ、半分ほど理解して終わった。したがって、私にとっては本書が事実上、初めて本腰を入れて読んだ言語学の本ということで、正直言えば、過去200年にわたって言語学者たちが築いてきた功績について理解するのが精一杯だった。
それでも外国語を専攻し、こうして日々、言葉と格闘している身としては、本書の記述には思い当たる節が多々あった。その一つはクレオール語だ。別々の言語が収束した結果生じた言語のことで、名詞が格変化せず、単数・複数の区別がなく、動詞は時制、性別、人称によって変化せず、副詞や形容詞を強調するために反復するなどの説明を訳しながら、タイ語や日本語はクレオール言語ではないのかとふと思った。タイ語では、時制はただ助動詞か副詞を加えて表わすし、「マークマーク」や「ローンローン」のように形容詞を重ねて程度を表わす方法はえらくシンプルで、なかなか英語を覚えたがらなかった娘が、タイ語は素直に学べた理由がそこにあった。子供にしてみれば、「いっぱいいっぱい」、「暑い暑い」と言っているのと同じで、親近感を覚えたのだろう。だが、逆に言えば、日本語でもそういう表現は可能だということだ。日本の地理的条件や歴史を考えると、氷河期以降、大陸から海を越えて渡ってきた人びとは最初から家族連れで移住してきたわけではないだろう。男性中心で構成された渡来人が、すでに日本列島にいた女性と家庭を築き、その過程で語彙は増え、文法は単純化された可能性がありそうだ。渡来人は数こそ少ないが、高度な技術をもち、何よりも筆記を日本に伝えたわけだから、その影響力は絶大であったはずだ。
もう一つ、とくに印象に残ったのが、どういう状況で言語の交替が起こるかに関する考察だ。スコットランドの漁民が話していたゲール語が、戦後、漁業の衰退とともに急速に消えていったことが例として挙げられ、わかりやすくこう書かれていた。「廃れてゆく言語にまつわる否定的な評価は、孫子の代によって重要度の低いものへと分類され直しつづけ、しまいには誰もおじいちゃんのように話したくはなくなるのだ。言語の交替と過去のアイデンティティの蔑視は、密接に関連しているのである」
最近、やや下火になったが、一時期、「美しい日本語」が大いに流行った。翻訳文はただでさえ固有名詞がカタカナ表記なので、できる限りカタカナ語ではなく日本語に置き換えろと、故鈴木主税先生に言われつづけたため、前述のように私は日々、「日本語の」訳語を探すことに悪戦苦闘している。でも、それは結局のところ、「配偶者選好性」のような漢語に行き着くことが多く、大和言葉はあまりにも語彙が足りない。近年の日本語礼賛ブームは、じつは日本人としてのアイデンティティが揺らいでいることへの危機感の裏返しなのであって、これは決して言語だけの問題ではない。
近年は、英語の早期教育をめぐる問題でも意見が大きく分かれている。実際には文科省の教育制度への不満が大きいようだが、すべての日本人に外国語が必要なわけではないという主張は、国内で安泰した地位を享受している人の発想だ。本書によると、こうした「地元型戦略」の人は、「自分が育ってきた母語である言語で、必要なことはすべて賄えるので、彼らはその言語だけを話すようになりがちだ」という。大学教育を受けた北米人の大半がこのカテゴリーだそうだ。だが、この先の世代にも、高度成長期やバブル時代を謳歌してきたわれわれの世代と同じ機会が確保できるのだろうか。あいにく、明日の暮らしの保証もない私のようなフリーランスは、リスク「分散型戦略」で多くの外国語を学ばざるをえない。言語というものにたいするこのような視点が得られることも、本書の大きな魅力の一つだ。ぜひご一読を。
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