そう思った理由の一つは、『馬・車輪・言語』を訳した際に参考に読んだ、沖ノ島など、ムナカタの遺跡に関するいくつかの論文だった。図版にステップからの技術を思わされる銅矛などが掲載されていて、遼寧式と書かれていたことだ。そこで、五胡十六国時代についてざっと学び、遼寧式銅剣は春秋戦国時代の燕にいた遊牧民と関連がありそうなことまではわかったが、決定的な参考文献となりそうな本が高額で、図書館にも入っておらず、まだ読めていない。一方、少し時代は下って4世紀から5世紀にいまの遼寧省西部を中心に前燕、後燕、北燕の「三燕」を相次いで建国した鮮卑の慕容部が、日本の古墳時代と奇妙につながりがあることはわかった。そこでこれに狙いを定めて少々調べてみた。以下、その付け焼刃の知識から、頭のなかを整理するために少しばかりまとめてみた。
3世紀から4世紀にかけて、ユーラシアでは気候が寒冷化して牧草が育たなくなり、遊牧民が次々に南下した。鮮卑とはひどい漢字を当てはめられているが、東洋史学者の白鳥庫吉は、帯鈎(たいこう、帯金具)を意味する古代トルコ・モンゴル語särbiがその語源の一つではないかと考えていた。三頭の鹿が並ぶ図柄のベルト・バックルや、「晋式帯金具」と呼ばれる龍文や葉文の透かし彫りが施された金具が出土している。ステップの騎馬民族にとってベルトが象徴的な意味をもっていたことを考えると、なるほどと思わせる説だ。鮮卑はいくつかの部(氏族)に分かれており、華北を統一して五胡十六国時代を終わらせた北魏の建国者はその拓跋部だった。
上野三碑は北魏や仏教関係者と関連があると言われる。鮮卑は氏族外婚制であるため、母方の血筋が部ごとにかなり異なるらしい。慕容部の始祖とされる莫護跋は3世紀後半にかつての長城の南側の大凌河流域、つまり元の「燕」に移り住み、晋の礎を築いた司馬懿に協力して勢力を伸ばし、その子孫がやはり「燕」の国号で前燕を建国した。羽振りのよい時代には中原にまで進出した三燕国だが、本拠地は遼西の龍城、現在の遼寧省朝陽市だった。慕容部については、『晋書』に、歩くと薄い金属片の葉が揺れる、当時流行の歩揺冠をこの莫護跋が気に入っていたため、歩揺が訛って慕容になった(其後音訛、遂為慕容焉)という説が、真偽はともかく書かれている。中国語だと慕容はMurong、歩揺はbuyaoで似ても似つかないが、ハングルだと容はyong、揺はyo、日本語ならどちらも音読みはヨウなので、鮮卑の言葉はこれに近かったのかもしれない。
この歩揺冠は、印欧祖語の原郷であるドン川下流のノヴォチェルカッスクにある紀元前1世紀のサルマタイ王女墓や、アフガニスタンの後1世紀のティリヤ・テペ遺跡などにその源流が見られ、日本では藤ノ木古墳や三昧塚古墳、山王金冠塚などから歩揺付きの金銅製の冠が出土しており、新羅からは純金の金冠も6点見つかっている。金銅は、青銅製品に水銀に溶かした金を塗り、加熱して水銀を蒸発させ金を付着させてつくるそうだ。日本では銅も金も8世紀にようやく産出するようになり、錫鉱が見つかったのは確か明治になってからで、辰砂は早くから採掘していても水銀に精錬できていたかは定かではなく、アマルガム鍍金は難易度の高い技術だ。歩揺は小さな飾りだが、歩くと揺れて光るだけでなく、金属音がしたのではなかろうか。質素な土器や炻器をつくって暮らしていた人びとにとって、その輝きと音は、文明と権力を何よりも表わす威信財だったに違いない。昭和初めの作であるうちのお雛様は、享保雛と似たような垂飾がゆらゆらと下がる冠をつけている。こんな冠を日本でも実際を使っていたのかと、子供心に不思議だったが、能や稚児行列の天冠にも似たものが見られるし、大日如来の冠や舞妓のびらびら簪まで、その後継種はいまもいたるところに健在だ。日本と朝鮮半島からは、歩揺のついた金銅製の靴も副葬品として出土している。飾履と呼ばれるこうした靴は、サイズが巨大で、底面にまで歩揺がつくなど、実用ではなかったようだ。鮮卑の飾履は本体が革製だった可能性がありそうだ。
鮮卑の遺跡から出土する「晋式帯金具」の詳しい研究が長年かなり行なわれているのは、4世紀前半とされる日本の新山古墳と、5世紀とされる行者塚古墳からも類似の金銅製帯金具が見つかっており、早期における東アジアの交流の証拠となっているからだ。日本で出土した帯金具についている文様は、「三葉文」と呼ばれている。三葉文は前燕建国前の晋代のものとされる十二台のM8713号墓や房身村2号墓から出土した樹状の金製歩揺の土台にも見られる。金沢大学考古学紀要32の大谷育恵氏の「三燕金属製装身具の研究」(2011)には多くの写真が掲載されており、参考になる。生命の樹を表わしたこの装飾は、土台の四隅に小さな穴があり、布製の冠に縫いつけた金璫(きんとう)と考えられている。最初に見たとき、この文様はそれこそ燕ではないかと思ったが、中央の突起のない「双葉」になることもあり、パルメットの東アジア版の忍冬唐草文、つまりスイカズラ属のつる草と考えられているそうだ。鮮卑に忍冬はしっくりこないが、中国語でも金銀花と呼ぶようなので、鮮卑の金ピカ好きを反映するのかもしれない。これは仏教と関連して西域から伝わった文様のようだ。三燕時代の墓とされる遼寧省北票市の喇嘛洞墓地から出土した帯金具には、これとそっくりなものと、少し異なるものがあり、前者が晋朝の官営工房でつくられ、後者は三燕での模倣品と考えられている。鮮卑はステップや西域の文化を身につけてきたように、漢文化も積極的に取り込んでいたのだ。新山古墳の年代が4世紀前半だとすれば、その帯金具を日本にもたらしたのは誰だったのか。
細々と書いたらきりがないが、馬関連で何よりも気になるのは、6世紀後半の藤ノ木古墳から出土した金銅製鞍金具と、朝陽市十二台88M1墓出土の鞍金具の文様の類似だ。金銅製で亀甲繋ぎ文に透かし彫りという点は、無関係とは思えない。しかも、それぞれの角に円形の飾りが付いている点までそっくりだ。亀甲繋ぎ文は飾履にも刻まれていたので、なおさら興味がわく。ネットで調べる限り、慶州や大邱の遺跡からも類似の鞍が出土している。三燕の鞍金具と日本で出土するものとのあいだには、型式上で若干異なる部分があるようで、朝鮮半島を経由して技術が伝わる過程で型式が変化したのではないかと、『三燕文化の考古新発見』(飛鳥資料館)には書かれていた。
鮮卑に関連した遺物は、中国でも江蘇省から広東省まで広範囲で見つかっているという。高句麗を経由せずに新羅や伽耶に鮮卑の文化が伝わったのは、黄海の交易に従事していた海洋民がなんらかの形でかかわっていたとも考えられている。いずれにせよ、古代の謎は簡単には解けそうもない。気長に調べていくことにしよう。
いくつかの地図を元に合成した遼西、遼東一帯の地図
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