2019年7月30日火曜日

2019年上田調査旅行

 いまを逃したら、また当分行けない。昨年から働き詰めで少しは骨休めもしたいところだったが、そんな思いに駆られて、訳了後、上田まで短い調査旅行にでかけてきた。幸い、急なお願いをしたにもかかわらず、お話を伺いたかった先生方とのアポイントも取ることができ、これ以上、望めないほど凝縮した実り多い二日間となった。  

 上田に着いて真っ先に向かったのは、グーグルマップで見つけた海野町の村田靴店だった。最後の上田藩主松平忠礼の馬具の一つで、鞍の下に敷く泥障(あおり)が、この靴店に保存されていることを知ったからだった。昭和の初めに書かれ、のちに『上田藩松平家物語』として編纂された松野喜太郎の本にその記述を見つけ、現物が残るのであれば見たいと思ったのだ。上田の中心にある商店街に「創業明治20年」のそのお店はまだ存在し、店内にいらしたご高齢の店主にお尋ねしてみると、なんと上田に残る数少ない旧藩士のご子孫で、私の祖先同様、江戸詰めだったとのことで話が弾み、お父上の書かれたご本まで頂戴してしまった。残念ながら泥障そのものは、「お城に寄贈した」とのことで見られなかったが、店内には私がこのところずっと所在を確認して回っていた上田藩関連の写真の焼き増しも飾られていた。  

 今回初めて、松平忠固の遺髪・遺歯を納めた願行寺のお墓にも詣でることができた。明治4年建立の墓碑が脇にあったが、帰宅してから墓石の画像を画面で拡大してみると、亡くなった安政6年の11月に分骨のような形で上田に建てたものであることがわかった。虎ノ門の天徳寺にあった本来のお墓は、関東大震災後この敷地が整理・再開発された際に改葬されてしまったものと思われる。『上田藩松平家物語』からは、上田藩に最初に召し抱えられた祖先が宝永3年に、上田の七軒町北側西ヨリ一に住んでいたこともわかっていたので、いまは静かな住宅街になっているその一角も歩いてみた。上田市内はどこもノウゼンカズラが見事に花盛りだった。  

 大収穫があったのは、なんと言っても上田市立上田図書館だ。地元史に関して多数の論文を書かれている尾崎行也先生が、お会いする場所としてここの小会議室を用意してくださったおかげで、限られた時間のなかで相当な量の史料を調べることができた。尾崎先生の論文等で、明治初期に書かれた『上田縞絲之筋書』という史料に私の幕末の祖先、門倉伝次郎も登場することがわかっていたので、大正時代に抄写された原本をまずは閲覧させてもらった。ペン書きながら達筆なため、帰宅後またFB友の方に読むのを手伝っていただき、佐久間象山の指図で製造された馬上銃を藩内でも製造し、大森台場で試射もしていたことなどがわかった。  

 今回、個人的に最も多くの情報を得られたのは、上田の郷友会の月報だった。明治18年創設のこの団体は、実際には明治11年ごろから上田を離れて東京に移り住んだ同郷者のあいだで自然に誕生したものだという。この会の存在は以前から知っていたが、月報を調べたことはなかった。きちんと月報が発行されるようになった時代には、高祖父は移住先の茨城県の谷田部で他界していたからだ。ところがつい先日、古い月報記事のコピーを頂戴した際に、その前ページに一月例会の12人の出席者の1人が私の曽祖父であることを発見したのだ。曽祖父は生まれてまもなく上田を離れたはずなのだが、世代を超えてこんな形で地縁がつづいていたことに驚かされた。  

 大正4年のこの月報からどんどん時代を遡って調べてゆくと、曽祖父は年に数回、神田仲町の福田屋(いまの秋葉原電気街付近)などで開かれた例会に出席し、年間1円の会費を払っていたほか、慰安旅行か何かの集合写真にも写っていた。じつは、曽祖父は早くに亡くなったため、母の世代は誰もその顔を知らなかった。祖父母の遺したアルバムを整理した際に、見慣れない写真を見つけ、当時、存命だった祖父の末妹に、誰かわかるか尋ねてみたのだが、すでに記憶が曖昧で、戸惑ったような笑みを返されてしまった。曽祖父が他界したのはこの大叔母が幼児のころで、その後、関東大震災で焼けだされたため、父親の顔は知らずに育ったのかもしれない。ところが、今回の調査で見つけた名前入りの集合写真に写る人物は、紛れもなくアルバムの写真の人物だった。近親の親族の顔立ちとはかなり異なる、ちょっとモンゴル人風の顔だ。  

 時代をさらに遡って明治43年の、創立25周年記念号にまで辿り着くと、そこにはなんと門倉伝次郎に関するまとまった記事と写真が掲載されていたのだ! 感動のあまり、資料室の司書の方のところへ思わず月報を手に駆け寄った。なにしろその顔は、上田藩の古写真としてよく知られる騎乗姿の松平忠礼の横で黒い馬の引き綱を抑えているおじさんとそっくりだったからだ。馬役だった伝次郎は、「仙台産の青毛馬を購ひ、飛雲と名づけ、アプリン[イギリス公使館の騎馬護衛隊隊長]に託し、一年彼国の乗馬法を以て訓育せしめ、以て藩に引取る」と『上田市史』には書かれていた。村田靴店に一時期あったはずの泥障は、この写真に写るものと思われた。若い藩主の横に立つおじさんは、「容貌魁偉」という伝次郎の説明とも一致する人物で、私の知る親族とはあまり似ていないが、どことなく祖父を思わせる表情をしていた。写真を並べて多くの親戚に見せたが、誰も私の仮説には納得せず、そもそも曽祖父すらこんな人ではないはずだと言われつづけたのだが、私の推理どおりであったことが証明されたわけだ。高校時代によく似顔絵を描いていたのが何かしら役立ったに違いない。  

 上田藩の瓦町藩邸に関連してご連絡を取り、今回お会いすることができた長野大学の前川道博教授のご好意で、上田市教育委員会で文化財を担当する方々もご紹介いただいたところ、そこで衝撃的な事実を教えられた。上田藩関連の多数の古写真の大半が、現在、東京都写真美術館に収蔵されていることは調査からわかっていたが、一部の写真は所在が確認できず、それらがおそらくはコレクターのもとで焼失してしまったというのだ。幕末から一世紀半の歳月をくぐり抜けたはずの古写真の現物は、村田靴店で見た30代の忠礼像のオリジナルなども含め、21世紀になってから失われてしまったのだ。昭和50年刊行の『庶民のアルバム 明治・大正・昭和』(朝日新聞社)をはじめ、多くの写真アルバムに鮮明な画像が残るものの、アンブロタイプであったはずのこの写真の現物を目にすることはもはやできないのだ。写真は通常のモノ以上に、フィルムやデジタルの画像だけでも充分にその価値を発揮する。非常に残念ではあるが、これもまた忘却・喪失の歴史だと、諦めるしかないのだろう。 

 郷友会月報には、曽祖父の詳細にわたる追悼文も掲載されていた。それによると、「十四、五歳の頃、医士山極吉哉(山極博士の養父)の書生として厄介」になり、獣医ではなく、人間の医者になったのは、山極氏からの助言だったようだ。山極勝三郎は郷友会の発起人の一人で、祖父が留学を計画していたとき保証人になっていただいたことがあると叔母から教えられていた。実際には、山極家にはそれどころではない恩を受けていたことが、今回の調査から判明したのである。

「庶民のアルバム 明治・大正・昭和」に 掲載された騎乗姿の松平忠礼の写真

『上田郷友会月報』にあった 門倉伝次郎の写真

 村田靴店で見せていただいた 松平忠礼の写真

 上田の願行寺にある 松平忠固のお墓

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