2019年7月7日日曜日

『写真集 尾張徳川家の幕末維新:徳川林政史研究所所蔵写真』

 少し前のことになるが、『写真集 尾張徳川家の幕末維新:徳川林政史研究所所蔵写真』(吉川弘文館)という大型写真集を図書館から借りてみた。尾張藩主であった徳川慶勝が幕末から写真術にのめり込み、みずから撮影した大量の貴重な写真が残されていることを知ったのは、『葵の残葉』(奥山景布子著、文藝春秋)という小説を読んだからだった。当初の私の目的は慶勝の異母弟である桑名藩主の松平定敬について知ることだったので、写真集はついでに借りてみたようなものだ。ところが、じつに驚くべき発見が多々あって、それについてはいろいろ調べてからいずれ書くつもりだが、もう一つ写真集の巻末に「翻刻史料 徳川慶勝の写真研究書」という地味な、ただし非常に貴重な史料があったので、それについて今回は書いてみたい。  

 初めに断わっておくと、私は自分で写真を現像したこともなく、まして幕末や明治初期に撮影された古写真の技術については若干の説明を読んだに過ぎず、以下は私が理解した限りのことだ。当時主流だった方法は、ガラス板にコロジオン溶液を塗ってから、硝酸銀液に浸けて感光性をもたせ、これがまだ濡れているうちに写真を撮影するため、湿板技法と呼ばれる。慶勝の自筆の研究記録には、当然ながらまず「コロヽシヲン 合薬如左」としてこの溶液のつくり方が記されている。「ヨシウム 四文目、アーテル 十六ヲンス、アルコール 十六ヲンス、シキイトカツウン 二匁七分二厘」といった調子だ。アーテルはエーテルだろうと想像がついても、ヨシウムやシキイトカツウンはなんだろう。少しあとのページに「貼紙」の単語表があり、「jojum イオヂウム」、「Schiet katoen シキートカツウン」などと書かれているので、ヨシウムはjodium、つまりヨウ素で、シキイトカツウンはschietkatoen綿布らしいことが、グーグル翻訳等からわかった。  

 興味深いのは、慶勝がこう書いていることだ。「是迄ヨシウム曽達ヲ用ヱ。蘭名ノ方蘭字ソータニテ、三伯書ハホツタースト認誤也、ホツタースヨシウムハ無益。ホツタースハ草木ノ灰 曽達ハ海草也」。ちんぷんかんぷんで読み飛ばしたくなる部分だが、『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(ダートネル著、河出書房新社)を訳した際にアルカリのつくり方を知識としては学んだので、草木ノ灰、海草の文字から、ホツタースはカリ、曽達はソーダだろうと見当がついた。実際、ネット上で湿板技法について調べると、コロジオン溶液にはヨウ化カリウムが使われているので、慶勝はここでヨウ化ナトリウムではなく、ヨウ化カリウムを用いるべしと言いたかったのかもしれない。  

 コロジオン溶液にはさらに「カトミーム フロミーム」つまり臭化カドミウムなども手順どおりに混ぜなければならず、「先アーテルアルコールヲ交テ一両日ヲキ、フラントカツウンヲ入ヘシ、忽消散、一両日過ヨシウムヲ入ヘシ、六十時ノ間閉口ス」といった具合に、完全に混ざるまで手間暇かかるものだったが、ネットで調べたところ、出来上がった溶液は透き通ったレモンイエロー色になるらしい。  

 横浜開港後まもなく来日し、多くの写真を残したフェリーチェ・ベアトは、親友の画家ワーグマンの漫画雑誌『ジャパン・パンチ』のなかに「コロジオン伯爵」というキャラクターで登場する。彼もまたこの面倒な手順を踏んで、せっせとこの溶液を調合していたのだろうか。  

 慶勝の研究書は、硝酸銀にガラス板を浸けるための容器の図や、「画ヲ鏝(こて)ニテ温ム」と書かれた何やら可愛らしい図などもあり、徳川御三家筆頭の当主が、こんなことを熱心に本格的にやっていたというのは意外だった。安政の大獄で隠居謹慎を命じられていたあいだに研鑽を積んだのだそうだ。水戸の徳川斉昭の甥に当たる慶勝は、かなり強硬な攘夷論者だったが、西洋の技術の解明に取り組んだ一面もあったわけで、そこから学んだものは大きかっただろう。  

 湿板技法では撮影後のガラス板はネガとなる。ベアトなどはもっぱらそれを鶏卵紙に何枚も焼いていたが、ガラス板そのものの裏面を黒くすると、銀を含んだ感光部分が白くなってポジ画像に見えるので、それをそのままオリジナル一枚だけの写真として鑑賞するアンブロタイプもある。単純に裏に黒い布を敷くこともあったようだが、慶勝は「右ヲ(没食酸二合〆)陽画ニ用レハ黒色ヲナス」と書いているので、裏面を黒く塗っていた。没食子インクのつくり方も、前述のダートネルの書で学んだが、このインクは幕末の日本でも知られていたのだろう。いくつかの材料の調合リストを書いて、出来上がりの色が「黄ニシテアメ色」や、「薄紫色」、「白色ニテ不宜」などとも記している。白黒写真でも写真家ごとに色合いの違いがでたのだ。  

 慶勝のこの研究書にこれほど興味をもったのは、尾崎行也氏の「幕末期上田藩士の西洋受容──写真術を中心に」(『信濃』第50巻第9号)を読んだためだった。上田藩の大野木左門は尾張の阿部柳仙という人物から手ほどきを受けたのち、日本最初の商業写真家と言われる鵜飼玉川とも書簡のやりとりで、「ハイボウ」は「炭酸曹達より炭酸一トアトムを減候品」などと、意味不明な説明を受けたりしていた。慶勝は「ハイボヲ」について「次亜硫酸曹達液ノ代ニ用ヒテ宜」と書いているので、次亜硫酸ナトリウム(sodium hyposulfite、Na2S2O4)の代わりの薬品と考えていたようだ。実際には、英語の名称からわかるようにこれが本来「ハイポ」と呼ばれるべき薬品で、漂白剤などに使われるものだが、写真の定着剤として使われるチオ硫酸ナトリウム(Na2S2O3)になぜか「ハイポ」の呼称が「定着」してしまったらしい。こちらは酸素原子が一つ少ないので、鵜飼玉川はそれを説明したつもりだったのだろうか。写真業界のこの混乱が、幕末に始まったものであることがわかりじつにおもしろい(後日、hypoという名称が英語でも使われていたことに自分の訳書で気づき、確認したところ、チオ硫酸ナトリウムの旧名称がhyposulphite of sodaで、その名残だという)。  

 裏面を黒くする以前のガラス板の画像はネガであるだけでなく左右が反転しており、そのまま裏面を黒くすると逆版に見える。しかしガラス板なので、厚みで多少画像がぼやけたとしても単純に裏側を表と見なせばよいらしい。慶勝が撮影した初期の写真なども、着物の合わせや刀の位置は間違っていない。しかし、大野木は玉川に、女子は撮影時に襟を反対に合わせれば済むが、男子の場合、脇差しを逆には差せないと言わんばかりに、「然りとて画之裏よりゑの具をさし候事」は難しく、どう対処すればよいのかと質問している。画像はヘリニスなりエルニスなりでコーティングすれば問題がなかったと思われ、慶勝はその「陽像薬」の成分をアルコール、コハク、石脳油とする。こうして双方を読み比べると、ちょうどロゼッタストーンの解読のように、何かしら見えてくる。ぜひ写真の専門家に初期の写真術を読み解いてもらいたいものだ。

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