2020年11月11日水曜日

井戸対馬守覚弘

 相変わらず調べ物がつづいている。オランダ通詞の森山栄之助に関連して、井戸対馬守覚弘(さとひろ)について意外な事実を知ったので、書き留めておきたい。井戸覚弘は、私にとってはペリー来航時の応接掛の一人であり、吉田松陰や佐久間象山を収監した人だったが、彼は江戸の北町奉行になる前は、長崎奉行であり、そこでアメリカ人ラナルド・マクドナルドから森山らが英語を学ぶ機会をつくった人物なのだった。しかも、長崎奉行としての彼の前任者は高島秋帆を逮捕した伊澤政義で、鳥居耀蔵の姻戚というこの伊澤は、井戸とともに応接掛の5人のメンバーの1人となっていたのだ。なんとも込み入った狭い世界で、どういう人間関係なのか、私の頭のなかではまだ整理がつかないが、ラナルド・マクドナルドの手記を斜め読みして、井戸の人物像は朧げながらわかった気がする。  

 この手記は『マクドナルド「日本回想録」:インディアンの見た幕末の日本』という邦題で、立教大学文学部教授の富田虎男訳訂で1979年に刀水書房から邦訳出版されている。原書も村山直次郎という「近世日本対外関係史研究の草わけ」の人が編集に加わっているが、邦訳版はさらに訳者が研究を重ねて長い解説を書いたものになっていた。マクドナルドの手記そのものは、本人の生前には出版が叶わず、1923年にようやく1000部限定で出版された。私がワシントン州立図書館のサイトで見つけてダウンロードした原書には、461番と連番が振られており、訳者の富田氏が刊行から50年後にオレンゴン州アストリアの市立図書館を訪ねた際に、まだ数冊残っているからと言われて買い取ったのが、460番だったという。

 マクドナルドが捕鯨船プリマス号に乗り込んで日本への密航を企てた顛末は、地図を広げてたどりたくなる冒険物語なのだが、ここでは幕末の長崎での日々について書きたい。彼は1848年10月11日に、北前船天神丸で長崎に護送されてきて森山に会った。「彼は、私が日本で出会った人のなかで群を抜いて知能の高い人だった。[……]その眼は、魂のなかまで探り出し、あらゆる感情の動きを読みとるように思われた」と、マクドナルドは森山について書く。  

 印象的な場面は、マクドナルドが長崎奉行の井戸対馬守の前に連れだされるところだ。森山は事前にやってきて自分が通訳するからと励まし、お白州に入る前に「前戸のところにある金属板の上の像(イメージ)」を足で踏まなければならないと教える。プロテスタントの彼は、偶像など信じていないので踏み絵をためらうことはなかった。だが、お白州で粗末なゴザに座らされると、その扱いに腹を立て、奉行の井戸が入ってきて、森山が頭を下げろと何度伝えても、叩頭などするものかと顔をまっすぐ上げて井戸を直視する。その他の人びとがみな平伏し、静まり返ったなかで、マクドナルドと井戸は10秒か15秒か互いを見つめ合った。しまいに井戸は身を乗りだすようにして、太く低い声で何やら話しかけた。彼はあとから森山に「奉行様は、肝っ玉が太い奴だとおっしゃられた」と教えられる。原文ではこの場所は「you must have a big heart」となっていた。実際には井戸はなんと言ったのだろうか。その後、奉行は「どうやら森山に堅く誓わせているようだった」とも書かれていた。 

 この初対面のあとで、信仰についての尋問がつづいた。質問の一つは、天の神を信じているかで、イエスと答えると、天の神に関して何を信じているのかと森山が質問を重ねた。そこで、マクドナルドが自分の監督派教会の祈祷書の「使徒信条」を唱え始めて、「処女メアリーから生まれた神の唯一の息子ジーザス・クライスト」と言った途端、「森山は突然私の言葉をさえぎり、口早に『それで結構、もうたくさん』とささやいた。そのあと、私の答えを、少なくとも彼が必要と考えただけに限って、奉行に通訳しつづけ、私が思うに『処女メアリー』ないし『クライスト』という言葉にはまったくふれなかったようだ。その点、彼は本当に私の友だった!」と、マクドナルドは回想した。その後、奉行とその他の役人、森山のあいだで話し合いが行なわれ、最終的に住まいが用意され、問題を起こさなければ、待遇は改善されるという、井戸の言葉が伝えられる。  

 こうして、以前にも書いたような、森山をはじめとするオランダ通詞たち14人に、座敷牢のなかから英語を教える日々が始まったのだった。「奉行が約束したように、外出の自由を除き、欲しいものはなんでも、ほんとうに手に入った。彼らは私の聖書をかえしてくれさえした」と、マクドナルドは書く。日曜日の食事には豚肉とパン、バターも供され、それはマクドナルドだけでなく、監禁されていた外国人はみな同様の待遇であったと富田氏が書いている。 「なぜ国法を犯した罪人が、教師になれたのか、あるいは罪人を教師にしたのか」と、富田氏は問いかけるが、実際、目付から長崎奉行になった当時30代なかばとされる井戸覚弘と、28歳の小通詞助であった森山栄之助の2人による、この時代の日本では考えにくい、臨機応変な対応によって実現したことだったのである。それはまた、古代から大陸との行き来が盛んで、江戸時代も門戸が閉じられることのなかった長崎という土地柄ゆえでもあったかもしれない。森山らがマクドナルドから英語を学んでいなかったら、ペリー来航に始まるその後の外交交渉ははるかに困難なものになっただろう。  

 マクドナルドは長崎で7カ月間、監禁生活を送ったのち、ラゴダ号の漂流者15人を引き取りにきたアメリカの軍艦プレブル号に同乗して帰国したのだが、その際にも仲介役に立ったオランダ商館長と、井戸と森山が柔軟な対応を見せたようだ。1849年4月17日(嘉永2年3月25日)にプレブル号が長崎沖に現われた日は、ちょうど井戸と交代する新しい奉行、大屋遠江戸守明啓が着任した日だったが、お膳立ては井戸によるようだ。プレブル号艦長から書面で「自国のもの一五人なお追って一人都合一六人」と書いた漂流民引き渡しの要請をもらい、「漂流の者ども始末箇条書」を作成し、体裁も整えた形で送りだしたのである。ラゴダ号の漂流者は仲間割れして1人が縊死し、もう1人が病死していたため、帰国したのはマクドナルドを含め14人だったという。  

 井戸覚弘はその後、江戸北町奉行に栄転し、5年後にはペリーの応接掛に選ばれ、再び森山と仕事をすることになった。森山がペリーの再来航時に長崎から呼び寄せられたのは、井戸の発案だろうか。井戸の転任は、前述のように、プレブル号来航時にはすでに決まっていたので、「これらの覚弘の手腕を買われ、時の老中阿部正弘の推挙により」というウィキペディアの彼の項目の説明は、もう少し調べる必要がありそうだ。むしろ、外国人を杓子定規に取り締まるのではなく、適切に処遇し、英語を学ぶ機会までつくったことへの評価だったのではないか。井戸も森山も、相手の目をまっすぐ見つめ、お互いの信頼関係を築くことのできる人だったのではないかと思う。  

 先日書いた森山の誤訳説が生まれた背景には、森山が信教の自由を尊重したこの一件があったのだろうか。当時の日本に、忠実に通訳することを誓わせる習慣があったかどうかはわからないが、森山が処罰を受けることを覚悟のうえで自分の信念を貫き、マクドナルドを救ったことは間違いない。長崎で生まれ育ち、外国人と接してきた彼は、より広い世界があることを知っていたはずであり、日本という島国の狭量な国法を厳守すべきか、それとも良心の赴くままに行動すべきか葛藤したのだろう。  

 ペリー艦隊とともに中国語通訳として来日した宣教師ウィリアムズは、1858年に行なった講演で森山のこんな言葉を引用している。「もっと猶予をいただかねばなりません。あなた方にはすべてが明白でしょうが、われわれは暗室からまばゆい太陽のもとにでてきた人間のようなものであり、まだどの方向に物事があるのかはっきりわからないのです」(『ペリー日本遠征随行記』息子のF. W. ウィリアムズによる序文。拙訳)。圧倒的な力で迫る外国人に迎合するのではなく、当時の日本の苦しい状況を代弁しながらこうして切々と訴えた通詞がいて、対外交渉が心の通うものになったことは、日本が中国の二の舞を演じることなく済んだ大きな要因だったのではないか。

4 件のコメント:

  1. 井戸対馬守の墓地は旧領地の町田市成瀬の東雲寺にあります。妻女の方の終焉の地で、名主であった堀江家で墓碑銘をたててあります。

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  2. コメントをありがとうございます。東雲寺にあるのは、検索してみたら、ペリー来航時の在府浦賀奉行の井戸石見守弘道のお墓のようです。国書を受け取ったときに活躍した方だったかと。名前が似ていてややこしいのですが、井戸対馬守覚弘は応接掛になったときは江戸の北町奉行で、佐久間象山や吉田松陰らを蟄居にした人です。どちらも有能な人だったのに、開国前に亡くなってしまったようですね。

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    1. 返信有り難うございました。別人と指摘され驚いています。同じ時期に対外問題に関わった井戸対馬守が2人いたとは、、、、。初回ペリー来航時
      覚弘が、翌年和親条約締結じは弘道ということですね。ご教示ありがとうございました。

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  3. 東雲寺に葬られている方は、石見守で、井戸鉄太郎という名前だったようです。私も以前に白旗問題を見直そうと思って、土居良三の『開国の布石』を読んだときに、あれっ、井戸さん二人いるんだ!と驚きました。香山栄左衛門がペリー来航を江戸に知らせた際に報告した相手が、石見守のほうです。対馬守は翌年のペリー再来航時の応接掛です。ちゃんと調べたわけではありませんが、覚弘の対馬守の家が本家で、秀吉の朝鮮出兵で活躍したようですね。それで対馬守なんでしょうかね。弘道はその分家筋のようです。

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