2021年1月2日土曜日

シベリア

 暮れに拓殖大学の関良基教授とメールのやりとりをした際に、曾祖父の論文が掲載されていた雑誌がまだ大学に残っているか、いつか確認していただければとお願いしてみたことがあった。以前に『ロシアと拓殖大学』という論文集を図書館で借りて、その巻末リストから論文名等は判明していたためだ。すると、ただでさえ慌ただしい師走に、コロナ対策で部外者は入れない学内の大学誌編纂事務室にわざわざ出向いてくださったうえに、7本の論文・翻訳をすべてコピーまでとって郵送してくださったのだ。まだお礼もできずにいるので、せめて年末年始に頂戴したコピーを読むつもりだったのだが、今年は孫連れでトンボ返り帰省となったため、その時間すらとれなかった。「労農露国の新経済政策に就て」などというタイトルの論文がほとんどなので、しっかり読んで理解するのはまだ当分先のことになりそうなので、とりあえずこの貴重なコピーを入手できたことだけは書いておこうと思う。 

「一八五五年、時の東部西伯利[シベリア]総督〈ムラウィヨフ〉が、軍事上の願慮より、黒龍江口の植民に着意し、後具加爾[バイカル]より哥薩克[コサック]兵と其家族五十一家族、四百八十一人を、水路に依りて、黒龍江の下流地方に移住せしめたるを始めとして、漸次、移民を送ったのである」などという一文を読むのにも、固有名詞の漢字が読めず一苦労なのだが、ムラヴィヨフは幕末の日本に7隻の艦隊で来航し、国境を定める交渉をした人だ。このとき樺太を50度線で分割する案を最初に言いだしたのは、オランダ通詞の森山栄之助だった。この艦隊の来日時に起きた海軍軍人殺害事件は、咸臨丸を無事にアメリカに渡らせたブルック船長も克明に書き残しており、外国奉行の水野忠徳が冷淡な対応をとったために、このポストを外されるきっかけになるなど、その後も長く尾を引くことになった。 

「露領極東の交通に就て」という論文はシベリア鉄道に関するものらしく、こんなことが書かれている。「一時中外の注意を惹きたる黒龍鉄道は、其黒龍県に入りたる最初の駅をエロフエイ、パウロウィチと称し、哈府即ちハバロフスクを端末駅として以て、往昔露国が西伯利より南進して太平洋に向い侵略の爪牙を伸したる時代に於て、当時の所謂〈ダウリヤ〉の地たる、黒龍江沿岸地方併呑の先駆者たりしハバーロフの功績を記念する為、名と父称とを採りて黒龍県の入口たる一駅に命名し、又其姓ハバーロフに因みて、黒龍江畔に建設されありたるハバーロフスク市を終点としたる建設当時に於ける露国の意気込によりても窺知さるる如く純然たる、戦略上の鉄道であった」。シベリア鉄道は当時、黒龍鉄道と呼ばれていたらしく、その一部は東支鉄道(東清鉄道)と論文には書かれていた。黒龍江というと、中国の黒龍江省を思い浮かべてしまうが、これはアムール川のことだった。  

 この長い一文が目に付いたのは、その昔、このハバロフスクにシベリア鉄道で行ったことがあるからだ。中学1年のとき、イギリスに引っ越した幼馴染の一家を訪ねる目的で母が大旅行を計画し、何を思ったか横浜から船でロシアに渡り、途中一部は飛行機を使ったが、往路はおおむね陸路と海路でイギリスまで行ったことがある。横浜の大桟橋から、ジェルジンスキー号という船で出航した折には祖母や叔母一家、それに母を焚きつけたに違いない、外語大ロシア語卒の近所のおばさんなどが見送りにきてくれ、今生の別れといわんばかりに紙テープを盛大に投げたことを覚えている。  

 2泊3日の船旅は、ひどく船酔いしたために毎回の食事がスモークサーモンで辟易したことや、津軽海峡で漁火を見たこと、甲板で乗客が巨大なチェスをしていたことくらいしか記憶にない。私が初めて訪れた異国の地はナホトカだった。当時は知らなかったが、ウィキペディアによると、冷戦下のソ連は太平洋艦隊の軍港であるウラジオストックへの外国人立ち入りを禁じていたため、商港のナホトカが利用されたのだった。これも知らなかったが、ナホトカ–ハバロフスク間はシベリア鉄道の優等列車であるロシア号に外国人は乗れなかったため、私たちが乗ったのは連絡列車だったようだ。それでも、車掌さんが「パジャールスタ」と言いながらチャイをもってきてくれる列車の旅は快適だった。  

 ハバロフスクからは、離発着時の気圧の変化に備えて乗客に飴が配られるアエロフロートに乗ってモスクワまで飛び、そこでどういうわけか宮殿ばりの豪華なホテルのスイートルームに泊まった。手提げ鞄1つの貧乏旅行にまったくふさわしくない天蓋付きのベッドがあるような部屋を、なぜか旅行会社が手配していたのだ。  

 曾祖父が訳した「一英人の観たる赤露の近情」という短い紀行文を読んで、その理由がわかった気がする。「三十有余年来絶えず露国の事情を調査研究し」てきた「チャーレス、セロリ」氏が、革命後間もない1918年に再訪したときのことなどを綴った内容で、ペトログラードで1週間滞在した「エゥロツパ、ホテル」は宿泊客が6人ほどしかいないのに、「多数の召使いや、優秀な〈オーケストラ〉や、国立劇場から十余名の俳優や踊り子を呼び寄せてあった」という。これは「一種の宣伝用として、官費で経営されているのである。宿泊人へ[ママ]見えた少数の外国人は、実は広告の意味を有する一種の飾り」などと書かれていたのである。私が旅行した当時も、ソ連時代には外国人用の宿泊施設は高級ホテルに限定されていたのだろう。  

 モスクワからポーランドやチェコスロバキアを抜けてオーストリアまで一気に移動した鉄道の旅は、途中、国境を通過するたびに夜間でも検札が回ってきて下車させられた。それでも、ロシア人の男の子にドミノを教わったり、おじいさんに似顔絵を描いてもらったりするなど、長い旅をともにする乗客のあいだでいつしか対話が生まれ、強く心に残る日々となった。船から一緒に旅をしてきた京都のお姉さんが、留学のためにブラチスラヴァで下車して行ったのも印象的だった。  

 曾祖父の論文を拾い読みしながら思いだしたのは、この旅行だけではない。「既に前世紀の終より〈アルタイ〉、〈サーヤン〉山脈及び後具加爾地方に於ける、鉱物富源の開発は官営事業として、独占的に経営し」などと読めば、スキタイ以前からの騎馬民族の歴史を思いだすし、アレウト族やベーリングの探検などはフェイガンが何度も言及していた。曾祖父自身は旅順と満州には行っていたが、生涯研究したロシアに足を踏み入れたことはあったのだろうか。ほんの数日間とはいえ、孫とひ孫がソ連時代のロシアを訪ねたことを知ったら、きっと羨ましがったに違いない。中学生の自分が書いた旅行記を読みながら、また自由に世界を旅できる日々が1日も早く戻ってくることを強く願った。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 大量の論文コピー

 昔の大桟橋

 ナホトカ港

 モスクワのホテル

 モスクワからの列車内で似顔絵を描いてくれたおじさん

 似顔絵と当時の旅行記

2 件のコメント:

  1. あけましておめでとうございます🎍
    ブログ、のんびり読ませていただきますね❣️
    良い年になりますように❗️
    えおり

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  2. 新年早々にブログを見てくださったんですね! ありがとうございます。ちょうど母が最初にピアノを習った経緯が判明したところです。少し調べてまた書きますね! 年始から気の重い年ですが、お元気でお過ごしください。

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