なかでも驚いたのは、拙著で長々と取りあげた『写真集 尾張徳川家の幕末維新──徳川林政史研究所所蔵写真』(吉川弘文館)のなかの慶勝写真資料を整理なさったのが、大学院時代の岩下先生ご自身だったということだ。教えていただいた『金鯱叢書』第21輯(1994年)は図書館で借りられたので、「研究ノート 尾張徳川家の江戸屋敷・東京邸とその写真」という先生の論考を読むことができた。
上田藩の上屋敷だった浅草の瓦町藩邸が、明治になって尾張の徳川慶勝の手に渡り、写真愛好家だった慶勝が瓦町藩邸の写真を何枚も残していたために、私はこの写真集に大いに興味をそそられたのだった。藩邸に関して、私は上田藩の記録しかたどらなかったが、先生の論考から、慶応4年8月の段階で江戸の「郭内・外を決定し、郭内の旗本屋敷はすべて上地、大名屋敷は郭内一カ所、郭外は拾万石以上は二カ所、以下は一カ所」と定められたことなどがわかった。江戸の古地図と明治初期の地図を見比べながら、明治維新は革命だとつくづく思ったが、その発端はこの年の8月にすでに始まっていたのだ。
上田藩は「なぜ上屋敷をわざわざ江戸城から遠い浅草瓦町にしたのか」と、岩下先生が問うたとおり、この藩邸はJR浅草橋駅に近い場所にある。ここはもともと中屋敷で、上屋敷は中山道の終点のような筋違橋内にあり、藩主の松平忠固が老中であった時期は西ノ丸下の役宅が上屋敷になっていた。先生の論考では、唐津藩から引き継いだ本郷弓町の中屋敷が5083坪の屋敷だったはずだと指摘されていたが、最後の藩主忠礼の時代にもっていた弓町の屋敷は、万延2年の尾張屋板切り絵図では、神田上水懸樋近くの小ぶりな屋敷に見える。
「おそらくそこには、傷心の忠優(忠固)を慰めるに足りる歴代の居住者が営んだ汐入りの庭園があったと考えられる」という論考のなかの一文を読んだときには、思わず声を上げた。徳川慶勝の写真を整理された研究者も、瓦町藩邸の庭園を上田藩時代からのものと考えておられたのだ! 植木の茂り具合から、これは慶勝が新たに造園したものではないと私も考えていた。私の高祖父はこの藩邸にいたので、その光景を見ていたはずなのだ。江戸城からは遠いが、ここは中山道には近く、隅田川の感潮区間に位置するということは、川を容易にさかのぼれる場所ということだ。瓦町藩邸には上田の生糸商人も出入りし、長屋を貸し渡されていたので、忠固にしてみれば、江戸の中心街を通らずに横浜と船で行き来できる最高の立地だったのかもしれない。
上田藩瓦町藩邸があった付近の隅田川(2019年3月撮影)
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