2021年1月27日水曜日

Z旗

 昨夜、遅い夕食をとりながら夕刊を斜め読みしていたら、細野豪志氏が河野太郎氏のコロナワクチン担当に関連して、「いい判断だと思う。皇国の興廃この一戦にあり」とツイートしたと書かれていた。これは日露戦争時に連合艦隊の東郷平八郎司令長官が旗艦「三笠」にZ旗を掲げた際の発言なのだと、解説には書かれていた。ふと昨年、千駄ヶ谷に行った折に初めて立ち寄った東郷神社のことを思いだし、少々調べてみた。神社の境内にもZ旗が掲げられ、幟にも小さく染められていたからだ。 

「Z旗を掲げよ!」という檄を飛ばす言葉は、折に触れて小耳には挟んでいたが、娘がイギリスからもち帰り、まだうちの壁に貼ってある国際信号旗の一覧によれば、Z旗は「I require a tug」、「本船にタグボートを求む」という意味であり、港湾内や河川で曳航してもらうときの信号なのだ。ウィキペディアによれば、この旗を漁船が漁場で掲揚した場合は、「I am shooting nets」、「本船は投網中である」という意味にもなるそうだ。  

 どちらも必要な信号とはいえ、スローガンにするには格好が悪い。そのため、神社の境内にまでZ旗が掲げられているのを見て、私の頭には疑問符がいくつも浮かんでいた。夕刊の記事を手がかりに、少しばかり検索すると、1905年5月27日、対馬東方海域に差し掛かった午後1時39分(あるいは55分)に、旗艦・三笠のマストにZ旗が翻り、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ」を意味していたことがわかった。アルファベットの最後の文字なので、「もう後がない」、背水の陣の意味だったという。  

 ウィキペディアの「Z旗」の項の説明によると、ちょうど1世紀前の1805年のトラファルガー海戦でネルソン提督が「England expects that every man will do his duty」(英国は各員がその義務を尽くすことを期待する)というメッセージを信号旗でヴィクトリー号に掲げた故事に倣ったのだという。ネルソンが当時、使用したのは国際信号旗ではなく、戦いの数年前に考案されたパパムの信号の改良版だった。無線のなかった当時は信号旗が唯一の通信手段であったので、艦隊の信号旗担当者はその暗号を読む訓練をよく積んでいたに違いない。  

 現在も使われる国際信号旗がいつ普及したのかわからなかったが、Z旗はその一連の旗の1つだ。船舶同士が互いにメッセージを伝え合うための国際信号旗に、世界共通の意味とはまるで異なる意味を、国際ルールなどお構いなしに付与して、それが理解されたということは、開戦前に艦隊全員に訓示した際に周知させたのだろう。対戦相手のロシア艦隊は、双眼鏡で覗いて三笠にZ旗が翻っているのを見て、対馬北東の狭い海域とはいえ、海の真っ只中でタグボートを頼んでいるのだと誤解しなかったのか。  

 つい気になって、曾祖父が訳した『嗚呼此一戦』(ウラジミル・セメヨーノフ著、博文館、1912年)をぱらぱらとめくってみた。5月27日の海戦を克明に描写した箇所には、「一時三十分、第一戦艦隊が第二及び第三戦艦隊の前首に進み、将に旧進路に転進せんとし、『第二戦隊は第一艦隊に続航せよ』との信号は[が?]掲げられたとき、殆ど之れと同時に前方遥かの朦気の中に、敵の主戦隊は微茫として顕出し始めた」などと書かれている。だが、つづいて「既にして我隊の左側へ進み来りしとき、旗艦三笠は急に南方へ回針した。三笠に次いでは敷島、富士、朝日、春日、及び日進の諸艦が続航した」となり、三笠のマストに掲揚されていたはずのZ旗は、当時の双眼鏡の性能に限界があったのか、幸い気づかれなかったようだ。  

 もっとも、対馬海戦当日の早朝の描写には、「今や興廃を分かつ此の大戦闘!其の為めには先づ勢力の集中を必要とするは言を待たぬ」などとあるし、同書の初めのほうでも、「東郷は躬ら其の優秀なる十二戦艦の首脳となり、何れかの地点に一纏めに待ち伏せて、興廃を此一戦に決せんと出動し来るに相違ない」と、曾祖父は訳していた。当時、この言い回しは広く知れ渡り、流行の言葉になっていたのだろう。  

 ちなみに、この本の著者は、ロシア艦隊の記録係として旗艦スワロフに乗り組んでいた海軍中佐で、海戦で負傷しつつも午後7時40分まで甲板に横たわりながら記録を残し、その後、水雷艇で脱出したようだ。意表を突く日本側の作戦について詳細に言及しながらも、この著者はロシアの敗因を艦隊が老朽で速力に劣り、火力でもはるかに及ばなかったためとしている。  

 Z旗の掲揚はその後、日本の海軍のあいだで象徴的な意味をもつようになり、真珠湾攻撃でも空母赤城が掲げたとも言われるが、さすがに昭和なかばでは誤解を避けようと思ったのか、実際にはD旗につづけてG旗、つまりDG旗を掲揚したという。山本五十六が乗り込んだ旗艦の長門でなかったことにも、何らかの意味がありそうだ。国際信号旗では、この組み合わせ「I have a motor boat」(本船はモーターボートを保有している)という意味らしい。誤解されても無難なものを選んだのか。  

 Z旗は、一部の人にはいまなお強烈な象徴的意味をもつようで、日産のフェアレディZがその意味で命名された逸話から、この旗の刺繍ワッペンまで、いろいろネット検索された。細野氏のツイートもその流れを汲むものなのだろう。2011年にイージス艦「ちょうかい」が日米合同軍事訓練で掲揚したのをきっかけに、再燃したブームでもあるという。だが、背水の陣のつもりが、曳舟頼む、と誤解されかねないマークだ。もう少し調べればいいのに、とつい言いたくもなる。まあ、いまの日本は、それこそ誰か引っ張ってくれ、という状況ではあるが。

 東郷神社、2020年7月撮影

 国際信号旗表

『嗚呼此一戦』より

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