2021年3月7日日曜日

古いアルバム

 正月以来、細々とつづけていた祖父母のアルバム整理がようやく終わった。セピア色の写真に写る人びとが誰なのか、いつどこで撮影されたのか、いまとなっては解明しようのないものも多かったが、存命の親族や高齢の母にメールや電話でたびたび聞き取り調査をして情報を搔き集めて、アルバムにメモを書き込んだ。もっとも、親族が集まる機会はめっきり減ってしまい、アルバムそのものを回覧することは難しい。そこで、せめてスキャン画像だけでも見られるようにと、小冊子を親族の世帯数だけつくり、配布することにした。すでに使い方をすっかり忘れていたインデザインを久々に開き、何度もやり直した挙句に、昨夜なんとか無事に入稿することができた。 

『埋もれた歴史』の調査過程で古写真の研究のイロハを学んだので、祖父母のアルバムを解読するうえではそうした知識が大いに役立った。写真の裏面に書かれたメモは重要な手掛かりになるので、アルバムの台紙に糊付けされた写真はまず注意深く剝がさなければならなかった。  

 古い写真には、往々にして撮影した写真館の名前が下の隅にエンボスされている。幼い伯母や赤ん坊の母が写る3枚の写真には、すべて大石寫眞館というエンボスが入っていた。祖父が朝鮮窒素肥料の勤務医となったため、一家は一時期、いまの北朝鮮の興南に移り住んでいた。当時そこは、世界最大規模と言われた化学コンビナートだった。雪がたくさん降ったのでズボンを穿いてスキーをしたところ、女がそんなことをするのは珍しいと新聞に載ったのだという自慢話を、子供のころ祖母から聞かされ、写真を見せてもらったように思うのだが、その記念すべき写真は見つからなかった。  

 曾祖父が朝鮮に送ったと伝わる段飾りの横に伯母が座る写真は、床の間のある古びた日本家屋で撮影されている。そのため、実際には帰国後の写真ではないのかと、ずっと疑っていた。祖父母が結婚直後に住んでいた中野に昭和初期創業という同名の写真館も見つかったので訪ねてみたが、昔のことはよくわからなかった。最終的に、段飾りの横にいる伯母の両足を投げだした座り方から1歳の春に撮影されたと判断し、それならば母が生まれる前、つまりまだ朝鮮にいた時代だとわかり、これら3枚が朝鮮にあった大石寫眞館によるものと結論づけることができた。  

 朝鮮からいつ帰国したのかもわからなかったが、母が1歳の誕生日に撮影されたことが裏面メモからわかった写真に、J. Moriとエンボスされていて、帰国後に祖父が勤めた鳥取陸軍赤十字病院での記念撮影写真が、やはり同じ写真家のものだったので、母が1歳になる前に帰国していたことも確認できた。  

 写真に写り込んでいる家具・調度からも、面白い事実がいろいろ見えてきた。朝鮮での家族写真で祖父母が座る肘掛椅子2脚が、母の1歳の写真にも写り、揃いのソファがあって応接セットであったことが、のちの長野時代の写真からわかった。おそらく朝鮮で張り切って購入した応接セットを日本までもち帰ったのだろう。お雛様が海を越えた話は語り継がれていたが、祖父母はどうやら応接セットまで運んだらしい。姉が祖母から聞いた話によると、帰国した際の船はひどく揺れて、船中で酔わなかったのは船長と祖父と、赤ん坊の母だけだったそうだ。祖父は船長と食事までしていたという。  

 応接セットはその後も引越しを重ねるなかで使われつづけ、屋代の家の応接間にもあったことがピアノが写り込んだ写真から判明した。じつは、私の両親が結婚するに当たって、父方の父母が挨拶にきたときの逸話がある。メモが残っていないので記憶のみなのだが、父が他界した折に、昨年、故人となった叔母から教えてもらったのかもしれない。  

 父方の祖母は熱心な仏教徒で、まずはご仏壇に挨拶したいと申し送ってきたのだという。母の実家は誰も信心深くなく、仏壇がなかったので、慌てて申し訳程度の小さな仏壇を購入したのだそうだ。このときの小さな仏壇は、いまも亡叔父の家にあるはずだ。さらに当日、応接間に通して椅子を勧めたとき、座布団が裏返しだと思ったのか、ふだんは決してそんなことをしない祖父がそれをひっくり返したため、破れていた表側を隠してあったのがバレてしまった、という笑い話だ。父の両親に勧めた椅子は、かなりの可能性で朝鮮からもち帰った黄色いソファだろう。  

 ソファの物語には続きがある。私が小学校に上がる前に、母がピアノ教室を開くために祖父母の家から運んできたソファが、この黄色ソファだったのだ。当時、母が運転していた中古の日産ブルーバードのステーションワゴンの後部座席を倒してソファを積み、旧碓氷峠を越えてたいへんな思いで運んだことは、私もぼんやりと記憶している。娘の高校時代の聞き取り調査ノートによると、その車を運転したのは別居中の父だったようだ。幼児2人連れで大荷物を運ぶのはさすがに無理と思ったのだろう。  

 このソファには、母が近所の人に習って、丁寧に刺繍を施した座布団カバーと背もたれカバーが掛けてあった。2種類あったカバーの色や模様を私はじつによく覚えているのに、ピアノの部屋ではるかに長い時間を過ごしたはずの姉は、ちっともそれを記憶していなかった。姉は真剣にピアノに向かっていたのに、私はソファに寝そべって本を読み、ピアノの練習はサボっていたためだろうか。渋い黄色の、だいぶくたびれたビロード生地もよく覚えているが、肘掛部分はどんな形状だったのかはっきりと思いだせない。そこを乗り越えたりくぐったりして遊んだはずなのに、人の記憶は本当にまだらだ。一連の写真を眺めることで、思いがけずうちにあったソファの来歴を知り、遠い記憶を呼び戻すことになった。母によると、その後ソファは、ピアノをグランドピアノに買い換えた際に置き場がなくなって、児童ホームに寄付したものの、すぐに壊れて廃棄されたそうだ。  

 長野の家の応接間で撮った写真の背景には、曾祖母が朝鮮を訪ねた折に土産に購入し、自分でかかえて帰ってきたという巨大な石炭製カラスの彫像が写っていた。ワタリガラスだろうか。このカラスの置物は、祖母がケアハウスに移るまではあったので、『カラスの科学』を訳した際に私はよく思いだした。目にはオレンジ色のメノウが入っていた。  

 石炭のカラスをもち帰った曾祖母は、末っ子(私にとっては大叔母)が出産した際には、その手伝いで満州にも渡った。満鉄に勤めていたという大叔母の結婚相手の写真も何枚か見つかった。満州で生まれた子は1歳前後で亡くなってしまい、大叔母はその後離婚して定年まで勤め、92歳で亡くなるまで自分のお金で施設での生活費を賄った。遺品から、亡くなった子の写真が見つかったと聞いた。  

 何度も海を渡ったこの曾祖母が、長女一家とともに写る色褪せた写真は、私のお気に入りの1枚だ。断崖を背に和服姿の曾祖母がレンズを睨むようにして立つ様子は、困難に立ち向かう難民一家を思わせる。場所は鎮守府のあった横須賀か呉と思われるので、小冊子を配る際に聞いてみたい。嫁である祖母とは仲が悪く、うちの母からもあまり好かれていなかったこの曾祖母は、早くに夫を亡くした苦労人だった。この写真に逞しく生きた姿を見るような気がする。  

 祖母方の曾祖母のほうは少しばかり長生きし、晩年はつねに母たちの近くで暮らしていたのだが、下関出身ということ以外にほとんど情報がない。姉に当たる人の写真や、その子孫の写真が残されている程度で、実家についてはまるでわからない。祖母が晩年に、子供のころ田舎からよく送ってもらったと言って、江戸金の亀の甲せんべいの缶を大事そうにかかえていたのを思いだし、つい取り寄せてみた。缶に印刷されているのは、曾祖母の出生地の阿弥陀寺町にある赤間神宮ではなく、隣接した亀山八幡宮で、久々に食べてみると、なんということのない、よくある味だった。  

 昔、見たときには関心がなかった、こうした「おばあさん」たちの写真に興味が湧くようになったのは、自分自身が同じような年齢に近づいたからだろうか。作成中の小冊子は完璧とは程遠い代物にしかならないが、世代が大きく交代しようとしているいま、何かしらはまとめることができたので、ちょっと達成感がある。出来上がりと親族からのフィードバックが楽しみだ。

大石寫眞館のエンボス入りの写真

長野の家で黄色い応接セットに座る一家。背後に石炭カラスの置物

大叔母一家と曾祖母
この写真を見た知人が、背景から阿蘇山で撮られたものと推測しておられ、実際そのとおりであったことが、このたび判明した!

 江戸金の亀の甲せんべい

完成した小冊子。表紙には、祖母が子供のころもっていて、孫たちに切り分けてくれたリボンを使った。すでに繊維がボロボロで、スキャンをする隙から崩れそうだった。

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