皇室関係はタブーも多く、あまり触れたくない領域ではあるが、英照皇太后と九条家に関することは日本の近代史にとって重要であるにもかかわらず、うやむやにされ忘却されたと思われるので、判明した限りのことを一度整理しておきたい。
孝明天皇の肖像画と並ぶ下のポストカードは、明治40年に大喪から10周年を記念してつくられたものだ。皇太后の写真は、遺影に使われたものと同じで、小川一眞撮影という。だとすれば、小川がアメリカから帰国後の1884年以降の写真である可能性が高い。40代後半か50代でこの美貌ということは、まさしく美魔女だ。逝去した年に発行された『御大喪図会』にある写真にも小川一眞撮影と書かれていた。
英照皇太后の肖像として比較的知られているのは、絵画館に飾られている荒井寛方画の「富岡製糸場行啓」だろう。髪はおすべらかしで袴を穿き、足元は靴という斬新な装いで、前年に創業したばかりの工場を美子(はるこ)明治天皇妃、つまりのちの昭憲皇太后とともに視察する様子を描いた作品だ。どちらが皇太后か迷うほど、2人とも女学生のように溌剌とした姿で描かれている。孝明天皇が2度の攘夷祈願の行幸を除けば、おそらく宮中から一歩もでなかったことを考えれば、このときの行啓は驚くべき時代の変化と言える。この2人は馬車に「御同車」して各地を訪れ、横浜や横須賀の軍艦の視察にまででかけた。開通したばかりの汽車にもたびたび乗車し、京都に戻るときは船も利用している。こうした行啓は周囲からの要請あってのことだったのだろうか。
英照皇太后は、右大臣九条尚忠(1798–1871年)の娘、基(のり)君として生まれたが、生母も生年月日も諸説あって定かではない。煕宮、つまりのちの孝明天皇の御息所に選ばれてから夙子(あさこ)と名前が変わった。先代の仁孝天皇の女御は鷹司家の娘が相次いで選ばれたが、孝明天皇の御息所選びでは、30年以上にわたって関白を務めた鷹司政通が「堅く御断り申し上げ」、近衛家の娘は早生していたため、有栖川家と九条家の娘が候補として残った。どちらも「思し召に叶わず」だったが、お目見えしたところ、年長という理由で基君に決まったという説を『孝明天皇紀』(1906年刊)は引用する。
九条尚忠には対馬藩主宗義功の娘、貞姫(千鶴子)という正室がいたが、1828年に亡くなり、側室だった唐橋在煕の養女、唐橋娙子(たけこ、1796–1847年)が継室となった。1845年に夙子が御息所として選ばれたときには、唐橋家の出のこの女性が養母となった。実母は別の側室である鴨社氏人南大路大和守の娘、壽葉だと、『孝明天皇実録』第三巻(2019年刊行、ゆまに書房、実録の脱稿は1936年)は書く。「袖浦[老女の名]より此度於壽葉南大路守へ御預け御産所万端」とか、「[天保5年]九月十六日、於壽葉南大路へ下宿之事」などと「九條家番所日次記」に書かれていた。出産後、南大路大和守夫妻などにはそれぞれ鳥子餅と金200疋が贈られ、「鳥子餅一重御たる代金百疋お壽葉へ下さる」と同じ史料は書く。「於」は「お」と読むようだ。
しかし、同時に、この女性は南大路大和守の娘、染野だとする史料や、南大路長尹の娘、菅山だとする史料も引用されており、転載された南大路家の系図には菅山の名前だけが見つかる。『孝明天皇紀』は染野としていた。どんどん名前が変わったのか、別人なのかは不明だ。菅山(1809–1881年)は晩年、東京へ移ったと見え、1875年以降、夙子がそれなりの頻度で訪ね、見舞う様子が記され、亡くなった際には皇太后は「五十箇日間、御心葬」と『孝明天皇実録』には書かれた。お墓も青山霊園の立山墓地の九条家の墓所付近に残っているが、3年ほど前に私が訪ねた際には、墓石が低木や蔓に埋まってしまい、かろうじて文字が読みとれる程度だった。
五摂家の一つである九条家の娘でありながら、当初「思し召に叶わず」だったのは、生母がこのように不確かであったためかもしれない。養母とされた唐橋家も公家の下の半家の家格という。唐橋在煕の妹文子の嫁ぎ先が北野天満宮社僧・松梅院禅泰で、その娘を在煕の養女としていた。『孝明天皇紀』はこの養母の名前を梅園とする。御息所の母として公表するには、鴨社氏人の娘よりはふさわしいと判断されたのだろうか。唐橋家のこの女性は、夙子が1848年に入内する以前に死去してしまうので、1881年まで生きた菅山がのちに実母として公表されたのだと思われる。
生年月日については、天保5年12月13日(1835年1月11日)で、数えで12歳、満10歳で御息所に選ばれた、というのが正しいようだ。東宮との年齢差が4歳であってよろしくなく、日にちも忌日に当たるとされ、天保4年12月14日(1834年1月23日)に変えたのだと、『孝明天皇紀』は詳しく書く。明治になってからは、1月23日に「皇太后御誕辰に付」として、明治天皇夫妻が毎年お祝いをしていたことが『昭憲皇太后実録』(1957-66年刊)からわかる。しかし、実際には彼女は62歳のちょうど誕生日に波乱の生涯を終えたようだ。
夙子は、孝明天皇が即位した際に皇后となるはずだったが、幕府の反対で准三宮(または准三后)となったという説明をよく見るが、1846年の即位時に、具体的に幕府の誰がどういう経緯で反対したのかはわからない。江戸時代に中宮ではなく、皇后という称号が生前に使われた人はいたのだろうか。夙子は准后と呼ばれ、孝明天皇の急逝後は大宮と称されていたので、皇太后と称されるようになったのは明治以降と思われる。
夙子は孝明天皇とのあいだに女一宮(死後、順子内親王と呼ばれる、1850–52年)と富貴宮(1858–59年)を九条家に里帰りして産んだが、どちらも1歳と数カ月で引きつけを起こすなどして短い生涯を閉じ、泉涌寺雲龍院に葬られた。富貴宮は、公武合体のために将軍家に嫁ぐ候補に挙げられたことで知られる。この時期はペリー来航から開国までで国中が揺れた時代でもあり、夙子の父、九条尚忠は左大臣に昇進したあと、安政3(1856)年8月には関白という公家の頂点に立ち、文久2(1862)6月まで開国に向けて幕府と協調路線を歩んだため、攘夷派の孝明天皇の不興を買い、過激な尊王攘夷を主張する浪士や下級武士、公家を敵に回すことになった。
安政5(1858)年3月12日には、関白・九条尚忠にたいする抗議として、廷臣八十八卿列参事件が起きた。その首謀者が、唐橋家の娘を母にもつ大原重徳であり、岩倉具視や中山忠能だった。跡見花蹊に関する記事で触れた姉小路公知や沢宣嘉も加わっていたし、唐橋在煕のひ孫に当たる唐橋在光の名前もリストにある。
同年7月には、九条家に仕えた島田左近と彦根藩の長野主膳のあいだで、富貴宮出産のために「准后がお里に御下り中に、どうにでもして関白の御職を取り上げなくては」と画策する敵対勢力の動きが牽制されていたことが『井伊家史料』からわかる。それに先立つ同年5月には、平山謙二郎と越前藩の橋本左内のあいだで「関白殿かねて好色の癖坐せしに、御女なる女御の御方へ御入の折柄、其れか女房の内と猥りかわしき御事ありしか。近き此発覚して一の人のあるべき筋ならねば、其罪によりて遠からず褫職[免職]にもなるべきとの沙汰ある由を密語せり」と『昨夢紀事』に書かれた。
九条家は当時、安政6年8月1日に富貴宮を亡くしたわずか2日後に、尚忠の養嗣子として鷹司家から迎えていた九条幸経が36歳で他界するという不幸にも見舞われた。幸経の元服式が1834年に九条家で開かれているので、養子入りしたのはそれ以前だろう。幸経は、姫路の酒井雅楽頭家から銉(いつ)姫が嫁いだ相手であり、『孝明天皇実録』には、銉の名前も一度だけ、夙子が女御として入内する前に従三位に叙せられた折に、「銉君様、御まゼ肴三種一折、御所様・女御様へ進ぜられ候」と書かれていた。幸経には実子がなかったが、九条家では夙子以降、九条道孝(1839年生)、松園尚嘉(1840年生)、鶴殿忠善(1853年生)鷹司煕通(1855年生)、二条基弘(1859年生)と、男子が次々に生まれ育ち、九条家の家督は、道孝を幸経の養子にする形で継がれることになった。九条関白の女癖と揶揄され、警戒されたのは、こうした事情ゆえだろうか。
2人目の子を亡くして1年も経たない万延元(1860)年7月に、夙子は「儲君祐宮を実子と為」した。中山忠能の娘、慶子を生母とする、のちの明治天皇のことである。当時、岩倉具視の妹の堀河紀子も後宮に入っていて、皇女を2人産み、どちらも早世した。江戸時代に子供を亡くすことは何ら稀ではなかったが、ようやく授かった2人目の娘を失った悲しみが癒える間もなく、すでに8歳の祐宮の嫡母となることは、当時まだ25歳の夙子にとっては辛い経験だったのではないか。
現存する大宮御所は、明治元(1868)年に新しく建てられたもので、その暮れに「方違の為」という理由から、弟で左大臣の九条道孝が当主となっていた実家にしばらく滞在したのち翌年2月に新殿に入った。明治天皇はこの年の3月に、美子皇后は10月に東京へ移ったが、夙子は京都に残り、明治3年後半にはしばらく体調を崩していた。翌明治4年8月には父、九条尚忠が死去しているが、『孝明天皇実録』にその旨の記載はない。その後、明治5(1872)年になると心機一転したのか、3月22日「御機嫌よく」京都をでて4月12日に東京に着いて赤坂離宮に入り、のちに隣接した青山御所に移った。
この年の9月3日に内田九一が撮影した、『御大喪図会』の写真とほぼ同一の衣装とポーズの37歳の夙子の写真も、ボードイン・コレクション等に残っている。眉が細めのこの肖像写真は、カルト・ド・ヴィジットという名刺サイズのカードにもなって使われたことが、ネット上の画像からわかる。
英照皇太后の写真としてウィキペディアで使われているものは、『天皇四代の肖像』(毎日新聞社)に転載された撮影年・撮影者不明の写真で、不鮮明であり、異なった印象を与える。唐衣を着て頭に釵子(さいし)または平額(ひらびたい)と呼ばれる、現代のお雛様が付ける冠のようなものを髪に挿し、眉を剃ってお歯黒をした口を開き気味にしているようにも見える。絨毯の上に敷かれているジュートのラグのようなものは、束帯姿の若い明治天皇の肖像写真に写る敷物と同じと思われる。
明治天皇のこの写真は、明治5年4月12・13日に内田九一が撮影したもので、撮影時はまだ天皇髷を結い、淡く白粉をさしていたと、神奈川県立歴史博物館の図録『王家の肖像:明治皇室アルバムの始まり』は書く。明治天皇が断髪したのは、翌年3月のことだった。お歯黒は1870年3月に禁止されたが、1873年に昭憲皇太后と英照皇太后が「率先して」やめることでようやく廃れたのだと言われる。夙子が東京にでてきたのは、ちょうど明治天皇夫妻の肖像写真が撮影された4月12日なので、到着後すぐに撮影に応じた可能性も皆無でないが、釵子を付けたこの若い女性は、皇后と考えたほうが自然ではなかろうか。1872年9月に内田九一が撮影した夙子には、細いとはいえすでに眉があり、翌年10月14日に同じく九一が撮影した皇后の写真には、くっきりとした眉が見える。明治天皇の軍服姿の写真は同年10月8日に撮影された。
明治天皇と夙子の親子関係は、建前だけのものではなかったようだ。14歳で即位し、想像もつかないほど新しい時代を生きることを余儀なくされた明治天皇と、3歳年長で、実子がなく病弱だった皇后を精神的に支えたのは、夫妻より一回りほど年上なだけで活動的な夙子だったのかもしれない。富岡製糸場を視察した年の11月、高輪の毛利元徳邸を皇后と2人で訪ねたときには、馬車が溝渠に転落するという事故が起きた。すぐに救出されはしたが、服が濡れたため、「供奉の女官著衣を脱して之を奉る」事態になったという。皇后は左肩を打撲し、微熱も発して10日間ほど寝込んだが、夙子のほうは「差而(さして)御動じもこれ無し由」だった。
宮中での養蚕に夙子が非常に熱心だったことは『埋もれた歴史』でも触れたが、彼女は維新直後に壊滅状態になった能狂言の保護にも一役買っていた。1878年7月には、能を愛好した夙子のために明治天皇が青山御所に能舞台を設置させ、並んで鑑賞する姿が描かれた。1881年には芝公園内に「英照皇太后の鑑賞に供する」ことを目的の一つとした能楽堂が建設され、夙子は37回も行啓したという。彼女の死後、この能楽堂は靖国神社に移築され現存する。孝明天皇十年式年祭で京都に戻った1877年2月には、皇后と一緒に女学校・女紅場・舎密局などを視察している。女紅場は、跡見花蹊の記事で先述したように、丸太町通りの九条家の別邸に建てられていた。
夙子は1885年に麻疹を患い、1カ月ほど養生したほかは、総じて「御機嫌よく」と書かれ、各地に頻繁にでかけていたが、1896年暮れから体調を崩し、翌年正月からカタル性肺炎になり寝込んだ。11日は朝から明治天皇夫妻が見舞いに訪れ、皇后は「流涕して存慰したまう。天皇亦一言も発したまうことを得ず、唯涕泣黙礼したまうのみ」と『昭憲皇太后実録』には書かれた。この日、「九条公父子、鷹司・二條両公詰切り」と、『孝明天皇実録』にはある。『御大喪図会』には雑録として、「皇太后陛下の御実弟なる二條基弘公」が以前に素梅の盆栽を献納したところ、「故陛下には夙に梅花を愛でさせたまうを以て其花の早く春風に綻びんことを待ちわび給いし甲斐もなく忽焉崩御」したことを悲しみ、「両眼に涙を湛え」たとする。激動の時代を、重荷を背負って見事に生き抜いた女性を間近に見てきた人びとならではの、哀悼の涙だったのではないだろうか。
実家の九条邸にあって、夙子が愛でていたという黒木の梅が、京都御苑に移植されており、一度は枯れたものの接木したものがいまも花を咲かせているという。画像検索したところ、華やかな紅梅だった。いつか機会があったら、梅の季節に見てみたい。
明治40年1月11日の英照皇太后の十周忌につくられたポストカード
『御大喪図会』に掲載された小川一眞撮影の写真
絵画館で購入した荒井寛方画「富岡製糸場行啓」のポストカード
立山墓地にある菅山の墓(2018年11月撮影)
昭憲皇太后の崩御時に発行された絵葉書なのだが、使われている肖像写真はなぜか明治5年9月に内田九一が撮影した夙子の写真。「御眞筆」のほうは昭憲皇太后によるものと思われる。絵葉書なので小袿や絨毯の模様は不鮮明だが、眉ははっきりと見える
『天皇四代の肖像』(毎日新聞社、1990年)に掲載された「英照皇太后」の写真と、同じときの撮影と思われる明治天皇の写真
2022年2月撮影
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