2021年3月15日月曜日

チェリー・イングラム

 鳥の公爵と呼ばれた鷹司信輔に相当するようで、まるで異なる設定の登場人物が、小野不由美の『東亰異聞』にでてきたという話を娘にしたところ、『チェリー・イングラム:日本の桜を救ったイギリス人』(岩波書店)を読んではどうかと勧められた。日本では絶滅してしまった大輪の白い桜をイングラムが里帰りさせた際に、鷹司信輔が「太白」と名づけたエピソードなどが書かれていた。著者の阿部菜穂子さんは、娘がイギリスでお世話になった方の知り合いで、『さくらがさくと』(とうごうなりさ作、福音館書店)という絵本をつくるに当たって、参考文献として読んだのだという。 

 コリングウッド・「チェリー」・イングラム(1880–1981年)は、イギリスの桜の研究家で、明治以降、染井吉野が日本全国に大量に植えられるにつれて、江戸時代まで各地にあった多様な里桜が失われていった現状を危惧し、日本から穂木を送ってもらって品種の保存に努め、多様性の意義を主張した人だった。彼は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の創刊者を祖父にもつイングラム家の御曹司でもあった。

 木口木版のイラストを大量に使用したこの週刊誌は、『埋もれた歴史』の調査で私が横浜の中央図書館の地下の書庫から大型の復刻版を何度もだしてもらって調べた史料なのだが、年代からすると、チャールズ・ワーグマンをその特派員として採用したのは、祖父のハーバートだっただろう。祖父ハーバートは働き盛りに事故で亡くなり、その後、彼の父が会社を継いでいた。コリングウッド自身は虚弱体質であったため報道関連の仕事には就かず、代わりにケント州の田舎で育ち、当初は鳥類学者を目指していた。  

 1902年に初来日して日本の魅力にとりつかれた彼は、1907年に新婚旅行で日本を再訪したのち、1919年「ザ・グレンジ」と呼ばれる敷地面積4.5ヘクタールの邸宅を購入し、そこに桜園をつくろうと思い立ったのだという。桜は総じて大木に生長するので、彼のように広大な屋敷をもてる富裕層か、そこで雇われた庭師でもなければ、独自研究は難しい。金持ちの趣味と言ってしまえば、それまでだが、おかげで江戸時代まで武家屋敷や寺社、公家の屋敷などで「桜守」たちが大切に育ててきた品種が、そして何よりもそうした多様な桜を愛でる文化が絶えずに済んだのだろう。  

 イングラムが鷹司信輔と出会ったのは、鷹司が日本鳥学会の2代目会頭になってから数年後の、おそらく1925年春に、ザ・グレンジを訪ねてきたときのことだった。その翌年、イングラムは新しい品種を手に入れようと再来日するが、関東大震災から3年後というタイミングで、その間の20年ほどのあいだに日本は様変わりしていた。イギリスに多くの苗木を輸出していた横浜植木商会を訪ねたイングラムは、日本人の関心は花が一重か八重かだけになってしまった現実をそこで知り、愕然とする。いまの大方の日本人の桜にたいする認識も、まさに同じではないだろうか。1890年創業という横浜植木商会は、南区にいまも存在し、『はまれぽ』の記事によると、百合根の輸出から始まった会社だという。なるほど! 

 イングラムのこの3度目の来日時に、鷹司は彼を方々に案内したようで、「日本鳥学の父」黒田長礼や、1917年発足の「桜の会」の本部が置かれた帝国ホテルの支配人、林愛作を交えた料亭での会食の際に、日本人同士が「全員よつんばいになって、相互に何度も額を床にこすりつけるあいさつを交わした」ことに、イングラムは衝撃を受けていた。黒田長礼は旧福岡藩黒田家当主で、祖父は津藩主藤堂高猷3男、母は島津忠義次女という侯爵だ。たとえ欧米で暮らす経験をし、洋装で流暢に英語を話すようになっても、大正時代ならばこうした旧習は色濃く残っていただろう。「桜の会」の初代会長は、いまをときめく渋沢栄一で、鷹司もその会員だった。  

 イングラムが京都を訪れた際も鷹司は日程の一部を同行し、手配した宿泊先は蹴上の都ホテルだった。旅行会社時代お馴染みだったこのホテルが、1900年創業の「京都の迎賓館」であったことを、恥ずかしながら認識していなかった。いつの間にか、ウェスティン都ホテル京都という名称になっていた。  

 桜はその後、軍国主義のイデオロギーと強く結びつき、「ぱっと咲いてぱっと散る」染井吉野のみがもてはやされるようになった。桜と大和心を結びつける総元締めとなったのは、当時の東京帝国大学史学科助教授の平泉澄だとする教育学者の斎藤正二氏の論考が引用されていた。本居宣長が生の象徴として「朝日に匂ふ 山桜花」と詠んだのはヤマザクラだったと、著者の阿部さんは指摘する。  

 軍国主義と桜を結びつけたのは確かに平泉澄かもしれない。だが、圧倒的な国力を見せつけて迫る列強を前に、分裂寸前になった国をまとめようと公武合体を主張し、日本のナショナル・アイデンティティの象徴に桜のイメージを使ったのは佐久間象山が最初ではないかと思う。松代で蟄居していた1860年に書かれ、2年後には孝明天皇の天覧にも供されたという「桜賦」を、一度しっかり読んでみたいと思いつつ、如何せん長い漢詩で、簡単な解説しか読んだことがない。飛鳥山に勝海舟が建てた桜賦の碑を見に行ったこともあるが、すでに文字がほとんど読みとれない状態だった。この漢詩は、象山が皇国という言葉を使った最も早い事例でもあるかもしれない。  

 宮中行事としての「観桜会」は、1881年に吹上御苑で始まり、その後しばらく浜離宮で開催されたのち、奇しくも「桜の会」が発足した1917年から新宿御苑に移ったようだ。幕末に締結した不平等条約の撤廃を目指した、国際親善と社交の場としての催しだったらしい。それを復活させたのが、不名誉な中止だか終わりだかを遂げた「桜を見る会」だった。どちらも八重桜の咲く4月なかばに催されていたのは、社交に主眼があって、ポカポカ陽気が重視されたからだろう。  

 軍国主義に塗りつぶされるなかで、桜の会は1943年に最後の会報をだしたあと自然消滅したが、その前年に発行された「桜」22号では鷹司も「進軍桜」という時代に染まった論文を掲載していたという。「屑(いさぎよ)く散り去る高潔なる性質が古来大和心の象徴として武士精神に通じてゐるが為に、櫻は今次の大東亜戦争完遂下の皇国に無くてはならぬものゝ一つに考へられてゐるのである」と、彼は書いた。 

 イングラムの本にはもう一つ、戦争にまつわるきまり悪いエピソードが書かれていた。イングラムの三男の妻となったダフニーが、香港の軍事病院に赴任していたときに日本軍の捕虜となり、3年以上も捕虜収容所暮らしを強いられたうえに、1941年12月25日の早朝、200人ほどの日本軍兵士が病院を襲撃し、傷病兵を惨殺したあと、看護師たちを強姦し殺害した事件の生き残りの1人で、心身に深い傷を負った女性を間近に見ていたのだ。三男夫妻はザ・グレンジの裏手に住んで、農場の管理を引き継いだが、ダフニーは日本に関係するあらゆるものを拒絶し、義父が愛した日本の桜の苗も決して受け取らなかったという。  

 著者の阿部さんは、イングラムを研究した人だけあって、染井吉野が日本の桜の代名詞となって久しい現実に厳しい目を向けるが、この本を教えてくれた娘は、そもそも園芸種に興味がないので、多様な生物種ではなく、品種を守ることの意義はあまり感じなかったようだ。染井吉野に染まった日本の春は、それでもふだんは自然など見向きもしない人たちが、ふと足を止め、顔を上げて季節を感じる唯一の機会でもあると思ったことが、『さくらがさくと』という絵本になった。暗い過去のある染井吉野の春を描いたこの作品の英語版が、この春、オーストラリアのBarbay Booksから刊行される。オーストラリアも日本の軍国主義の犠牲になった国の1つであることを考えれば、作品を受け入れてもらえたことは非常にありがたいのだと、イングラムの本を読んで改めて感じた。  

 当初、鷹司信輔に関する情報を少しでも知りたいと思って読んだ本書だったが、読み進めるうちに桜そのものにもずいぶん興味が湧いてきた。口絵に掲載されていたオカメ、クルサルという、イングラムがつくりだした品種の写真を見て、濃いピンクの花をつける近所の謎の木の正体がわかり、それ以来、早咲きの桜を探して歩くようになった。クルサルと思った濃色のほうは、実際にはその親となったカンヒザクラだったが、桜の品種をにわか勉強して春を楽しんでいる。

 飛鳥山の桜賦の碑(2016年3月撮影)

 近所のオカメ

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