2021年8月24日火曜日

『お順』

 1年ほど前、勝海舟の伯父である男谷彦四郎(思孝)の名前を拙著で誤記していたことに気づき、少しばかり検索した際に、作家の諸田玲子が勝海舟の妹で、佐久間象山の妻となった順子(1836-1908年)を主人公にした『お順:勝海舟の妹と五人の男』(毎日新聞社、2010年)という小説があることを知った。たまたま村上俊五郎(この小説で言えば、五人目の男)について確認したいことがあって、文春文庫版(2014年刊)を図書館から借りて、とくに期待もせずに読み始めたところ、思いの外よく書けていて最後まで読み通してしまった。 

「五人の男」のうち、二人は父の小吉と兄の麟太郎(海舟)なので、お順のパートナーとなったのは実際には島田虎之助、佐久間象山、村上俊五郎(政忠)の三人である。ちなみに文庫版には、ちょっと誤解されかねないこの副題はもうない。  

 以前にも書いたように、男谷彦四郎の娘婿の誠一郎(信友)は直心影流の「剣聖」で、島田虎之助は麻布狸穴のその道場で免許皆伝、師範代となった。中津藩士の四男だった島田は剣豪として知られ、海舟も彼から剣術を習った。だが、お順にしてみれば島田は父親ほどの年齢で、彼が本当に初恋の相手で、許嫁であったのか、それともその部分は著者の創作なのかは、少しばかり調べたくらいでは確認できなかった。いずれにせよ、小説のなかでお順が生涯で最も愛した島田は、嘉永5(1852)年9月に病死してしまい、お順はその年12月に、よく知られるように、母の信からの絶大なる後押しもあって、島田よりさらに年上の41歳の佐久間象山の正妻となった。この母は、勝家の一人娘だが両親に早く死なれ、家を残すためにわずか4歳で、男谷家の妾腹の三男でわずか7歳の小吉と結婚させられたのだという。

 島田については史料が少ない分、小説の登場人物として自由に書けたようだが、象山に関する描写はそれに比べてややぎこちなく、これまで象山について数多く書かれてきた偏見をそのまま引きずっている印象を受けた。とはいえ、象山に嫁いだお順が、40人、50人の門弟が出入りする木挽町の塾で、姑のまんや側妻のお蝶、別の側妻菊の子である恪二郎などと暮らしていたのであれば、こんな雰囲気だったかもしれないと思う描写にはなっていた。私の高祖父は嘉永4年8月に象山塾に入門しているので、新妻だったころのお順に会っていたかもしれない。

 元治元(1864)年7月に象山が暗殺され、松代藩によって佐久間家がお取り潰しとなったことに憤慨して、お順が自殺未遂したという話はほかにもどこかで読んだことはあるが、出処は何だろうか? 子供のころから気が強く、父の小吉そっくりの跳ねっ返りのお順と対比して、この小説ではとことん殺生嫌いで、斬りつけられても刀が抜けないように、鍔を紙縒りで縛っているという兄の海舟の性格を巧みに描写する。典拠は『海舟座談』のようだ。それにたいし、象山の仇を討ちたいお順は「兄さまは臆病なのだわ」と思う。

 最後の男である村上俊五郎とお順が初めて会うのは、小説によると慶応4(1868)年3月5日、山岡鉄舟に連れられて赤坂の勝家を訪ねてきたときのことだった。この日、山岡がやってきたのは、その3日前に勝が益満休之助ら3人の薩摩藩士を、いざというときの切り札に使おうと、自宅に連れ帰っていたためだ。3人は前年暮れの薩摩藩邸焼き討ち事件で逃げ遅れて、小伝馬町の牢に収監されていた。一方の山岡もまた、西郷隆盛に「討伐の中止を談判する使者の役を、慶喜から直々に賜った」ため、益満を交渉の切り札にしようと考えていたという。「山岡が選ばれたのは、慶喜の身辺警護をつとめている義兄の高橋伊勢守(泥舟)の推挙によるものだという」とも、この小説には書かれている。そして、初対面の山岡にひと目で惚れ込んだ勝は日記に、「一見、その人となりに感ず」と書き、その場で西郷宛の書状を認め、山岡に託したという。海舟日記は『勝海舟全集』18の慶応3年までしかもっていないので、次の巻を借りてみよう。

 私はもともと幕末の外国人殺傷事件をかなり調べたので、勝海舟がヒュースケン暗殺犯の1人と言われる益満を西郷との交渉に使ったと初めて読んだときは、信じられない思いがした。慶応4年の上野戦争の際に負傷して、戸板に乗せられて横浜の軍陣病院に入院したが、病院の採光が悪いため病室の移転を希望したところ、たまたま大雨の日で、傷口が化膿して死亡したと、ウィリアム・ウィリス関係の鮫島近二氏の講演録で読んだこともあった。

 その益満と山岡、そして山岡の愛弟子という村上は、いずれも清河八郎の虎尾の会のメンバーだった。尊皇攘夷を掲げたテロ組織である。象山が暗殺されたあと、お順が再婚した相手が村上であると知ったときには、私には益満以上の衝撃があった。当時、私が村上ついて調べられた唯一の資料は、海音寺潮五郎の『幕末動乱の男たち』のなかの清河八郎だったが、今回、その元となったのが虎尾の会の一員だった石坂周造の『石坂翁小伝』(1900年)であることに気づいた。

 国会図書館のデジコレで読んでみると、下総「神崎に居ります中に村上新五郎と云ふ者が武者修行で私の所に尋ねて来ました。是れは身体も大きし如何にも豪勇」などと書かれていた。なぜか俊五郎ではなく、新五郎となっているが、同一人物だろう。この村上と石坂が、「浪士を騙って商人から金子を強奪した男たちを捕らえ、即刻、首を刎ねて両国橋にさらしたというおぞましい噂」について小説に書かれており、その件も、この『石坂翁小伝』に詳述されていた。しかも、その事件を調べた町奉行は井上信濃守(清直)だったという! ハリスとヒュースケンと度重なる交渉をつづけて日米通商条約を締結させ、その後、外国奉行を務めた井上は安政の大獄で左遷されたあと、南町奉行になっていた。  

 この石坂は何度目かの入牢中に戊辰戦争が勃発して情勢が変わり、やはり慶応4年3月15日に突然釈放され、山岡鉄舟預かりとなった。このあと、勝にも会うのだが、石坂は「勝と云ふ者は私共とは大に反対家であって彼れは西洋の心酔家であって」などと述べている。  

 4月11日に江戸城が明け渡され、慶喜は水戸にて謹慎という前夜、慶喜から贈られた銘刀を抱き、人知れず主君のために号泣する兄の後ろ姿をお順がひそかに見守る場面がある。長州征討時に勝が密使に立てられた際には、「慶喜公も、麟太郎が嫌いだ」と書かれ、「徳川より国を優先する」という勝の信念にも触れられていたが、お順はこのときの海舟の姿を見て、「もう、兄を臆病だとは思わなかった」。  

 そんな勝海舟の妹のお順の相手として、およそふさわしくないのがこの村上俊五郎なのだが、2人を強く結びつけた時代背景として、著者は5月15日の彰義隊の戦いの日に、海舟の留守のあいだに官軍が勝家に押し入った際に、村上が用心棒となってお順や家族を守ったときのことを描く。『氷川清話』に、このとき官軍200人ばかりに取り囲まれ、武器などを一切運び去ったことや、官軍からも旧幕臣からも命を狙われていた勝が、都合20回ほど敵の襲撃に遭ったとも書かれていた。このときのお順の武勇伝は知られているようだが、村上との一件はまだ確認できていない。小説では、お順は剣の達人である村上に兄の護衛を頼み、さらには象山の敵討ちも依頼したことになっている。  

 しかし、村上はアル中の疫病神のような人物で、何をやらせてもつづかず、どこでも問題を起こし、そのたびに山岡が次の勤め先を見つけ、勝家が当面の生活費を恵むというパターンが読んでいて呆れるほどつづく。明治元年9月に、旧幕臣のうち1万5000人が移住を希望し、家族を含めると総勢10万人近い人間が移住したという駿府へ、勝家も転居する。まだ婚姻届もだしておらず、祝言も挙げていない村上とお順がつかの間、同居した時期があった。勝に反感をいだく旧幕臣から詮索されないようにと、駿河国小鹿村(おじかむら)の出島竹斎という、父小吉の知己で、以前に海舟も金銭面で助けられた恩人が、お順たちの住む場所を提供してくれたのだ。海舟は竹斎への恩から、長男に「小鹿」(ころく)と名づけていたそうだ!   

 作者の諸田氏は、もともと2007年に半藤一利と対談した折に、勝海舟の妹のお順がおもしろいと勧められ、そこから調査を始めたそうだが、偶然にも実家の裏手に蓮永寺という、静岡時代に永眠した勝の母の信とお順の墓があるお寺があり、しかも父方の祖先が出島竹斎その人で、親族の蔵から未読の海舟の手紙なども見つかったのだという。したがって、お順と村上に関する新事実が、この小説を機に明らかになったわけなのだ。  

 しかも、『お順』によると、村上はその後、三方原の開墾事業を請け負って、またもや一揆を引き起こすなどの問題を生じさせ、その間におちよという若い娘に手をつけて、欣(きん)という娘を産ませたほか、別の愛人もつくっていた。村上に見捨てられたこの母娘の面倒を当初見たのが出島竹斎だった。お順は結局、村上と結婚することなく、ただちよと欣を引き取って、欣をわが子として育てたのだという。欣はのちに勝家の書生の熊倉操と結婚した。  

 横浜市歴史博物館には「熊倉家伝来 佐久間象山関係資料」があり、私もいくつか参照させてもらったが、そこでも「象山の死後、順子は実家の勝家へ戻り、後に村上政忠へ嫁いだ。政忠との間に生まれた欣子は、政忠の死後、勝家へ引き取られ、熊倉家へ嫁いだ」と説明されていたが、事情は違ったようだ。村上とお順に関する私の諸々の疑問は、この小説を読んで解けた気がする。  

 村上俊五郎は明治17年になって、頼みの綱だった山岡からもついに出入りを差し止められ、同21年に山岡が病死したことで取り乱した挙句に、勝家にお金の無心にきた。明治31年3月、「我が苦心三十年」と勝が日記に記したように、徳川慶喜が初めて参内して、天皇と将軍の和解が成立した。「これこそ麟太郎の悲願だった」と書いたあと、諸田氏は海舟からお順へのこんなせりふを付け加える。「ついでにもうひとつ……村上に絶縁状を送った。近年の無心は目に余る。おまえにとっても、幸多き年になるはずだ」。勝は翌年他界した。みずからの死を予期しての後始末だったのだろう。  

 お順は兄の死後10年ばかり生きて、明治41(1908)年に亡くなった。ネット上で見た彼女の墓は、母の信の墓標の片隅に小さく戒名だけ刻んだものだった。京都の妙心寺塔頭の大法院にある亡夫佐久間象山の墓には入らず、静岡の地で母とともに埋葬して欲しいと本人が希望したという。

『佐久間象山と横浜:海防、開港、そして人間・象山」横浜市歴史博物館、2014年より。真田宝物館所蔵。「象山自らが恪二郎と順子の写真を撮影したと伝えられる」とある。象山の写真はどうやらお順がシャッターを押したようで、同じときに撮影されたと思われる写真がもう1カットある

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