リチャード・ブリジェンスの名前で検索すると、南米沖にあるトリニダード・トバゴの植民地を描いた絵が数多く見つかる。これらの絵の多くは、ブリジェンスの父で、建築家、家具職人、作家および画家であったリチャード・ヒックス・ブリジェンスが、自著『西インドの情景』のために描いた挿絵で、奴隷制の実態が描かれた作品として近年注目されている。ブリジェンスの母マリアが、イギリス植民地だったトリニダード島の砂糖きび農園を相続したため、1820年8月17日にロンドンで洗礼を受けた長男リチャード・パーキンスと、1825年生まれの男女の双子を連れて、一家はこの年に移住した。ブリジェンス家にはさらに3人の子供が生まれたことなども、ネット上の祖先探しのサイトなどからわかる。なお、横浜外国人墓地の墓標によれば、幕末の日本に来日したリチャードは1819年4月19日生まれである。
父同様に多才だった息子リチャードは、弟ヘンリー・フレデリックとともにアメリカでしばらく地図製作やリトグラフによる印刷業を営んでいた。リチャードは1854年にはサンフランシスコの初期の市街図を作成したほか、フォート・ポイントの設計にもかかわった。その後、1865年になって妻子を追うように、彼もサンフランシスコから太平洋を渡って日本にやってくるのだが、不思議なことに彼の名前は1867年になってようやく在留外国人人名録である『ジャパン・ディレクトリー』に居留地124番、建築家および土木技師として見つかるという(Meiji-Portraitsの彼の項より)。ところが彼はその年の9月には山手120番地に完成したイギリス公使館と、翌年8月に竣工した築地ホテル館を設計しているのだ。どちらもオールコックに代わって1865年6月に赴任したイギリス公使のハリー・パークスと幕府間の取り決めで推進された建設プロジェクトで、前者は浅海を埋めて最初の鉄道を通した高島嘉右衛門が、後者は清水建設の創業者の婿養子の二代目清水喜助が施工している。
来日後1年やそこらで、まだ定職もないような時期にブリジェンスが大きな仕事を受注できた背景には、ショイヤーの急死後に遺言執行者に彼が指定され、ショイヤーが「今日流のいい方をすれば、土地ころがしで財を成していった」(澤譲著、『横浜外国人居留地ホテル史』)人物であったことは何かしから関係するだろう。また、1866年暮れに横浜の居留地では豚屋火事という大火事があって、ちょうど建設ラッシュであったことも無関係ではないはずだ。しかし、それだけではない。彼について書かれたわずかばかりの記述はなぜか写真史と関係するものが多い。
「その1」でも引用したように、『写真事歴』にはこんなことが書かれている。
「米人ショーヤの妻の妹婿ビジンなる者製図師にして、石板の術を知る。蓮杖これと交を結び、其勧誘に従い、石板機械を購求し、且つ其術を伝習せり」。ここから、ブリジェンスが写真師の下岡蓮杖にリトグラフを教えたことがわかる。
この前段には、蓮杖がショイヤーの妻アナに日本画の手ほどきをしながら、油絵の描き方を教わっていたことや、写真術をどう習得したかが書かれている。「是より先き米国の写真師ウンシンなるもの始めて本邦に渡来し、ショーヤの家に寄寓せしかば」、蓮杖がこれ幸いにと写真術を習おうとしたことも書かれている。だが、「言語通ぜず、且つウンシン吝で秘して教えざること多く」、なかなか学べなかったという。このウンシンは、ジョン・ウィルソンという、プロイセンのオイレンブルク使節団に写真家として雇われたこともあるアメリカ人で、この使節団で通訳を務めた際に暗殺されたヘンリー・ヒュースケンの遺体写真を撮影したことで知られる。ウィルソンはその後、文久遣欧使節とともに1862年1月に離日した。
『写真事歴』にはつづけて、「横浜在留の宣教師の女ラウダなるもの、亦ウンシンに就て写真術を学べるより、蓮杖これを拮頑してほぼ其術を窺うを得たり」とも書かれている。「拮頑」は強引に迫って、という意味だろうか。これより15年後に書かれた『横浜開港側面史』には、無名の一老翁談として、「米国婦人ラウダと云う人から写真術の秘法を教えて貰った」としていた。
宣教師の女ラウダは、横浜開港直後の1859年11月に来日し、成仏寺にいたアメリカ・オランダ改革派教会所属の宣教師、S・R・ブラウンの長女ジュリアのことだ。ブラウン師の家族はしばらく上海にいて、1860年になってから来日した。成仏寺の前にブラウン一家がヘボン夫妻らとともに写るステレオ写真が写真史家のテリー・ベネットの『PHOTOGRAPHY in Japan』に掲載されており、1840年マカオ生まれの若いジュリアも写っている。
このジュリアが1862年9月に結婚した相手がジョン・フレデリック・ラウダーだった。ウィルソンが離日した時点ではまだ結婚前なので、ブラウン姓だったはずだ。だが、父のブラウン師はフィリップ・ペルツ師に、「イギリス領事館勤務の英国紳士」である結婚相手のラウダーについてこんなことを書いている。「この人は前の江戸駐箚イギリス全権講師で、いまイギリスに帰任し、最近ナイトの位に列せられたラザフォード・オールコック卿の後妻ミセス・ラウダーの連れ子です。[……]なお、ラウダー氏は、上海の最初のイギリス領事館付牧師の息子です。この牧師は上海に赴任してから、一年後に、夫人と三人の息子と三人の娘とを残して、海で溺死しました」(『S・R・ブラウン書簡集』)。
なんとも複雑な関係だが、ベネットが成仏寺の写真に関連して、こんな逸話を紹介している。ラウダーは上海で牧師の父を亡くし、未亡人となった母がオールコックと再婚することになったため、イギリス外務省領事部門の通訳生として17歳で来日した。そこで第一次東漸寺事件に遭遇し、拳銃をもって継父となる公使の護衛に務めた。この若い通訳生が3歳年上のジュリアを妊娠させたため、居留地内で大スキャンダルになり、周囲は2人をそれぞれの祖国へ帰国させようと試みた。しかし、若い2人は結婚を決意して、赤ん坊が生まれるわずか48時間前に夫婦になった、というものだ(F・Parker、Jonathan Goble of Japanからの引用)。
そんな意外な事実が判明しても、下岡蓮杖がジュリアから写真術を習ったのがいつの話だったのかはっきりしないし、オールコックとジュリアの関係が見えてきても、それがブリジェンスにどうつながるのかは不明だ。ラウダーはその後、長崎の領事館で書記官となり、1868年1月には大坂の領事代理として、アメリカの海軍少将の海難事故についてヴァルケンバーグとやりとりしていたことなどが確認される。ラウダーは明治初期に横浜の領事代理もしばらく務めたが、1870年に土佐藩士5人の付き添いも兼ねて一時帰国し、法廷弁護士の資格を取って1872年に横浜に戻り、イギリス外務省を辞任して明治政府のお雇い外国人となり、横浜税関の法律顧問に就任した。1870年に、現在の横浜開港資料館がある場所に完成した横浜領事館や、1873年に竣工した横浜税関、および土佐の後藤象二郎の蓬莱社の建物などは、横浜ユナイテッド・クラブの会長なども務めたラウダーが何かしらかかわっていそうだ。
結局のところ、ブリジェンスがどうやって横浜で地歩を固めたのかは残されたわずかな証拠から推測するしかないが、イギリス公使館という大きな仕事を受注できたことは運の始まりだった。横浜の山手に建設されたイギリス公使館は、江戸の高輪接遇所と併用されたとはいえ、パークスが拠点とした場所であり、1868年の4月には江戸開城を前に勝海舟も西郷隆盛もここを訪れている(萩原延壽著、『遠い崖、江戸開城』)。
ブリジェンスがイギリス公使館と築地ホテル館で使ったナマコ壁は、「木造の壁体の表面に平瓦を張りつけ、目地──継ぎ目──に漆喰を盛り上げる」江戸時代からの左官技術で、「ふつうの土壁より風雨にも火にも強」い。「工費のかさむ木骨石造の代りにナマコ壁を使って火に強い木造西洋館を手早く作ってみせ」、その結果、「ナマコ壁の西洋館という和洋折衷スタイルを編み出した」(藤森照信著、『日本の近代建築──幕末・明治篇』)。蒸し暑い気候に適したベランダと鎧戸のあるコロニアル様式も、現地の建築を取り入れた折衷案も、トリニダードという西洋の通常の建築資材が容易に手に入らない植民地で育った彼の経歴が、何かしら影響したに違いない。
ミヒャエル・モーザーの写真で『ファー・イースト』の表紙を飾った山下町のイギリス領事館は、木骨石貼りという工法で、耐火性を高め、見た目は石造建築という工法で建設されたが、不恰好だとして不評だったらしい。私が祖先探しを始めて最初に読んだヒュー・コータッツィの著作『ある英人医師の幕末維新』の表紙には、この建物を描いた歌川国政作とされる横浜絵が使われていた。
「その2」を終えるに当たって最後に一言付け加えておく。ラウダーは1902年1月に死去して外国人墓地に葬られた。この年の11月22日付の『ジャパン・ウィークリーメイル』に、ジュリアが43年間、住みつづけた日本を永久に後にし、イギリスへ渡ったという記事あることを、ジュリアについて散々やりとりしたアメリカの歴史家から教えられた。彼女が乗船したイギリスの蒸気船ドーリック号はハワイ経由サンフランシスコ行きなので、アメリカへ帰国した可能性もある。ラウダーの墓は草木が生い茂ってしまっているが、四角く縁取りされた壁面にジュリアの名前と生没年が刻まれているので、1919年8月18日に死亡という通知だけがもたらされたのだろうか。
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