2018年2月28日水曜日

幕末の外国人殺傷事件

 仕事と雑用に追われているうちに、ただでさえ短い2月が終わってしまった。幕末のオランダ商人の本は初校を終えたので、だいぶ片づいた気はするのだが、次のゲラはまるで分野が異なるので、机や床の上に散乱した参考文献とコピーの山、それに何よりも頭のなかを整理しないと、何をどこで読んだのか、あとでさっぱりわからなくなってしまう。あれこれ調べているうちに、気になっていたいくつかの点を備忘録代わりに書いておく。  

 発端は、幕末最初の外国人殺傷事件、つまり1859年8月18日(安政6年7月20日)のロシア海軍軍人殺害事件の犯人が、水戸天狗党の藩士、小林幸八だと多くの資料に書かれていることだった。ところが、『日本人名辞典』によれば、小林幸八には小林忠雄という変名があった。一方、小林忠雄というのは、同年11月5日に起こったフランス領事代理ロウレイロの中国人従僕殺害事件の犯人として捕まった水戸浪士なのだ。ロシア人殺害者を小林幸八とした最も古い記述は、私が見つけた限りでは1898年刊の田辺太一の『幕末外交談』(p. 121)だった。1909年刊行の『横浜開港五十年史』上巻は、この田辺の書と同様の記述でロシア人殺害犯を幸八に、中国人従僕殺害犯を忠雄という別人にして(pp. 401、405)、幸八は水戸の武田耕雲斎らによる天狗党の乱が鎮圧された際に、ロシア人殺害犯であることが判明して横浜に送られ、慶応元年(1865年)5月に戸部で処刑されたとしていた。1931年刊行の『横浜市史稿』政治編2(p. 404)では、中国人従僕殺害犯の忠雄が天狗党の一派で、戸部で処刑され、共犯者の水戸の高倉猛三郎は遠島に処せられたとある。1959年発行の『横浜市史』第2巻(p. 254)は、『横浜開港五十年史』と同様の説明だ。かたや、『幕末異人殺傷録』(1996年)を書いた宮永孝は、1865年7月30日にフランスのメルメ・ド・カションが小林忠雄を尋問した記録を引用し、慶応元年8月11日に戸部で打ち首になったとしている。J・R・ブラックも中国人殺害について言及しているが(『ヤング・ジャパン』1、p. 33)、戸部での打ち首は1867年のこととしている。  

 なぜこうも食い違っているのか。小林幸八は、司馬遼太郎が河合継之助について書いた『峠』にも登場するようだし、水戸藩属吏として贈正五位に叙せられているという。幸八と忠雄は同一人物なのか。彼は二度の殺人事件の犯人なのか、それともどちらか一方なのか。当時、横浜にいたジョゼフ・ヒコによると、ロシア人殺害事件は、「日本人一名太刀を以て走り蒐(かか)り、やにはに一人を切仆し数人に重傷を蒙らしぬ」(『ジョゼフ・ヒコ自叙伝』、p. 133)と、単独犯のようだ。じつはこの事件を測量船フェニモア・クーパー号の船員が目撃しており、水野・加藤両奉行が幕府公文書に「亜国測量船之水夫弐人其場之様子目撃せし迚(とて)、右船将よりも其始末具(つぶさ)に書記し、差し越したれば」(『開国の先駆者 中居屋重兵衛』、p. 159に引用)と書かれているようなので、ジョン・M・ブルック船長による報告がどこかに残っているかもしれない。中国人殺害犯は2人で、これは即死でなかった被害者自身が、提灯をかざして顔を覗き込まれたと語った記録が複数あるため、かなり確かだろう。小林忠雄を尋問したメルメ・ド・カションの記録は、非常にトンチンカンな内容だ。なぜ、清国人を殺したのかと問うと、「清国人ですと!……唐人(ヨーロッパ人)です……役人衆は清国人であったと信じさせたかったのです」と忠雄は言い張り、殺した相手は西洋人と信じ込んでいた模様だ。だが、雨の夕暮れで、主人のロウレイロの外套を着て、洋装していたとはいえ、提灯の明かりで顔を見たのであれば、西洋人と中国人を間違えるだろうか? 小林幸八は実際にロシア人殺害犯で、英仏両国を納得させるために中国人殺害犯に仕立てあげられたと考えれば、双方の話が食い違った理由は説明がつきそうだ。

 だが、田辺太一は『幕末外交談』(p. 142)に堀織部正利煕の自殺の原因として、「堀の従僕に、水野行蔵といふものありて、水戸藩と相交り、横濱にて魯西亜士官を(爿部に戈)殺せし一人なりとの嫌疑ありしを以て、職掌上深くこれを辱として、か〻る次第に到れるなりともいへり」とも書いている。庄内藩の脱藩浪士、水野行蔵は、堀の従僕として箱館に赴いた人なので、樺太全島の領有権を主張したムラヴィヨフに腹を立てたと考えれば、殺害動機としては筋が通る。しかも、この人物は虎尾の会の清河八郎の愛妾、お蓮の面倒を何かと見るなど、かなり親しい間柄だったのだ。真犯人はいったい誰なのか。堀の家には坂下門外の変で闘死した河野顕三も寄寓しており、「その門下の者に不逞の徒がいなかったとは言い切れない」と、田辺太一は書いた。ちなみに、河野顕三は贈従五位で、靖国神社に祀られているらしい。外国奉行と神奈川奉行を兼務していた幕吏の身辺にまでテロリストがいたという事実は、幕末史を理解するうえで重要なポイントかもしれない。  

 もちろん、堀織部正自身がただの排外主義者だったとは思わない。馬輸送を強引に迫るイギリスにたいし、「馬は武器第一にいたし、夫故馬具も武器に有之……支那と日本とは何之隔意も無之、戦争に用ひ候馬を、日本より出シ候ては、支那之恨を醸し候也」と主張した一例をとっても、まっとうな感覚の持ち主だ。村垣範正らとともに幕末に樺太まで調査に赴いた幕吏でもあり、箱館時代の従者には「不逞の輩」だけでなく、榎本武揚、武田斐三郎、玉虫左太夫、島義勇など錚々たるメンバーが揃っていた。国にたいする貢献としては、彼らのほうがはるかに大きかったはずだが、明治以降に贈位されることはなかった。開国したおかげで政権の座に着いたはずの明治政府にとっては、やみくもに刀を振りかざした者のほうが表彰すべき対象だったというのが、いまのところ私が理解しえたことだ。
 

村垣範正の公務日記付録。樺太のエンルモコマフの図。 「蝦夷の海のあらきしほ路にひれふるハ鯨しやちほことゝにあさらし」

戸部の刑場があったくらやみ坂

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