2022年11月7日月曜日

マレーナ・エルンマン

 この記事のタイトルを見てすぐに誰のことかわかった人は、かなりのオペラ好きか、環境問題に深くかかわってきた人に違いない。翻訳中にどんな人だろうと興味本位で検索したところ、最初に見つけた動画が衝撃的で、それまで漠然といだいていた先入観がすべて吹き飛んだんだことを覚えている。

 2015年5月に来日して、N響の第1809回定期公演に出演したこともあるというこのメゾ・ソプラノのオペラ歌手は、2009年にはメロディーフェスティバーレンで優勝して同年のユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表となるなど、ポップ歌手としての側面も備えた歌姫だった。来日時には「東京からおはよう」と書いてセルフィーを投稿し、何万という「いいね」をもらったのだという。先日ようやく図書館から借りて読んだ『グレタ たったひとりのストライキ』(海と月社)で、このエピソードを知って改めて調べ直し、これは書いておかねば、と思ったしだいだ。そう、彼女の娘が、グレタ・トゥーンベリなのだ。

 来日時の情報が残っていないか検索してみると、何人かのオペラファンが書いた「マレーナ様」の記事が見つかった。そこに貼られたリンクを頼りに、いくつか彼女の動画を観て、さらに驚かされた。私が最初に見つけた動画は、ロッシーニのオペラ『チェネレントラ』からの「悲しみと涙のうちに生まれて」のアリアのコメディー版だったことが、彼女の本格的なオペラ公演の動画を観てわかったのだ。コメディー版では、ストラップレスドレスがずり落ちそうでうまく歌えず、観客の男性に後ろから引っ張り上げてもらうという設定で、満場の笑いを誘っていたが、オペラ公演では、映画『ミッドサマー』の登場人物のような北欧の美女姿で、この長いアリアを歌いきっていた。ABBAのチキチータを、本家に劣らず見事に歌う2009年と思われる映像もあった。

『グレタ たったひとりのストライキ』によると、マレーナはオペラの大衆化に尽力し、ヨーロッパ各地のオペラハウスと数年単位の契約を結ぶ一方で、スウェーデン国内ではオペラ文化の普及に努めた人だったようだ。彼女の多才ぶりに驚かされたのは、2014年1月(たぶん)にチューリッヒ歌劇場で上演されたヘンデルのオペラ『アルチーナ』で、ルッジェーロという騎士を演じた彼女の動画だった。ルッジェーロはもともとカストラートの歌手が演じていた役らしく、「ズボン役」となった彼女は、さほどメイクもしていないのに、宝塚ばり、いや、それ以上のカッコよさで、かなり低音の歌声ときびきびした踊りを披露していた。歌い終えたあとでハンドスプリング(前方転回)を難なく決めてみせたのを見たときは、唸ってしまった。15年前に投稿されたものだが、ヨハン・シュトラウス2世の『こうもり』の「私はお客を呼ぶのが好きだ」の動画でも、口髭をつけて気障なオルロフスキー公爵を好演していた。コミカルな持ち味を存分に発揮して観客を魅了する彼女を、「マレーナ様」と呼ぶファンがいるのもうなずける。

 だが、世界各地の舞台で彼女が華やかな公演を繰り広げていたこうした時期に、当時小学校の5年生だったという長女のグレタが摂食障害になっていた。もともとのきっかけは、学校の授業で見た太平洋のプラスチック汚染などのドキュメンタリー映画で、同書では時期が明確に記されていないが、8歳ごろのことだったのかもしれない。いずれにせよ、グレタは2014年秋に2カ月にわたってほとんど食事のできない状態がつづいて、10キロも体重が減ってしまい、アストリッド・リンドグレーン子ども病院で精密検査を受けることになった。リンドグレーンの作品を愛読していた私には、おさげ髪のグレタが、やかまし村のリーサと重なって見えた。 

 各地を飛び回らざるをえないマレーナに代わって、アスペルガー症候群で場面緘黙症と診断された彼女を支えたのは、父親のスヴァンテ・トゥーンベリだったようだ。舞台で活躍する声楽家が、本番に備えて自分の体調管理と練習にどれだけの神経を使っているかを考えれば、当時のこの一家の悲惨な状況がよくわかる。来月初めに日本でも刊行予定のグレタのThe Climate Book(『気候変動と環境危機:いま私たちにできること』河出書房新社)のなかに、スウェーデンの国民的歌手の母親はほとんど登場しないが、一緒に大西洋をヨットで横断したことでも知られる父親のスヴァンテのことは、アメリカのミネソタ州リンドストロームとサウスダコタ州を一緒に訪ねたエピソードで触れている。闘病中に父親と一緒に読んだ、ヴィルヘルム・ムーベリの『移住者』シリーズの舞台となった地を訪ねたときのことだ。
  
 グレタの名前を最初に聞いたころから、長崎の出島の植物学者ツンベリーと関係がないだろうかと思っていたが(実際あるとする情報もちらほら見つかるが)、驚くべきことに、彼女の父親はスヴァンテ・アレニウスの子孫だそうで、彼にちなんで名づけられていることも『グレタ たったひとりのストライキ』には書かれていた。人類が二酸化炭素を排出することによって地球を温暖化させる可能性をアレニウスが1895年末に最初に指摘したことは、いまでは多くの人が知っているだろう。父親のスヴァンテは舞台俳優だったが、グレタが生まれるに当たって、「世界トップクラス」の歌い手である妻の仕事を優先させ、そのときどきで彼女が公演をしている都市で同居をして、主夫となって育児を引き受けたのだという。

  だが、グレタの摂食障害をめぐる騒動が、グレタの3歳下の妹ベアタにも影響をおよぼし、ADHDやアスペルガーと診断されるにいたって、マレーナがこの下の娘の面倒をみなければならなくなった。このような時期にグレタに引きずられるようにして、一家は気候変動問題に関心をもつようになったようだ。2016年3月のウィーンでのコンサートを最後に、マレーナは飛行機に乗らない決心をし、地方紙に寄稿していた毎月のコラムでも気候問題について書くようになっていた。ただし、音楽活動をやめたわけではなく、やはり歌手として活動を始めた次女のベアタと一緒に、2021年には『フォレヴァー・ピアフ』というミュージカルに出演し、母娘でエディット・ピアフの生涯を演じたようだ。スヴァンテも2017年には飛行機に乗るのをやめたそうだ。

  一家はウプサラ大学の地球科学研究所にケヴィン・アンダーソンと同僚を訪ね、そこで衝撃的な現状を教えられる。アンダーソンは『気候変動と環境危機』でも、ひときわ鋭い論考を寄稿して異彩を放っていた研究者だ。学校ストライキの計画をグレタが彼に打ち明けた場面も、『たったひとりのストライキ』には書かれていた。この本の邦題にもなった、2018年8月にスウェーデンの総選挙前に3週間にわたって国会議事堂の前で彼女が始めた学校ストライキのことである。 

「スヴァンテは私と同じく、グレタには学校ストライキなんていう考えを捨ててほしかった。不愉快な結界になることは目に見えているからだ。だが、彼女がそのことを考え、話すときは生き生きとしている」と、マレーナは書く。父親と一緒にアビスコの極地研究所で講義に参加した際、環境問題を専門にする大学生たちも答えられないなかで、太陽電池の変換効率は16%だと、手を上げて英語ではっきりと答える娘の姿に、「家族や教師のアニータ以外の前で、自分から率先して話すグレタを見るのは数年ぶりだった」とスヴァンテは書いた。このときの講師キース・ラーソンも『気候変動と環境危機』の寄稿者で、北部のこの地まで電気自動車で向かう道中、父娘は、やはり寄稿者となったナオミ・クラインの『これがすべてを変える』(岩波書店)のオーディオブックを聴き、「ときどきそれを止めては内容を話し合った」そうだ。 

 スヴァンテは学校ストライキの前には、「何があっても必ず自分ひとりで対処しないといけないよ」と諭し、想定問答をして娘を鍛えた。娘の決心を変えられない以上、せめて娘が必要以上に傷つかないように親として精一杯の助言をしたのだろう。
「あなたのご両親がこうしなさいと言ったのです? この質問はしょっちゅうあるぞ」 
「それなら、ありのままを答える。両親を感化したのは私であって、その逆ではありません」 

『ひとりぼっちのストライキ』には、それでも娘が心配で、アーチの陰からスヴァンテが見守っていたことなども書かれている。おもにマレーナが執筆した断片的な文章を、闘病と気候運動に関連するものが入り組んだまま、時系列も曖昧な形でまとめられている本なので、決して読みやすくはないが、巻末にはグレタが行なってきたスピーチも収められている。『気候変動と環境危機』を訳す過程で、彼女の歯に衣着せぬ物言いにたびたび驚かされたが、グレタ節とでも言いたくなる鋭い見解を15歳のときにすでに身につけていたことがよくわかった。 

 2018年末にポーランドのカトヴィツェで開かれたCOP24で、アメリカの環境専門家のスチュアート・スコットが彼女の勇気ある行動に涙がでたと言い、ジャンヌ・ダルクだと思ったと語る動画を、少し前にたまたま観ていた。あいにくリンクを保存しておかなかったため、どうにも探せず、再確認できないのだが、どうやら彼がグレタを国連の場に引きだした当人のようで、惜しくも2021年7月に急逝しているようだった。捨て身の覚悟で人類最大の問題に挑み、直球を投げてくる若い世代が登場したことが、両親を皮切りに、世の中を動かしているのだと思った。

ミネソタ州リンドストロームを訪ねたエピソードに、赤いダーラナホースの看板のことが書かれていて、つい買ってしまったミニサイズの馬と、その昔、娘につくってやったおさげ髪のウォルドルフ人形。トチーちゃんと名づけられ、可愛がられたのでだいぶ汚れてしまったが。

『グレタ たったひとりのストライキ』
マレーナ&ベアタ・エルンマン、グレタ&スヴァンテ・トゥーンベリ著、羽根 由訳、海と月社

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