2023年3月23日木曜日

上田旅行ほか

 先週初め、上田で史料調査に参加することがあり、現地の方から市内各所もご案内いただき、この旅行について書いておきたいと思いつつ、その後、多忙で今日にいたっている。大きな原因は、船橋で一人暮らしをしている高齢の母が入院してしまったことだ。母の長年の友人からの電話で、「お母さんが昨夜、誤嚥性肺炎で入院した」と知らされ、朝食もそこそこに駆けつけた。  

 上田に旅行中も、母はひ孫の面倒を見に横浜にきてくれていたので、まさに青天の霹靂だったが、この一年ほどいろいろな意味で衰えが目立ってはきていた。『気候変動と環境危機』の印税を、一部前払いしていただいていたため、いざというときに母宅に泊まり込めるようにと年末にラップトップを購入していたので、今回も一応それを持参した。ラップトップをもつのは20数年ぶりだ。翻訳のよい点は、何と言ってもどこでも仕事ができることだ。母のところはインターネット回線がないので、年末はテザリングする方法を娘から教わって凌いだが、今後の状況しだいで、モバイルWi-Fiを買うか、回線を引くか考えなければならない。

 上田で過ごした3日間はじつに多くの発見があったが、とりあえず簡単なものだけ、いくつかメモしておく。ちょうど「蔵出し! 新収蔵資料展」という企画展が上田市立博物館で開催されていて、そこに最後の上田藩主松平忠礼とともに、私の高祖父が写る写真も展示されていたので、ガラス越しながら初めて現物を見ることができた。上田藩関連の古写真のなかでも最も古い一枚だと思うのだが、画像は驚くほど鮮明だった。ただし、いかにも現代の写真らしい光沢が表面に見られた。今回、同じ幔幕前で撮影されたと思われる忠礼と鼓笛隊の写真は現物を手に取ることができたので、よく見てみたところ、やはり表面に光沢があり、素人目には鶏卵紙には見えなかった。アンブロタイプの古写真を写したものではないだろうか。この2枚は、東京都写真美術館が若林勅滋氏から買い取らなかった写真であり、当時もそう判断されたのではないだろうか。1975年刊の『庶民のアルバム明治・大正・昭和』にこの写真が初めて掲載されたときから、この写しが使用されており、オリジナルは行方不明なのだと思われた。 

 以前、「明細」という家別の記録の高祖父の項に「弘化四未七月御在坂中 大坂勝手被二仰付一」と書かれているのを、FB友の方に読んでいただいたことがあり、そのとき以来、見たかった「大坂入城行列図」という3巻ものの絵巻物を、今回、念願叶って閲覧することができた。想像していたよりはるかに小型で、ごく薄い和紙に描かれていたが、その長いこと、長いこと。調査の終了間際にトイレットペーパーのようなその巻物の1巻目を繰りつづけ、そのほぼ最後に徒歩で行列に加わる「馬役 門倉傳次郎」の小さな姿を発見したときは「あっ、いた!」と思わず声をあげた。巻物の3巻目は進み方が逆方向なので、ことによると復路かもしれないが、史料名どおりに入城時の様子だとすれば、25歳の高祖父だ。  

 今回は、上田藩の関係者がつくる明倫会や赤松小三郎顕彰会など、現地の方々とも交流する機会があった。小三郎記念館は以前も訪ねていたが、今回、説明を受けながら小三郎が島津久光に提出した建白書に、軍馬の改良とともに、畜産を奨励して「往々国民皆牛・豚・鶏等之美食を常とし、羊毛にて織り候美服を着候様改め候えば、器量も従て相増し、身体も健強に相成り、富国強兵の基にこれ有るべく候」と書かれていることに気づき、苦笑してしまった。何しろ、グレタ・トゥーンベリ編著の本で、畜産業がいかに地球の環境破壊の大きな一因となってきたかを昨年ずっと翻訳していたからだ。  

 明倫会の方々などが上田の主要産業だった養蚕の関係施設の訪問を手配してくださったおかげで、江戸時代に上田の蚕種業が始まった上塩尻の藤本養蚕歴史館から、現代の日本に残るわずか3社という蚕種会社の一つである上田蚕種株式会社や、信州大学繊維学部キャンパス、重要文化財に指定されている常田館製糸場まで、たいへん貴重な施設を見学させていただいた。詳しい説明を受けたおかげで、ようやく蚕種の仕組みを理解したのだが、狭いスペースで大量の蚕を孵化し飼育するためには、入念な温度調節から消毒、細菌検査、人工交配など、まさに産業としての畜産技術がなければ成り立たないことがよくわかった。養蚕はシルクロード文化の根幹にあり、日本では明治維新の原動力となった基幹産業であり、幕末から上田の養蚕業を支え、開国に結びつけたのが忠礼の父である松平忠固だった。養蚕業の衰退ぶりに、忠固が忘れ去られた一因を見る一方で、絹織物という人類の文化遺産の将来は、その他の畜産文化と同様に、厳しいものになりそうな予感がした。 

 個人的な収穫としてはほかにも、帰りの新幹線の時間間際に上田市立図書館まで走って行ったおかげで、以前に撮り損ねていた『上田郷友会月報』の何枚かの写真を資料室で撮影させていただくことができた。その1枚の、曾祖父の晩年の大正2(1913)年の郷友会の会合での集合写真には、山極勝三郎博士と忠礼の養子である松平忠正、それに5年後に没した曾祖父の追悼文を書いてくださった宮下釚太郎氏(無濁というペンネームでしかわからなかった方)が一緒に写っていた。 

 本業と孫守りの傍らで、ない時間を捻出してつづけてきた祖先探しと、関連の歴史調査だが、母が退院後にまた自立した生活に戻れるかどうかで、先行き不透明になってきた。連絡を受けて駆けつけても、横浜からではかれこれ2時間近くかかってしまう。 

 今回は数日前から頭痛がするという母を心配して、友人がお粥とおひたしをもって玄関先に「置き配」してくださり、連絡が取れないのを案じて夜間に助っ人を頼んで知人たちに行ってもらったところ、容体がかなり悪いことが判明して、なかば強引に入院させたのだそうだ。しかも、いろいろな話を総合すると、どうやら皆さん高齢者で、車ではなく、手持ちのショッピングカートに母を座らせて(見てみたかった!)、徒歩数分の場所にある病院まで夜中に連れて行ってくださったうえに、耳の遠い母と病院スタッフのあいだの「通訳」もしてくださったらしい。いまはもう完全に建て替えられて新しい街になっているが、昭和の団地仲間の、いまもつづく村の社会のような人の絆には、ただただ感謝するしかない。 

 駆けつけた病院では、まだコロナ禍の規制最終日であるうえ、母のPCRの結果が出ていないとのことで面会はできなかった。母が家に置き忘れた携帯・補聴器その他を取りに留守宅に入ったところ、差し入れとわかるお弁当箱や、自分でつくったと思われる土鍋のお粥、煮物等が食べかけのまま放置され、乱れたままの布団も敷きっぱなしで驚いた。母は極端に綺麗好きなので、入院した夜の慌しさが想像できた。  

 いずれこういう日がくることは覚悟していたとはいえ、あともう少しだけ時間が欲しい。母がまた煮物をもって横浜まできてくることはもうないのだろうか。せめて、近所をゆっくりとでも散歩をし、自宅で自分の食べたいものを料理できる日々が戻ってくることを願っている。食べるために生きているような母にとって、点滴と一日一食の重湯の食事は耐え難いようだ。

ようやく見ることができた高祖父と松平忠礼の写真

上田市立博物館で開催されていた企画展のチラシ

弘化2(1845)年、「大坂入城行列図」のなかにいた高祖父

赤松小三郎記念館にあった建白書のレプリカ

上塩尻の藤本養蚕歴史館の旧佐藤邸

信州大学繊維学部の旧貯繭庫に展示されていた繭のサンプル。建物はイギリス積みの古いレンガ造りだった。

上田城址公園の山極勝三郎の像

『上田郷友会月報』大正2年。曾祖父は扁額の右下。左隣りが宮下氏、山極勝三郎は後列左から7人目、その右隣りが忠正氏。

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