2023年3月31日金曜日

下田駆け足旅行

 春休み気分にはなれなかったが、予定どおり下田行きを決行してきた。なにしろ、一カ月前にサフィール踊り子号が大好きな孫のたっての願いを叶えるために、数室しかない個室を娘が発売日の10時にみどりの窓口まで行って予約してあったのだ。日米和親条約や日米修好通商条約の歴史を調べた身としては、下田は一度見ておかねばと何年も前から思っていた場所なので、私も娘一家の旅行に途中まで便乗させてもらうことにした。そんな話を関良基先生にしたところ、玉泉寺のご住職はお友達なので、連絡してあげましょうといつもの気軽さで、即座にアポを取りつけて下さったのだ! よく伺ってみると、同寺の村上文樹和尚は、『不平等ではなかった幕末の安政条約』(勉誠出版)を関先生、鈴木壮一氏とともに共著なさった歴史通のご住職なのだった。

 そんなわけで、学生時代以来のコンパートメントの旅を、はしゃぐ孫と一緒に楽しんだあと、桜が満開で新緑と相まってパステルカラーに染まる山をハイキングする娘一家と別れて、私は一路、柿崎の玉泉寺まで一キロ半ほどの道のりを急いだ。当時は豊福寺にあった下田奉行所まで、「道が未整備で満潮時には舟で渡るしかない」(前述書)と、ハリスが危惧した海岸通りであり、吉田松陰と金子重輔も「下田踏海」を企てるために歩いたはずの道だ。嘉永7/安政元(1854)年11月4日に安政東海地震の大津波が3段目まで押し寄せたという山門の石段を登って寺務所に行くと、すぐに村上和尚さまが出てきてくださった。15分ほどお話を伺えればとお願いしてあったのに、広い境内をあちこちご案内いただき、結局のところ2時間もお邪魔してしまった。 

 このお寺は幕末史の非常に重要な舞台であっただけでない。現ご住職のお祖父さまが玉泉寺の住職となられた大正期には、かつてハリスやヒュースケンが滞在した本堂も軒は傾き、根太が折れた状態になっていたそうだ。思い余った26歳の若い和尚が渋沢栄一に窮状を訴えたことがきっかけで、大修復に漕ぎ着けることができ、いまに至ったのだという。石段を登ってすぐのところに立つ渋沢栄一による巨大な碑は、太平洋戦争時に一時期、敵国との交流を称えたものでけしからんとして引き倒され、危うく破壊されそうになったのを、お祖母さまが身を投げだして守ったものなのだそうだ。当時、40代のご住職自身は徴兵されて戦死されたとのこと。 

 玉泉寺を訪ねたかった理由はいくつもあるのだが、いちばんのきっかけは、和親条約が批准されるまでに少なくとも1年はかかるので、下田港が利用されるのはそれ以降だとペリーが応接掛に請け合ったにもかかわらず、条約調印から1年も経たないうちにアメリカ商船キャロライン・E・フート号が来航したうえに、3人の女性と5歳と9歳の子どもの一行が玉泉寺に2カ月ほど滞在していたことを知ったからだった。日本人絵師が描いた絵(アメリカの議会図書館蔵なのでリンクを参照)によると、ワース船長の24歳の妻、商人のH・H・ドティの妻、ウィリアム・C・リードの32歳の妻と5歳の娘ルイーザが含まれていた(この船にはトマス・ドアティとH・H・ドティが乗船していたようだ)。

 ドアティとリードは安政2年にすでに交易としか言いようのない事業に乗りだしていた。このリードなる人物を、数年後に横浜で活躍したユージーン・ヴァン・リードと私は混同していたが、まったくの別人であったことが、今回少しばかり調べ直してわかった。いずれにせよ、日米和親条約の抜け穴と言われる「欠乏品」のやりとりを定めた条項は、ペリー帰国後の翌年には少なくとも大いに活用されていたことになる。 

 ペリー艦隊が最終的に日本を離れたあと、ロシアのプチャーチン一行が下田にきており、日露和親条約の締結に向けた交渉に入った途端、大津波に見舞われるという事態も発生していた。乗ってきたディアナ号は500人乗りの大型船だったが、30分間に42回転もして大きく損傷してしまった。下田では875戸中、841戸が全壊流亡、85人が溺死したという。修理のために戸田村に曳航されたものの、ディアナ号は11月19日に沈没した。この間の死者は3人だけで、残りは帰国する手段を失って伊豆半島にしばらく滞在することになった。玉泉寺には少なくともロシア将兵数名が滞在していたと考えられている。残り数百人のロシア人はどこに寝泊まりしていたのだろうか? 

 安政2年前半の下田のこうした事情に私が強く関心をもったのは、水戸藩の徳川斉昭がこの年の5月に老中にたいし、このままでは下田はキリスト教に支配されるし、将軍家との縁組だの、自分の娘の縁組だのと言いだされたら、どうするつもりなのかと詰め寄った一件があり、その当時の背景を知りたかったためだった。

 プチャーチンはこの災難にもめげずに日露和親条約の交渉を続行し、船を建造して帰国すると言いだして川路聖謨を感服させている。このときの船ヘダ号は実際、翌2年3月22日にはプチャーチンら48人を乗せて戸田村を出帆し、帰国したことなども、村上和尚のご著書からわかった。 

 しかし、ディアナ号の大半の乗組員はまだ下田に取り残されていた。そこへ下田開港の噂を聞きつけてハワイから早々にやってきたキャロライン・E・フート号が傭船契約結び、船長の家族らを下田に残して、ロシア将兵159人をカムチャッカまで送り届けたのだという。だが、それでもまだ250人が残されており、この第3陣は日本側からの要請でプロイセンの商人リュードルフが、その名もグレタ号という船で送り届けることになったが、クリミア戦争のさなかであったため、グレタ号は拿捕されてしまったようだ。リュードルフ自身はこの年の5月から11月まで8カ月、玉泉寺に滞在していたことが、ご住職から頂戴した山田千秋氏の『フランクフルトのビスマルクと下田のリュードルフ』という本や、山本有造氏の論考などからわかった。 

 玉泉寺にはペリー艦隊からの死者などアメリカ人の墓5基と、ディアナ号関係者のロシア人の墓3基が現存しており(もう1名の新しい追悼碑がある)、アメリカとロシアの外交官や政治家や、多くの研究者や観光客が訪れるという。ジミー・カーター元大統領も来訪したし、ウクライナ戦争が始まる前まではガルージン元駐日大使もたびたび訪れたとか。下田について勉強しようと買い込んだものの、まだほとんど積読状態の『下田物語』の著者スタットラーは、渋沢栄一の碑を守ったご住職のお祖母さまから多くのことを聞き取り、あの長編を書いたのだそうだ。 

 一般には航海中の死者は水葬が基本だったはずで、薩英戦争中に水葬に付されたイギリス人が鹿児島の海岸に流れついたことなども知られている。だが、ペリーは和親条約の交渉に先立って艦隊での最初の死者である海兵隊員ロバート・ウィリアムズの埋葬にこだわり、第1回目の交渉がその件でほぼ費やされていた。ウィリアムズはいったん横浜の増徳院で盛大に葬られたが、玉泉寺に改葬された。これは死者を日本の地に葬ることで、そこを何かしらの聖地または拠点とすることを意図したものだろうかと、私はご住職に伺ってみた。開港直後に横浜で殺されたロシア人のために「聖堂」を建てることをロシア側が強く主張したことなども知っていたからだ。玉泉寺の外国人の墓は大名クラスの仕様だそうで、ペリーの意図を知ってか知らでか、日本側は異国の地で死んでいった若者を悼む純粋な気持ちと、両国関係の今後を期待して誠意をもって尽くした結果と思われた。ご住職はすぐにその意味を察してくださったが、これまでそのように考えたことはなかったとのことだった。

 アメリカ人の墓は下田湾とはるか太平洋を望む場所にあるが、そのため風化が激しく、近年、屋根が構築されたため見た目が変わってしまったが、じつは1855年から1858年に撮影されたと考えられるダゲレオタイプの古写真がロチェスターのジョージ・イーストマン博物館に残されているとご住職から教えられた。年代が特定できるのは、その古写真には1858年に埋葬された5基目の墓がまだないことと、西洋人の子ども(おそらくルイーザ)と犬と思われる姿が写っているためなのだという。境内のハリス記念館でコピーを拝見したとき、どこかで見た写真だと思ったら、案の定、テリー・ベネットの『Photography in Japan1853-1912』に大きく掲載されていて、確かに犬の目まで光ってよく見えた。 

 下田開国博物館で、ディアナ号に乗り組んでいて津波のスケッチを残したモジャイスキーのカメラが展示されているのを見たので、撮影者は彼かとも思ったが、ヘダ号建設を指揮した彼は、第1陣ですでに帰国していた可能性が高いだろう。一般には当時、下田に来航していて、のちに咸臨丸に乗り組んだエドワード・メイヤー・カーン撮影とされるそうだが、ベネットはキャロライン・E・フート号に乗ってきたエドワード・E・エジャートンの可能性が高いと考えていた。ベネットの書には、モジャイスキーが1854年4月に玉泉寺の住職を撮影していて、そのダゲレオタイプは現存するとも書かれていた。どこにあるんだろうか?!(ご住職から頂戴した「玉泉寺」という冊子をようやく開封してみたら、この写真は同寺に現存と書かれていた!)

 ロシア人墓地のほうは、裏山の大木がよい木陰をつくっているために保存状態がよかった。見たことすらなかったであろうロシア文字を、一字の間違いもなく彫ってあったという碑文はまだ鮮明に残っていた。なぜか3基の墓にはロシア正教の八端十字架ではなく、普通の十字架が彫られていた。安政年間に、これほど堂々と十字架を示すものが彫られていた事実にも驚かされた。 

 墓地のあと、嘉永元年に柱や梁に硬材であるケヤキをふんだんに使って再建されたという本堂も見せていただいた。ご本尊を祀る両脇に和室があり、向かって左手が、ハリスが長い闘病生活を送った8畳間で、右手がヒュースケンの部屋だった。ヒュースケンの日記にあったベッドの置かれたあの部屋だ。彼は床間に座ってあのスケッチを描いたのだろう。ヒュースケンは、星がまだ31個の星条旗が玉泉寺境内に翻る、アメリカにとっては画期的な一枚も残している。下田の女性が羽二重で丁寧に縫ってつくった星条旗もアメリカに残されているのだという。 

 玉泉寺を失礼したあとは、了仙寺、泰平寺(何やら近代的な建物になっていた)や博物館などを回り、復路は普通列車を乗り継いで帰った。単線区間の下田から伊東まではいまでも時間がかかり、幕府が当初、開港場を下田ことで外国人をここにとどめておきたかったという地理的条件を再認識したような旅だった。いざこの日帰り旅行の記録を投稿する段になって、上田の次に下田に旅をしたことにようやく気づいて、われながら笑ってしまった。別に意図したわけではないのだが。

 いざサフィール踊り子号へ

時間が足らず下田踏海の現場までは行けなかったが、遠目に彫像は眺めた

玉泉寺の山門。この3段目まで波が押し寄せたという

玉泉寺本堂。渋沢栄一のおかげで銅葺きになった

下田湾を望むアメリカ人の墓所

ダゲレオタイプなので左右が反転している。
Terry Bennet, Photography in Japan 1853-1912より

ロシア人の墓所。側面の目立つところにも十字が刻まれていた

本堂内のケヤキの柱。左奥がハリスの部屋だったところ

ヒュースケンの部屋だった和室

ヒュースケンのスケッチ、
Henry Heusken, Japan Journal 1855-1861

0 件のコメント:

コメントを投稿