2023年8月3日木曜日

悩ましい「ナラティヴ」

 最近、と言っても、この10年くらいのあいだに、ナラティヴ(narrative)という言葉に遭遇する機会が増え、そのたびに訳語に頭を悩ましている。ナラティヴを「物語」と訳してしまえばそれまでなのだろうが、ナラティヴとストーリーがいかに違うかを説明するサイトをあれこれ読むと、そう簡単には訳せないと思ってしまう。  

 これが多用されるようになった背景には、1960年代からのフランス構造主義者の文学理論やロシア・フォルマリズムから生まれた物語論があったようだ。が、そうした複雑な経緯は、ちらりと読んだくらいでは一向に理解できない。 ナラティヴとは何かをより端的に説明したものなどを読むと、人間の脳は個別の事実をいくら並べられても、そこからは何も理解できず、誰かがその点と点を結びつけて、意味の通る筋書きつくって初めて、そこに関心をもつようになり、それがナラティヴなのだという。 

「物語」という訳語に私が抵抗を感じてきた一因には、なぜかそう言うと架空の作り話のような気がすることもあった。英語のストーリーにも日本の物語にも、事実か創作かを区別する定義はないのに、事実であることがことさら重視される科学分野の説明にたいし「物語風」などと言うことにはどうも違和感がある。ただでさえ多くの疑念の目で見られがちな気候科学の分野などでは、「物語」とは書きたくないなと、つい思ってしまうのだった。 

 そんなナラティヴという手法が、近年ではとみに世論を操作する手段としても使われている。そのため、文脈からそれがよい意味で使われているのか、悪い意味で使われているのかも判断しなければならない。決して架空の話をでっち上げているわけではなくても、自分の主張に沿った事実だけを巧みに選んで、説得力のある「語り口」で、有利な「筋書き」を展開することも、やはりナラティヴだからだ。  

 このところ、毎日新聞の記者、大治朋子さんがナラティヴに関連した記事をいくつか書いていたので、とりあえず切り抜きだけして、適切な訳語を探るヒントがないかチェックしている。とくに7月11日付の紛争地で個人や社会のアイデンティティを形成する「集合的で支配的な物語」に関する記事などは面白かった。ご著書の『人を動かすナラティブ、なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』は図書館にリクエスト中で未読だが、この本の紹介で、養老孟司さんが「(ナラティブは)脳が持っているほとんど唯一の形式」と語っていることなどもわかり、ふむふむと思っている。 

 歴史小説や自己主張の強すぎる歴史書は総じて苦手なほうだが、それは一方的な視点の押し付けにあざとさを感じるからだ。歴史は運よく残された文字記録をつなぎ合わせて、大半は勝者の視点から語られることが多く、そのためにどうしても胡散臭さを感じてしまう。もっと客観的に多方面から史料を提示し、読者自身に物語を紡がせ、判断させるべきというのが持論だが、史料集を読んでそこから話をつなぎ合わせ、何かを読み取れるのは、実際にはごくわずかな人に限られるのかもしれない。  

 そんな話を、図鑑タイプでない科学絵本づくりにこだわっている娘にしたら、「そうだよ、ナラティヴな科学絵本をつくっているんだよ」とあっさり言われてしまった。娘の場合はもちろん、子どもに科学的な興味をもたせるためには、そこに物語が必要だという意味で使っている。  

 この数日間、少しばかり時間の余裕ができたので、重い腰を上げて亡母の写真整理を始めているが、考えてみればこれも、母の生涯を子孫に伝えるためのナラティヴをつくる作業なのだ。未整理の大量の古い写真をそのまま残せば、数十年後には誰かがただゴミとして処分してしまうのは目に見えている。  

 母が遺した写真をどうまとめるかはまだ検討中だが、87年の生涯のあいだにはいくつものドラマがあった。幼児期の写真がかなりあるのに、入学した年の暮れに太平洋戦争が始まったためか、長野師範付属小学校時代の写真は一枚も発見できなかった。戦争中に教科書を黒塗りさせた「青瓢箪」先生が、戦後にその行為を謝罪することなく、素知らぬ顔で正反対の授業を始めたことが許せなかったと、よく私たちに言っていた。開戦の朝、祖父が「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と言ったそうで、学校の作文にそう書いたところ訂正させられたと、後年、伯母が新聞に投書していた。母は小学校6年の暮れに松代小学校に転校しており、かろうじてその卒業式の写真だけが見つかった。 

 母のきょうだい6人は、横浜国大に行った叔母以外は全員が都内の私立に進学したため、祖父母は非常に苦労をしたようだ。母が大学3年次に祖母が遺産で保土ヶ谷に中古の家を買い、そこで姉妹で暮らすようになった。山道のような急坂を登った上にある月見台のこの家の跡地を、2年前に母と訪ねたことがある。女の子だけで住むのは物騒だというので、ドルフという名の番犬も祖母が買い与えていた。いとこによると、伯母は「番犬がこわかった。でも、もっと洵子[私の母]がこわかった」と、よく話していたそうだ。母の妹や弟たちからもよく同様の話を聞かされていたが、姉である伯母にも怖がられていたとは。  

 両親は創業したばかりの高輪プリンスホテルで1957年に結婚式を挙げた。当時何と呼ばれていたか定かでないが、写真に写る洋館は1911年築の旧竹田宮邸(あのお騒がせ親子のご先祖のお屋敷)で、グランドプリンスホテル高輪の敷地内に現存する。当日、母方の祖父は上機嫌だったようで、庭園で満面の笑みを浮かべる写真もあった。母方の祖母のほうは当初から父が気に入らず、父方の祖母も母が気に入らなかったと言われ、そのせいか双方の祖母の表情は対照的に硬い。

 母がお色直しに着た振袖は、祖母が張り込んで用意してくれたものだったが、結婚後、父と住みつづけた保土ヶ谷の家に空き巣が入り、盗まれてしまったらしい。番犬ドルフは何をしていたのやら。振袖はおそらく妹たちも着るはずのものだったのだろう。母は、父が酔っ払ってタクシーに乗った際に、運転手に不用意にその話をしたせいだと頑なに信じ、それが不和を招く一因になったと、父の死後に叔母から聞いたように思う。  

 私が幼かったころの写真は、自分の記憶違いを正してくれるものにもなった。母が近所のお母さんたちと保育の会をつくって幼児教室を開き、私も2歳のころしばらく通っていたことはうっすら覚えていたが、母がそこで先生をしていたことまでは認識していなかった。母がオルガンを弾き、そのすぐ隣で、姉がひな祭り用の妙な金色の冠をかぶって真剣な顔でお遊戯をし、私と思われる幼い子が、同じ冠をかぶって戸惑っている写真を見つけたときは、失笑してしまった。幼児教室では、私のピアノの先生や、幼馴染のお母さんも先生をしていたようで、当時はまさしく親たちによる手作りの教室だったようだ。  

 古い写真をスキャンし、拡大して眺めながら、そんなことをつらつらと考えるうちに、点と点がつながり、ああ、そういうわけだったかと納得しながら、なるほどこれがナラティヴの萌芽だな、などと考えている。87年の生涯からは膨大な数の写真が残されており、そのすべては残せないし、祖父母のアルバムのときのように冊子をつくるならば、かなりの取捨選択を強いられる。そこで私が選んでつなぎ合わせたものは、ナラティヴの力を借りて、あと数十年は伝えられるかもしれないが、私が選ばなかったものは、忘却されてしまうのだろう。

 こう理解できたからと言って、どの文脈にも合うナラティヴの訳語はやはり思いつかない。こうしてカタカナ語は増殖する一方となるに違いない。

「象山のあずまやにて」と、母のやや幼い字で裏書きがあった。松代中学1年時か

 保土ヶ谷の月見台の家で妹とドルフと

 高輪プリンスホテルで挙式後に

 高根台の幼児教室で

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