2025年5月24日土曜日

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』

 遅まきながら、マイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』(早川書房、2021/2023年)を図書館で借りて読んでみた。じつは、初めてのサンデルの本だ。訳者の鬼澤忍さんは、鈴木主税先生のところで短期間ながら一緒に勉強した仲間であり、サンデルは何かと話題になるので興味はあったものの、ベストセラーは順番待ちが長く、そこまでして読まなくてもと後回しになっていた。また、コミュニティの一員というアイデンティティ(自己認識)をその構成員に押しつけがちなコミュニタリアニズム(共同体主義)に、アマルティア・センが非常に懐疑的であり、サンデルの著書も批判の対象として挙げていたために、二の足を踏んでいたこともある。  

 今回、長い順番待ちをして読んでみたのは、日本では能力主義とか実力主義と訳されるメリトクラシーについてサンデルが書いていることを、平等の思想史を翻訳中に知ったからだ。鬼澤さんとは違い、私は哲学も思想史も苦手なほうで、少しでも多く参考書を読んでおかねば、というのが正直なところだ。読んだと言っても、寝る前のわずかな時間に細切れに読んだので、どれほど理解できたかはなはだ怪しいが、文庫版巻末にあった本田由紀さんの解説なども参考にしながら、備忘録代わりに書評を書いてみた。  

 メリトクラシーという用語は、1959年にイギリスの社会学者マイケル・ヤングがよい意味ではなく、ディストピアを表わすために生みだした言葉なのだという。デモクラシー(民主主義)が定着してきたかのような20世紀なかばになって、この言葉が批判と警告を込めて生まれたわけだ。実際には旧来のアリストクラシー(貴族社会)が、メリトクラシーに取って代わっただけではないかと長年思ってきたので、今回、この本を読んだことで非常に得るものがあった。  

 解説でも指摘されていたように、英語のmeritは「能力」よりは「功績」に近い言葉なので、本来は「功績主義」という訳語が定着すべきだったのだろう。どれだけ手柄を立てたかという実力の結果主義、といったところだろうか。いずれにせよ、この言葉は旧来の家柄や血筋ではなく、本人の能力、実力しだいで出世が約束される社会を意味する。  

 一見、よさそうに聞こえるメリトクラシー、能力主義だが、その背景には旧世界のしがらみを断ち切って、誰もが平等に出世できる社会をつくったと自負するアメリカ人の建国理念が深くかかわっているのだろうと思う。もっとも、サンデルは「アメリカが偉大なのは、アメリカが善だから」とか、「われわれは歴史の正しい側にいる」といった近年、繰り返し聞かされてきた主張は、実際には20世紀後半以降に盛んに言われるようになったと指摘し、こうした言葉は国家に応用された能力主義的信仰なのだとする。 

「2016年、大学の学位を持たない白人の3分の2がドナルド・トランプに投票した。ヒラリー・クリントンは、学士号より上の学位を持つ有権者の70%超から票を得た」というような分析を引用し、学歴偏重が現代の政治におよぼしてきた影響と反動を鋭く指摘している点で本書は注目されてきた。再選されたトランプがハーバード大学を目の敵にしていることでも、いままた新たな読者を惹きつけているだろうと思う。反エリート的な傾向はアメリカに限らず、日本でもヨーロッパでも顕著になっており、先日も「韓国男性に被害者意識」と題した見出しが毎日新聞の一面を飾っていた(5月23日朝刊)。 

 では、能力主義のどこに問題があったのだろうか。本書は、1933〜53年にハーバード大学学長を務め、マンハッタン計画の科学顧問でもあった能力主義の推進役ジェームズ・ブライアント・コナントについて詳述する。戦前までハーバード、イェール、プリンストンの御三家には、プロテスタントの白人エリートの子弟で、プレップスクール出身の男子学生であれば、成績が悪くとも入学できていたそうだ。映画『ある愛の詩』(1970年)でライアン・オニールが演じたオリヴァーは確かにそんなプレッピーだった。原作者のエリック・シーガルはラビの息子で1958年にハーヴァードを卒業しているので、ユダヤ系アメリカ人としてハーヴァードを出た最初の世代だったと思われる。 

 プロテスタントの世襲エリートを打ち倒し、能力主義エリートに置き換えようと画策したコナントは、「既存の非民主的なアメリカ人エリートを退陣させ、代わりに頭脳明晰で、行き届いた教育を受け、公共精神を持つ新しいエリートをあらゆる分野と経歴の人材から集める」目標を立てたという。これはサンデルが引用していたニコラス・レマン(『ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度』)の言葉だ。このビッグ・テストがSAT(旧称:大学進学適正試験)であり、コナントがこだわったのは「測定するのは生まれつきの知能であり、学科の習熟度ではないことだった」。

  IQであれば、プロテスタント、白人、金持ちといった属性との相関関係はとくになく、それ以外の属性をもつ有能な学生に教育の機会を提供できるだろう。だが、IQも遺伝や幼少期の教育に影響されるのではないだろうか。出来の悪いエリートの子弟が、親から将来の成功を約束する狭き門に入れと強いプレッシャーをかけられれば、精神的に追い詰められることにもなる。アメリカでは「大学生の五人に一人が前年に自殺を考えたことがあり、四人に一人が精神的障害の診断あるいは治療を受けた」そうだ。私の知る1980年ごろのんびりしたアメリカ社会は様変わりしたようだ。 

 しかも、「成功すれば自分自身の手柄であり、失敗しても自分以外の誰も責められない」自己責任論が、人生の勝者には驕りを、敗者には屈辱を与える。「あなたは〜に値する」(you deserve)という言い回しは、レーガン時代から盛んに使われるようになり、ビル・クリントンはレーガンの2倍、オバマは3倍多く使っていたという。自分を主語に「I deserve〜」と言われると、正当化やおこがましさを感じ、どこかひっかかるものがあったのだが、本書の説明を読んで納得するものがあった。この言葉は失敗したときにも、自業自得という意味で使われる。 

   能力主義も万能ではなく、弊害のほうが大きくなった昨今は、脱落した人びとの不満や恨みを巧みに利用したポピュリストが台頭している。その構図は、20世紀前半にファシズムが台頭したときと、じつによく似ている。サンデルは能力主義の欠点を補う方法として、機会の平等ではなく条件の平等を、消費者的共通善ではなく市民的共通善を尊重すべきと主張しているが、一読したくらいでは、何やらよくわからない。解説も「何を善とみなすかについての議論の必要性を説くことに留まっており、曖昧さを含むことは否めない」と書いているので、私の理解力がいちじるしく劣るわけではなさそうだ。  

   そもそも、共通善(common good)などという言葉は日本人には非常に理解しにくい。以前にこの言葉については憲法絡みで調べたことがあるが、それでも具体的イメージはさっぱり浮かばない。こうした議論でよく思いだすのは、マルクスの『ゴータ綱領批判』(1875年)の有名な一節「各人の能力に応じたものから、各人の必要に応じたものへ」だ。当面はまだそれぞれの能力に応じて報酬を受け取ったとしても、将来的には、各人が生きるのに必要なものを受け取れる社会を目指すべき、という見解だった。ようやく貴族社会から脱しつつあったこの時代に、よくそこまで見通せたなと思う。

  つまり、各人の必要に応じて分配できる社会にするには、共通善なり公共の福祉なり、公益、公共財等々として富をプールしなければならない。そのためには、能力の秀でた個人がどれだけ目覚ましい働きをしようが、国家予算に匹敵するような富を蓄積させてはいけない。経済的には何の貢献もせず、足を引っ張るだけの人にも何らかの存在意義があるのだから、生きるために必要な糧は社会として与えなければならない、ということだろう。  

 熟読せずに言うのも何だが、サンデルの場合、私にはどうも1950年代以前の、コミュニティや愛国心や労働の尊厳を取り戻せば、コナント以降の能力主義への間違った方向への進路は是正されると主張しているように感じられる。このところ、アメリカの建国史の影の部分に触れることの多かった私には、能力主義どころか、共和主義や民主主義ですら、その根底から揺らいでいるような気がしてならない。

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』鬼澤忍訳、早川書房、2021/2023年

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