おそらく翻訳者の多くには、日本語で表現しづらくて訳しにくい言葉があり、それに遭遇するたびに悩まされているのだろう。今回の仕事では久々に苦手な言葉だけの単語帳をつくり、類語をどう使い分けるかを含めて、頭のなかを整理しながら作業を進めた。著者が同じ言葉を使うたびに、訳語を再検討しなければならないので、やたら手間がかかるが重要なことだ。そのなかでもとくに「公共の福祉」に関連する言葉を取りあげたい。ご承知のように憲法改正問題にも絡むので、優先順位は高いと思う。
だいぶ以前に自民党案を見たときに、私が何よりも疑問に思ったのが12条や13条のこの書き換えだった。「公共の福祉」では意味が「わからん」として、「公益及び公の秩序」だか「公益および公共の秩序」に変えたいと、昨年の自民党の総裁選でも高市早苗氏が述べたことで新たに話題にもなった。
藪から棒に「公の秩序」を追加することへの疑問はさておき、当初、私が漠然といだいた違和感は、公共と公はかならずしも同義ではない、というものだった。公共の意味を取り違える人は少ないと思うが、「公」を「官」と混同している人は非常に多い。公益法人の名を冠した怪しげな団体が存在することも、「公益」という言葉に、本来はなかった意味を付加している。この数カ月間にいくつかの本で、この問題に関連する何種類かの言葉に遭遇したため、さすがの私でも改めて考えざるをえなくなった。
ところで、「公共の福祉」という概念が、戦後制定された日本国憲法で初めてもち込まれたものではない、ということはどれだけ認識されているのだろうか。通常これはpublic welfareに相当すると考えられている。ウィキペディアの「日本国憲法第12条」の項などにまとめられているものを参照すると、日本側が提出した憲法改正要綱および改正草案では「公共の福祉」と書かれ、かたやGHQ案ではthe common good(「共同ノ福祉」と訳されていた)だったが、最終的な憲法には日本側が当初提案した表現が採用されたようだ。つまり、少なくとも、それを盛り込もうとする意思がすでに日本側にもあったのだ。 日本国憲法のGHQ案では、ほかにも第13条と第22条1項(general welfare/一般ノ福祉)、第29条2項(public good/公共ノ利益)と使い分けられていたが、最終的にすべて「公共の福祉」に統一されたのだそうだ。
これらは基本的に社会契約論で発達した概念なので、日本に最初に紹介したのは中江兆民と思われる。この記事を書くためにざっと検索した限りで、確かではないが、『民約論巻之二』のなかで、ルソーが「le bien commun」としたものを、中江は「公共ノ利」と訳したようだ(岡田清鷹著、「『民約訳解』再考──中江兆民と読者世界」、Core Ethics Vol. 6, 2010)。
フランス語のle bien communは英語ではthe common goodに相当し、そのままずばり「共通善」と訳されることが多いようだ。ウィキの「Common good」の項には、この言葉がcommonwealth、general welfare、public benefitなどとも言い換えられ、古くはアリストテレスやトマス・アキナスにさかのぼり、アダム・スミスやマルクス、ジョン・スチュアート・ミル、ケインズ、ジョン・ロールズなどによって追究されてきたことが書かれている。グーグル翻訳で調べてみると、common goodは中国語では共同利益、public welfareは公益とでてきた。
ここで気になるのがwelfareの意味だ。この単語には福祉という訳語が定着しているが、改めて調べてみると「祉」は神の恵みを表わし、この言葉には本来、「幸福」に限りなく近い意味しかなく、「福祉」という言葉で多くの現代人が想像しがちな社会の弱者への施しを意味するわけではない。「福祉の世話にはならない」という風潮は、アメリカでとくに強いと思うが、日本にも少なからずある。
この言葉にそっくりのwell-beingのほうは訳語が定まらず、最近はよく「ウェルビーング」とカナ書きされているのを見る。このwell-beingは「幸福」も「安寧」などと訳されるのが定番だが、今回の仕事では取り敢えず「よい状態」と直訳し、カタカナのルビを振って処理してみた。もう少し考えてみよう。
グーグル翻訳で調べた限りだが、フランス語とスペイン語、中国では、welfareとwell-beingに相当する言葉は使い分けられていない模様で、それぞれbien-être(仏)、bienestar(西)、福利(中)と同じ語がでてきた。ドイツ語はWohlfahrt、Wohlbefinden、日本語は福祉、幸福、と別の言葉で自動翻訳された。
これらの訳語だけでも充分に悩ましいのだが、別のところでpublic goodsという言葉に遭遇して、悩みがさらに深まった。「共通善」のcommon good と同義の public good(定冠詞または無冠詞)とは、語尾にsがつく、あるいは前に不定冠詞のaがつくだけの違いしかないが、可算名詞になると経済用語になり、定訳は「公共財」だという。経済学で考えるには、物として捉え、計算できる必要があるということか。
「よい、善」という意味のはずのgoodにsやaがつくだけで「物」や「財」に変わって「グッズ」になってしまう英語の摩訶不思議な特性は、フランス語とスペイン語にも見られ、やはりただ複数形にするか不定冠詞をつけてun bien pubulic/biens publics(仏)、un bien público/bienes públicos(西)とするだけで、経済用語になるようだ。ウィキのページを読むと、common goodsという表現もあってpublic goodsとは微妙な違いがあり、おそらく前者が準公共財で後者が純粋公共財ではないかと思うのだが、ほぼ同義語と見てよさそうだ。このあたりになると、commonとpublicの違いを突き詰めなければならず、学者によって言うこともまちまちで、そこまで深入りする気持ちの余裕がいまのところない。
ところが、この「公共財」とは治安、国防、公衆衛生、水資源、水産物、はては知識や空気までも含まれるという。それをはたして「財」と呼べるのかにも悩み、「便益」という言葉をナカグロで補ってみた。
ともあれ、経済用語としてのこの言葉が、社会契約論や憲法で言う「公共の福祉」とまるで無関係であるはずはない。分野ごとに研究者が専門用語を勝手につくるので、別物に見えるだけで、本来は共通する意味があるはずだ。つまり「共通善」も「公共の福祉」も「公共財」も、本来ほぼ同一の言葉であるべきだったのが、それに当てはまるよい日本語がないため、「よくわからん」状態になっているのだ。
憲法でこの言葉に該当する条項に共通するのは、個人の自由は保障するものの、それが社会全体のgoodなりgoodsなりに反しない限りである、という条件だ。英語ではこんなシンプルな言葉なので、英語の話者の頭にはすんなり入ってくる概念であるに違いない。中江兆民が「公共ノ利」ではなく、「皆の衆のためになること」とでも訳して、「みなため」と略語にして流行らせてくれていれば、違ったのだろうか。日本では個人の自由に関することも誤解されやすく、すぐ「滅私奉公」となりがちなので、この点も理解を深める必要がある。
福祉という言葉に妙なニュアンスがこびりついてしまった現在、憲法の言葉の意味が不明確になっているのは確かだ。とはいえ、「公共の福祉」の表現一つを変えるにしても、関連する諸々の分野の専門家が議論を尽くすことなく、国会のような場で強引かつ拙速に多数決で決めては、その余波は多方面におよび、後悔することになるだろう。
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