2025年6月29日日曜日

『孤城春たり』を読んで

 新聞の書評で面白そうだと思い、長らくリクエスト待ちしていた澤田瞳子の歴史小説『孤城春たり』を読み終えた。幕末の老中板倉勝静は生麦事件の後始末などでよく名前が登場する人なので、それなりに知っていたし、山田方谷も少なくとも名前だけは記憶にあった。だが、松山藩については、立派な城があることで有名な伊予松山藩だと思い込んでおり、読み始めてしばらくして「山間の小藩だけに、海がない」という記述に頭をひねり、そのうちに「あれっ、備中ということは岡山県??」と気づくという間抜けぶりでわれながら情けない。伊予のほうは親藩で、備中松山藩は当然ながら譜代藩だった。幕末の藩主の板倉勝静は桑名藩主の8男、松山藩に養子入りした人で、松平定信の孫に当たるとのこと。備中松山のほうの城は、「天空の山城」としてネット上でちらりと見たことのある城だった。 

 まったく知識のない方面の話で、登場人物もそれなりに多く、最初のうちは戸惑ったが、非常にわかりやすく、テンポよく書かれた小説なので、するすると読み進められた。歴史小説はよほどのことがないと読まないほうなので、澤田瞳子の著作も今作が初めてだったが、母親の澤田ふじ子がやはり歴史小説家だそうで、かなりの書き手であることは間違いない。何と言っても、明治維新でいちばん割を食った譜代の、それも小藩から見た幕末史など、これまでほとんど書かれていないし、いろいろな意味で私の祖先がいた上田藩の状況とも重なるものがあって参考になった。京都出身の著者が幕末の譜代藩について書いたということも、画期的ではなかろうか。京都は公家のほかは、職人、町人の町だったし、幕末には尊皇攘夷の中心地となった土地柄だからだ。  

 本書の中心となる人物は、備中松山藩の精神的指導者のような儒者、山田方谷である。当時の松山藩は5万石とはいえ、実際の石高が2万石に満たず、借金だけは大大名並みに10万両もあり、「貧乏板倉」と揶揄されていたらしい。その藩政を立て直したのが方谷で、無駄の多い大坂の蔵屋敷を廃止し、大名貸しを行なう豪商である銀主に藩の財政事情を包み隠さずに伝え、頭を下げて返済を数年待ってくれるように頼んで回ったという。本書では大坂屈指の両替商である加島屋久右衛門の名前が上がっていた。少し前にこの加島屋の親戚である銀商から、上田藩が借金をしていた記録を見ていたし、重い腰を上げて読み始めているE・H・ノーマンの『日本における近代国家の成立』にも、こうした問題に関する鋭い指摘があったので、興味深く読んだ。  

 山田方谷は藩の財政を建て直しただけではない。「義を明らかにして、利を計らず」と、正論を唱えつづけたそうだ。勝手不如意になると、利に聡い侍ばかりが増え、結果、世は衰微すると主張していたという。国のトップがことあるごとにディールだと言って憚らず、選挙民でなく資金源でもない人間など眼中になく、人の尊厳も幼い命もお構いなしで、損得がすべての判断基準のように振る舞ういまの世の中には、方谷のような人物は絶滅危惧種、いやすでに絶滅種なのかもしれない。道徳的、倫理的な説教が苦手な私ですら、「義はどこへ行ったのか」と言いたくなる昨今、本書を読むと、胸のつかえが下りるような感がある。 

 方谷は郷土の英雄として多少美化されてきたところもありそうだが、本書は方谷自身には多くを語らせず、教えを受けた藩士などの口から師の理念を代弁させて、いくらか客観性をもたせているので、さほど不自然なく受け入れられる。舞台を備中松山、江戸、京都、大坂と移動しながら、嘉永年間から戊辰戦争まで比較的長い年代を扱うので、時代ごとにそれぞれの登場人物の視点から物語を進め、大勢の口から方谷を語らせる手法が効いている。もっとも、それらの人物が語り手であるわけではなく、人数も枝葉も多く、一読したくらいでは、すべてのエピソードが頭のなかでしっくり収まらない。この書評を書くに当たって検索してみたら、山田方谷だけでなく、熊田恰のような印象的な藩士に関する情報もネット上にかなりあったので、全国的な知名度は低くとも、小説を書けるだけの十分な材料はそれなりに揃っていたのかもしれない。 

 いくつか印象に残ったことや気になった点を挙げておく。山田方谷が唯一の女の弟子、福西繁に陽明学について語る場面がある。「誰かを自らの思いのままに為さんとはすなわち、世を従わせ、己を傲岸に振る舞わせる行いです[……]それは同時に、人間とは究極的には、自らの声にのみ耳を傾けるべき存在であることを意味します」と語る方谷が、それが陽明学なのだと言う場面だ。ならば朱子学ではなく、陽明学を学ばせてくれとすがる繁に、方谷は「陽明学は優れた点も多いですが、これのみを学ぶと偏りが生じます」と答え、朱子学を理解してから学ぶようにと諭す。ちなみに、福西志計子は岡山の女子教育に大きく貢献した実在の人物で、ウィキペディアによれば、彼女が創設した順正女学校がのちに順正短期大学となったようだが、その創始者は加計学園グループ創始者だった! 

 方谷の名前を最初に知ったのは、記憶どおり、松本健一の『評伝 佐久間象山』からだった。象山と方谷は斎藤一斎の門下で学んでいる。一斎が陽明学に傾倒していることに納得できなかった象山が師に向かって「文章詩賦は学ぶけれども、経学の教授は受けない」と宣言したエピソードはよく知られている。象山は陽明学者であった大塩平八郎にも批判的で、陽明学の思想は治政を乱すと考えていた。象山はいち早く西洋の技術を取り込んだ人だったが、つねに為政者の立場に立つ元祖ナショナリストであり、保守本流的なところがある。ちなみに、ノーマンは大塩平八郎に関する注に陽明学は個人主義的、民主的思想だと書いていた。 象山より6歳年上だった方谷は、象山の覇気に辟易していたらしい。一応、象山の門人だった河井継之助に「佐久間に、温良恭謙(倹)の一字、何れ阿(有)ると」と漏らしたという『孤城春たり』に書かれたエピソードを、松本も引用していた。これは河井の全国遊歴の日記『塵壺』に書かれているようだ。河井もこの小説に少しばかり登場する。長岡にいた親戚が、長岡市街を火の海にしたので、地元では河井は人気がないと言っていたことなどを思いだす。象山とは意見が対立することの多かった方谷だが、京都・木屋町で象山が殺されたときは、丸二日間ものあいだ自室に籠り、家の者たちを心配させたと澤田は書いている。 

 この小説には、藩主が板倉家の分家だった安中藩の新島七五三太(新島襄)も登場し、藩の許し得ぬままおそらく万延元年に蘭方医杉田玄端のもとに勝手に入門し叱責を受けたと書かれていた。杉田玄端のもとに、嘉永6年か7年に私の祖先が蘭書の訳本を購入しに行った記録があるので、同じ譜代藩でも上田藩は早期から蘭学を奨励していたことなどがよくわかった。 

 同じころ江川太郎左衛門英敏の塾に入門した松山藩士2人の話が一つの章となっている。松本健一の評伝から、英敏の父である英龍によい印象のなかった私には、『孤城春たり』を読んで江川家の苦労がわかり、見直すものがあった。新島襄はのちに、松山藩が購入した洋式帆船に乗せてもらって箱館まで行き、そこから密航していた。この章は、英敏の後ろ盾となってきた初代外国奉行の一人、堀利煕の自害についても少々触れており、老中首座の安藤信正に叱責された程度で切腹するはずがないという台詞を、英敏に吐かせている。堀利煕はいとこの岩瀬忠震に比べて地味な人だが、はるかに芯の通った人物に思われ、彼の自害の理由について少しばかり調べたことがあった。

 同じ章に桜田門外の変に関する記述もあり、事件現場の地図を再び探しだしてみたら、松山藩邸は現場となった杵築藩邸前より、一本東の通りを入った先にあった。著者はこれまでおもに平安時代の作品を書いてきたらしく、桜田門外の変については全体的に、近年、判明してきた諸々の事実は考慮されない展開となっていた。とはいえ、個人的には小説ならではの、面白い箇所もあった。事件に出くわして慌てふためいた松山藩士の塩田虎尾が「長屋門の脇の番所へと駆け込んだ。[……]往来に面した出格子窓に顔を押し付ければ、様子見を決め込んだのは近隣の屋敷も同じらしい」という件で、向いに立つ長州藩上屋敷も表門を閉ざしていると描写されていた。ちょうど、上田藩の藩邸門の素人工作模型をつくったばかりで、番所の格子窓はどうなっているのかと繁々と眺めたあとだったので、なるほど、門を開けずにここから覗くわけだな、などとわかり、楽しくなった。ただし、古地図を見る限りでは、事件当時の松山藩邸は表通りに面していないので、梁受けで突きだした出格子窓からどれだけ覗いても、現場は見えなかっただろう。 

 鳥羽伏見後に佐幕派の藩が受けた扱いはさまざまだったと思われる。藩主の板倉勝静が老中首座を務め、徳川慶喜が大坂を脱出した際にも同行したとあっては、新政府軍として備中松山藩は見逃せない相手だったようだ。隣の岡山藩は外様の大藩で、幕末の9代藩主、池田茂政は水戸の徳川斉昭の子であり、「実父の影響から藩論を尊皇攘夷に傾け、長州とも誼を通じた男である」と、小説には書かれていた。こういうことを知るとますます、幕府を崩壊させた重大要因の一つは斉昭だと思わざるをえない。もっとも、兄である慶喜の東帰後はさすがに茂政は隠居したようで、ウィキペディアによれば、支藩から池田家の藩主を迎えるに当たって岡山藩は「倒幕の旗幟を鮮明にした」そうだ。この時期の松山藩の苦難は、やはり藩主が幕末に大老や老中を務めた姫路藩がくぐり抜けた事情と似ている。姫路城や松山城が日本を代表する城として現存するのは、当事者や関係者が衝突回避に尽力した結果の、奇跡のようなものだ。 

 岡山藩の矛先は備中松山藩に向けられ、京都・大坂に出向いていた松山藩士150名が、藩主の命令で帰国すると、国元ではすでに徹底抗戦を唱える主戦派を穏健派が抑えて城を明け渡すことが決まり、城下から立ち去る準備が進んでいた。折悪しくそこへ戻ってきた150名の恭順の意を示すために、その部隊を率いた熊田恰という藩士が切腹して首を差し出すことになった。上田藩は、若年の藩主が家臣の説得等もあって慶応4年3月という、それなり早い時期に上京して恭順したため、江戸屋敷こそ立ち退きさせられたが、こうした苛烈な扱いを受けることはなかった。 

 小説自体は、読者を泣かせるこのクライマックスで終わるが、ウィキペディアによれば、方谷は維新後の松山藩の再興にかなり尽力したようだ。榎本武揚らと蝦夷地で戦いつづける藩主板倉勝静を、プロイセン人を使ってなかば騙し討ちで引き戻し、自首させたらしい。このドラマも読んでみたかった。方谷は小説の最初から老人として登場していたが、晩年も陽明学を教えつづけ、明治10年に72歳で亡くなっていた。

澤田瞳子『孤城春たり』(徳間書店)
初出は「山陽新聞」2024年2月3日から12月10日号で、刊行にあたり大幅に加筆修正とのこと

サザエさんの家と同様の、紙工作版。格子そのものは開かず、その内側に雨・風避けで、油障子があったのではないかと推測中。極小サイズなので、番所の出格子窓があまり「出」ていない

アイスクリームの棒と竹ひごで、多少大きめにつくった裏門。『孤城春たり』を読んで、アイスの棒の見張り番も加えてみた。棒のストックがなくなり、残りはアイスを食べてからつづける予定

2025年6月12日木曜日

十河家のピアノ

「二女が小学校の頃に、学校の代表でピアノを放送(まだテレビはなく)した事がありましたが、私などはミスをしたらと、ドキドキして聞いておりましたが、主人は、ラジオの前にすわって涙をボロボロと流しておりました」  

 これは祖父が死去した半年後に、『十年会々誌』という大学の同窓会誌に祖母が寄稿した追悼文に書かれていたものだった。祖父は子どものころに学校のピアノに自分の名前を彫るいたずらをして大目玉をくらった人で、それ以来、ピアノに悪感情を抱いていたのか、結婚相手の条件は、目と歯がよくて、ピアノを弾かない女性だったと以前、叔母から聞かされていた。そのため、母の遺品を整理するなかで、祖母が推敲を重ねた下書きとともにこの寄稿文を読んだときは、ほろりとするとともに、意外な思いがした。「二女」と書かれているのが母で、小学生のころから習っていたピアノで、音大を出たわけでもないのに、80過ぎまで生計を立てていたからだ。実際、ピアノを教えればいいと母に勧めたのも祖父であったはずなので、祖父のピアノ嫌いはいつしか解消していたのだろう。

「ノーマンさんのピアノ」と勘違いされていたピアノについては以前に書いたことがあるが、先日、長野の日赤の記録を見つけて以来、あれこれ気になって調べるうちに、びっくりする事実をいくつか発見したので、メモ代わりに書いておく。 

 生前に母が記憶違いを正して、国鉄総裁になった十河信二氏がピアノを疎開させていたことを突き止めてくれたとき、キク夫人が東京音楽学校、つまりいまの芸大出身であることは私も気づいたものの、それ以上は調べなかった。苗字が「とがわ」ではなく、「そごう」と読むことも今回初めて気づいたくらいだ。十河信二という人は、「新幹線の父」とも呼ばれた人らしいが、この名前を聞いてすぐに頭に浮かぶのは、「鉄ちゃんでも相当な人です」と言われるくらい、有名な人ではなかったはずだからだ。  

 ところが、数年前から十河氏の出身である新居浜市を中心にこの夫妻を朝ドラの主人公にする運動が繰り広げられているらしく、ネット上の情報が増えていた。音楽家としてのキクさんではなく、内助の功を強調するストーリーらしいが、そのキクさんのピアノで母たち姉妹は練習していたことになる。私たちが子どものころも、まだ屋代の祖父母宅にこの小型ピアノはあったが、長いこと調律されておらず、音が狂っていたことだけは私もよく覚えている。

 ウィキペディアによると、十河氏は1938年11月に華北の興中公司を離れ、1945年7月から翌年4月まで1年未満、西条市市長を務めたのち、鉄道弘済会会長となっているので、戦後は都内に在住していたと思われるが、肝心の戦争中どこにいたのかはわからなかった。はたして本当に十河家のピアノが長野に疎開されていたのか、疑問に思いながら調べているうちに、本郷にあった十河信二邸について書いているサイトがいくつか見つかった。「鉄ちゃん」云々はそこに書かれていた。昭和12年築の邸宅は、戦後は一時期、進駐軍に接収されていたそうで、ステンドグラス入りの玄関の間や、応接間のマントルピースなどの写真を見ると、かなりの豪邸だ。あの小型ピアノはそこにあったのか、と不思議な思いがした。この建物はあいにく取り壊されて現存しないようだが、そこにはもう一つ意外なことが書かれていた。  

 本郷のこの場所が、「内科学の権威青山胤通邸跡」だったというものだ。祖父の恩師が青山先生であったはずなので、やはり母宅から引き上げてきた本の題名を確認したら『青山徹蔵先生生誕百年記念会誌』となっていた。人違いだったかと思ったが、調べてみると青山胤通の娘婿が徹蔵であることがわかった。この本は母の死後、祖父について書かれている箇所だけは目を通したものの、青山先生の経歴の部分は飛ばしていた。改めて読んでみると、青山家の自宅は本郷弓町にあったという。本郷弓町!と思ったのは、幕末に上田藩が唐津藩の屋敷をもらう形で中屋敷をもっていたからだが、青山家のあとにここに住んだ十河家のピアノが、どういう経緯で祖父母の家に回ってきたのかは、直接の疎開先であったはずの大滝さんが誰だったのかわからず、結局のところは不明である。  

 母の記憶では、大滝さんはノルマン牧師館に戦争当時住んでいた人だった。飯綱高原に移築されて現存するこの牧師館は、1902年に建てられ、息子のハワードが著書『長野のノルマン』に「五十七年間宣教師団の所有であったが、今は売却されてしまった」と書いている。ノルマン牧師自身は1934年に引退して軽井沢に移っており、長野市県町12番地にあった牧師館には後任の宣教師たちが住んでいたそうだ。となると、1959年まではカナダ・メソジスト教会が所有していたことになり、大滝さんは教会関係者であった可能性が強い。ノルマン牧師や、その長女、長男の家族は政治情勢が悪化してきた1940年末にカナダへ引き上げているので、後任の宣教師たちも同様に一時帰国し、その留守を預かっていたのかもしれない。

 母は6年生で松代に引っ越したのちも電車で長野市内の先生のところまでレッスンに通っていたので、ラジオ放送が正確には何年の出来事なのかわからない。終戦時、十河氏は新居浜市長で、本郷の自宅は接収されていたといった事情を考えれば、わざわざ疎開させていたピアノを手放し、それを母の実家が譲り受けたのは、やはり戦後のことかもしれない。母は4年生で終戦を迎えている。となると、ラジオで放送された演奏は、習い始めてまもない時期の話になる。祖母がドキドキしたのも無理はない。祖父は1946年4月に同居していた実母を亡くし、その前月からは勤務先の日赤病院の労働争議に巻き込まれていたので、娘の拙いピアノ演奏を聴いて流した涙には、複雑な思いが込められていたに違いない。  

 私を感動させた祖母の追悼文には、母のピアノのエピソードにつづいて、「また四女が小さい頃なかなかピアノの練習をしないのを見て、自分と競争しようと言いだし、それまでピアノなどさわった事もないのにバイエルを練習しはじめました」とも書かれていた。仕事一筋の人と思っていたが、祖父は案外子煩悩だったようだ。 

 寄稿文はそのあと、祖父が脳梗塞で倒れたのちも不自由な体ながら、「歩くことが脳によいと信じていたようで」毎日2時間くらい歩いていたことが綴られていた。「尤も終わりの頃は、近くにおります二女が後からついて行っておりました。それがどうも気に入らないようで次第に行きたくないと申すようになりました」の件では苦笑せざるをえなかった。下書きには、その散歩の話しか書かれていなかったので、ピアノのエピソードは最終稿で付け足してくれたようだ。祖父は晩年、散歩の途中で転倒するなどしてなかなか帰宅せず、母が探し回るはめになっていた。忙しい母を見かねて、私も一度だけ散歩のお供を代わり、公園のベンチに座って祖父がアリの行列をステッキで突く様子を眺めたのを覚えている。私としてはそれなりに面白い経験だったが、祖父はそれ以降、散歩に出かけなくなった気がする。

『十年会々誌』と祖母の下書き原稿

2025年6月5日木曜日

長野の日赤病院

 2年前、母の遺品の写真を整理した際に、1948年3月に松代小学校の卒業式に撮影された集合写真を見つけた。まだ下駄履きの子もいる、戦後まもない時期の写真だ。母は長野師範付属小学校(現信州大学付属小)に通っていたが、その前年に父親が松代で開業したために6年生で転校し、1952年に屋代に再度引っ越すまでの5年間を松代で過ごした。  

 長野の日赤病院外科部長で副院長を務めていた祖父が、松代で開業することになった経緯は、母からそれなりに聞かされていた。副院長という立場ながら率先して労働組合をつくり、ゼネストに参加したために解雇され、誰かの伝手を頼って、松代の鈴本とかいう料亭跡を買い取って医院に改造した、というものだ。もっとも、母が好んで語ったのは、信州なのに雨戸のない家で、廊下に雪が積もり、そこで曽祖母が滑って転んで手の骨を折ったという気の毒な笑い話だった。朝起きると、吐息が凍って布団の端がバリバリになったと付け加えるのも忘れなかった。  

 ネット上の過去の情報はどんどん増えるので、先日、久々に国会図書館のデジタルコレクションで祖父の情報を検索したら、これまで十二指腸潰瘍の論文など、読んでもよくわからないものしか見つからなかったのに、『長野県地方労働委員会年報』という書籍が引っかかってきた。開いてみたらどんぴしゃり、祖父が日赤を辞めさせられた経緯が「長野日赤病院事件」として詳述されていた。  

 このページ自体には書かれていなかったが、祖父がクビになった背景には1947年2月21日に計画され、ダグラス・マッカーサーの指令によって中止になった「二・一ゼネスト」があった。長野の日赤でも1946年3月に病院の民生化を目的に組合が結成されているので、日本全国で労働争議が起こっていたのだろう。当時の院長がその結成を阻止しようとすると、組合側が院長の退職を要求して追いだしたのだそうだ。院長の後任には副院長だった祖父を推す声が多く、請願書が出されたが、日赤支部長の物部薫郎氏が反対して、別の人が院長として赴任してきた。それを受けて労組内部ももめて事態が紛糾し、物部氏が同年11月に紛争の責任者処罰を主張し、矢面に立たされた祖父が辞任を要求された。「馘首を取り消した後改めて辞表を提出」と体裁だけ繕われ、この事件は「昭和二十二年二月一日解決した」。ゼネストが予定された当日に「事件」は幕切りとなっていた。  

 祖父をクビにした日赤支部長は、内務・厚生官僚から県知事に任命された人でもあった。「事件」一か月後の3月に実施された知事選では、「官僚の物部か県民の林か」と訴えた林虎雄氏に敗北していた。もう少し時期がずれていれば、祖父は日赤に残れたのかとも思うが、物部氏はおそらく日赤支部長のポストには居座りつづけただろう。初の民選知事となった林氏は、長野で布教していたダニエル・ノーマン(ノルマン牧師)の教育を受けた人だったようだ。  

 その3月に祖母は6人目の子を出産したばかりで、育ち盛りの大勢の子どもを抱えた祖父母は途方に暮れたに違いない。戦争末期には40代前半で5人の子持ち、かつ日赤の外科部長として、松代大本営の工事現場から運ばれてくる負傷者の治療などにも当たっていた祖父も最後は一兵卒として召集され、甲府連隊に送られたと母からは聞いた。 

 伯母が晩年に朝日新聞の「女の気持ち」に投稿した文章によると、祖父は開戦の朝、子どもたちに「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と語ったらしい。そう書いた作文が地元紙に掲載されることになったために、先生からこの箇所を、「『日本は必ず勝つ』とお父さんはおっしゃいました。私はうれしくてたまりせん」と、書き直しさせられた。伯母はそのときのわだかまりを、70年間心の奥に閉じ込めていたという。 

 今回の検索では、長野県地方労働委員会のこの記録のほか、『日本窒素への証言』という冊子も引っかかってきた。直接見つかったのは、脳卒中で倒れて以来、右半身不自由となった祖父に代わっての祖母の投稿だったが、そこから祖父が一時期勤務していた朝鮮窒素肥料の病院が「興南病院」であることも判明した。水俣病訴訟のニュースを読むたびに、いつかこうしたことも調べなくてはと思う。

1948年3月松代小学校の卒業式

1941年11月 長野日赤時代