これは祖父が死去した半年後に、『十年会々誌』という大学の同窓会誌に祖母が寄稿した追悼文に書かれていたものだった。祖父は子どものころに学校のピアノに自分の名前を彫るいたずらをして大目玉をくらった人で、それ以来、ピアノに悪感情を抱いていたのか、結婚相手の条件は、目と歯がよくて、ピアノを弾かない女性だったと以前、叔母から聞かされていた。そのため、母の遺品を整理するなかで、祖母が推敲を重ねた下書きとともにこの寄稿文を読んだときは、ほろりとするとともに、意外な思いがした。「二女」と書かれているのが母で、小学生のころから習っていたピアノで、音大を出たわけでもないのに、80過ぎまで生計を立てていたからだ。実際、ピアノを教えればいいと母に勧めたのも祖父であったはずなので、祖父のピアノ嫌いはいつしか解消していたのだろう。
「ノーマンさんのピアノ」と勘違いされていたピアノについては以前に書いたことがあるが、先日、長野の日赤の記録を見つけて以来、あれこれ気になって調べるうちに、びっくりする事実をいくつか発見したので、メモ代わりに書いておく。
生前に母が記憶違いを正して、国鉄総裁になった十河信二氏がピアノを疎開させていたことを突き止めてくれたとき、キク夫人が東京音楽学校、つまりいまの芸大出身であることは私も気づいたものの、それ以上は調べなかった。苗字が「とがわ」ではなく、「そごう」と読むことも今回初めて気づいたくらいだ。十河信二という人は、「新幹線の父」とも呼ばれた人らしいが、この名前を聞いてすぐに頭に浮かぶのは、「鉄ちゃんでも相当な人です」と言われるくらい、有名な人ではなかったはずだからだ。
ところが、数年前から十河氏の出身である新居浜市を中心にこの夫妻を朝ドラの主人公にする運動が繰り広げられているらしく、ネット上の情報が増えていた。音楽家としてのキクさんではなく、内助の功を強調するストーリーらしいが、そのキクさんのピアノで母たち姉妹は練習していたことになる。私たちが子どものころも、まだ屋代の祖父母宅にこの小型ピアノはあったが、長いこと調律されておらず、音が狂っていたことだけは私もよく覚えている。
ウィキペディアによると、十河氏は1938年11月に華北の興中公司を離れ、1945年7月から翌年4月まで1年未満、西条市市長を務めたのち、鉄道弘済会会長となっているので、戦後は都内に在住していたと思われるが、肝心の戦争中どこにいたのかはわからなかった。はたして本当に十河家のピアノが長野に疎開されていたのか、疑問に思いながら調べているうちに、本郷にあった十河信二邸について書いているサイトがいくつか見つかった。「鉄ちゃん」云々はそこに書かれていた。昭和12年築の邸宅は、戦後は一時期、進駐軍に接収されていたそうで、ステンドグラス入りの玄関の間や、応接間のマントルピースなどの写真を見ると、かなりの豪邸だ。あの小型ピアノはそこにあったのか、と不思議な思いがした。この建物はあいにく取り壊されて現存しないようだが、そこにはもう一つ意外なことが書かれていた。
本郷のこの場所が、「内科学の権威青山胤通邸跡」だったというものだ。祖父の恩師が青山先生であったはずなので、やはり母宅から引き上げてきた本の題名を確認したら『青山徹蔵先生生誕百年記念会誌』となっていた。人違いだったかと思ったが、調べてみると青山胤通の娘婿が徹蔵であることがわかった。この本は母の死後、祖父について書かれている箇所だけは目を通したものの、青山先生の経歴の部分は飛ばしていた。改めて読んでみると、青山家の自宅は本郷弓町にあったという。本郷弓町!と思ったのは、幕末に上田藩が唐津藩の屋敷をもらう形で中屋敷をもっていたからだが、青山家のあとにここに住んだ十河家のピアノが、どういう経緯で祖父母の家に回ってきたのかは、直接の疎開先であったはずの大滝さんが誰だったのかわからず、結局のところは不明である。
母の記憶では、大滝さんはノルマン牧師館に戦争当時住んでいた人だった。飯綱高原に移築されて現存するこの牧師館は、1902年に建てられ、息子のハワードが著書『長野のノルマン』に「五十七年間宣教師団の所有であったが、今は売却されてしまった」と書いている。ノルマン牧師自身は1934年に引退して軽井沢に移っており、長野市県町12番地にあった牧師館には後任の宣教師たちが住んでいたそうだ。となると、1959年まではカナダ・メソジスト教会が所有していたことになり、大滝さんは教会関係者であった可能性が強い。ノルマン牧師や、その長女、長男の家族は政治情勢が悪化してきた1940年末にカナダへ引き上げているので、後任の宣教師たちも同様に一時帰国し、その留守を預かっていたのかもしれない。
母は6年生で松代に引っ越したのちも電車で長野市内の先生のところまでレッスンに通っていたので、ラジオ放送が正確には何年の出来事なのかわからない。終戦時、十河氏は新居浜市長で、本郷の自宅は接収されていたといった事情を考えれば、わざわざ疎開させていたピアノを手放し、それを母の実家が譲り受けたのは、やはり戦後のことかもしれない。母は4年生で終戦を迎えている。となると、ラジオで放送された演奏は、習い始めてまもない時期の話になる。祖母がドキドキしたのも無理はない。祖父は1946年4月に同居していた実母を亡くし、その前月からは勤務先の日赤病院の労働争議に巻き込まれていたので、娘の拙いピアノ演奏を聴いて流した涙には、複雑な思いが込められていたに違いない。
私を感動させた祖母の追悼文には、母のピアノのエピソードにつづいて、「また四女が小さい頃なかなかピアノの練習をしないのを見て、自分と競争しようと言いだし、それまでピアノなどさわった事もないのにバイエルを練習しはじめました」とも書かれていた。仕事一筋の人と思っていたが、祖父は案外子煩悩だったようだ。
寄稿文はそのあと、祖父が脳梗塞で倒れたのちも不自由な体ながら、「歩くことが脳によいと信じていたようで」毎日2時間くらい歩いていたことが綴られていた。「尤も終わりの頃は、近くにおります二女が後からついて行っておりました。それがどうも気に入らないようで次第に行きたくないと申すようになりました」の件では苦笑せざるをえなかった。下書きには、その散歩の話しか書かれていなかったので、ピアノのエピソードは最終稿で付け足してくれたようだ。祖父は晩年、散歩の途中で転倒するなどしてなかなか帰宅せず、母が探し回るはめになっていた。忙しい母を見かねて、私も一度だけ散歩のお供を代わり、公園のベンチに座って祖父がアリの行列をステッキで突く様子を眺めたのを覚えている。私としてはそれなりに面白い経験だったが、祖父はそれ以降、散歩に出かけなくなった気がする。
『十年会々誌』と祖母の下書き原稿