2025年6月12日木曜日

十河家のピアノ

「二女が小学校の頃に、学校の代表でピアノを放送(まだテレビはなく)した事がありましたが、私などはミスをしたらと、ドキドキして聞いておりましたが、主人は、ラジオの前にすわって涙をボロボロと流しておりました」  

 これは祖父が死去した半年後に、『十年会々誌』という大学の同窓会誌に祖母が寄稿した追悼文に書かれていたものだった。祖父は子どものころに学校のピアノに自分の名前を彫るいたずらをして大目玉をくらった人で、それ以来、ピアノに悪感情を抱いていたのか、結婚相手の条件は、目と歯がよくて、ピアノを弾かない女性だったと以前、叔母から聞かされていた。そのため、母の遺品を整理するなかで、祖母が推敲を重ねた下書きとともにこの寄稿文を読んだときは、ほろりとするとともに、意外な思いがした。「二女」と書かれているのが母で、小学生のころから習っていたピアノで、音大を出たわけでもないのに、80過ぎまで生計を立てていたからだ。実際、ピアノを教えればいいと母に勧めたのも祖父であったはずなので、祖父のピアノ嫌いはいつしか解消していたのだろう。

「ノーマンさんのピアノ」と勘違いされていたピアノについては以前に書いたことがあるが、先日、長野の日赤の記録を見つけて以来、あれこれ気になって調べるうちに、びっくりする事実をいくつか発見したので、メモ代わりに書いておく。 

 生前に母が記憶違いを正して、国鉄総裁になった十河信二氏がピアノを疎開させていたことを突き止めてくれたとき、キク夫人が東京音楽学校、つまりいまの芸大出身であることは私も気づいたものの、それ以上は調べなかった。苗字が「とがわ」ではなく、「そごう」と読むことも今回初めて気づいたくらいだ。十河信二という人は、「新幹線の父」とも呼ばれた人らしいが、この名前を聞いてすぐに頭に浮かぶのは、「鉄ちゃんでも相当な人です」と言われるくらい、有名な人ではなかったはずだからだ。  

 ところが、数年前から十河氏の出身である新居浜市を中心にこの夫妻を朝ドラの主人公にする運動が繰り広げられているらしく、ネット上の情報が増えていた。音楽家としてのキクさんではなく、内助の功を強調するストーリーらしいが、そのキクさんのピアノで母たち姉妹は練習していたことになる。私たちが子どものころも、まだ屋代の祖父母宅にこの小型ピアノはあったが、長いこと調律されておらず、音が狂っていたことだけは私もよく覚えている。

 ウィキペディアによると、十河氏は1938年11月に華北の興中公司を離れ、1945年7月から翌年4月まで1年未満、西条市市長を務めたのち、鉄道弘済会会長となっているので、戦後は都内に在住していたと思われるが、肝心の戦争中どこにいたのかはわからなかった。はたして本当に十河家のピアノが長野に疎開されていたのか、疑問に思いながら調べているうちに、本郷にあった十河信二邸について書いているサイトがいくつか見つかった。「鉄ちゃん」云々はそこに書かれていた。昭和12年築の邸宅は、戦後は一時期、進駐軍に接収されていたそうで、ステンドグラス入りの玄関の間や、応接間のマントルピースなどの写真を見ると、かなりの豪邸だ。あの小型ピアノはそこにあったのか、と不思議な思いがした。この建物はあいにく取り壊されて現存しないようだが、そこにはもう一つ意外なことが書かれていた。  

 本郷のこの場所が、「内科学の権威青山胤通邸跡」だったというものだ。祖父の恩師が青山先生であったはずなので、やはり母宅から引き上げてきた本の題名を確認したら『青山徹蔵先生生誕百年記念会誌』となっていた。人違いだったかと思ったが、調べてみると青山胤通の娘婿が徹蔵であることがわかった。この本は母の死後、祖父について書かれている箇所だけは目を通したものの、青山先生の経歴の部分は飛ばしていた。改めて読んでみると、青山家の自宅は本郷弓町にあったという。本郷弓町!と思ったのは、幕末に上田藩が唐津藩の屋敷をもらう形で中屋敷をもっていたからだが、青山家のあとにここに住んだ十河家のピアノが、どういう経緯で祖父母の家に回ってきたのかは、直接の疎開先であったはずの大滝さんが誰だったのかわからず、結局のところは不明である。  

 母の記憶では、大滝さんはノルマン牧師館に戦争当時住んでいた人だった。飯綱高原に移築されて現存するこの牧師館は、1902年に建てられ、息子のハワードが著書『長野のノルマン』に「五十七年間宣教師団の所有であったが、今は売却されてしまった」と書いている。ノルマン牧師自身は1934年に引退して軽井沢に移っており、長野市県町12番地にあった牧師館には後任の宣教師たちが住んでいたそうだ。となると、1959年まではカナダ・メソジスト教会が所有していたことになり、大滝さんは教会関係者であった可能性が強い。ノルマン牧師や、その長女、長男の家族は政治情勢が悪化してきた1940年末にカナダへ引き上げているので、後任の宣教師たちも同様に一時帰国し、その留守を預かっていたのかもしれない。

 母は6年生で松代に引っ越したのちも電車で長野市内の先生のところまでレッスンに通っていたので、ラジオ放送が正確には何年の出来事なのかわからない。終戦時、十河氏は新居浜市長で、本郷の自宅は接収されていたといった事情を考えれば、わざわざ疎開させていたピアノを手放し、それを母の実家が譲り受けたのは、やはり戦後のことかもしれない。母は4年生で終戦を迎えている。となると、ラジオで放送された演奏は、習い始めてまもない時期の話になる。祖母がドキドキしたのも無理はない。祖父は1946年4月に同居していた実母を亡くし、その前月からは勤務先の日赤病院の労働争議に巻き込まれていたので、娘の拙いピアノ演奏を聴いて流した涙には、複雑な思いが込められていたに違いない。  

 私を感動させた祖母の追悼文には、母のピアノのエピソードにつづいて、「また四女が小さい頃なかなかピアノの練習をしないのを見て、自分と競争しようと言いだし、それまでピアノなどさわった事もないのにバイエルを練習しはじめました」とも書かれていた。仕事一筋の人と思っていたが、祖父は案外子煩悩だったようだ。 

 寄稿文はそのあと、祖父が脳梗塞で倒れたのちも不自由な体ながら、「歩くことが脳によいと信じていたようで」毎日2時間くらい歩いていたことが綴られていた。「尤も終わりの頃は、近くにおります二女が後からついて行っておりました。それがどうも気に入らないようで次第に行きたくないと申すようになりました」の件では苦笑せざるをえなかった。下書きには、その散歩の話しか書かれていなかったので、ピアノのエピソードは最終稿で付け足してくれたようだ。祖父は晩年、散歩の途中で転倒するなどしてなかなか帰宅せず、母が探し回るはめになっていた。忙しい母を見かねて、私も一度だけ散歩のお供を代わり、公園のベンチに座って祖父がアリの行列をステッキで突く様子を眺めたのを覚えている。私としてはそれなりに面白い経験だったが、祖父はそれ以降、散歩に出かけなくなった気がする。

『十年会々誌』と祖母の下書き原稿

2025年6月5日木曜日

長野の日赤病院

 2年前、母の遺品の写真を整理した際に、1948年3月に松代小学校の卒業式に撮影された集合写真を見つけた。まだ下駄履きの子もいる、戦後まもない時期の写真だ。母は長野師範付属小学校(現信州大学付属小)に通っていたが、その前年に父親が松代で開業したために6年生で転校し、1952年に屋代に再度引っ越すまでの5年間を松代で過ごした。  

 長野の日赤病院外科部長で副院長を務めていた祖父が、松代で開業することになった経緯は、母からそれなりに聞かされていた。副院長という立場ながら率先して労働組合をつくり、ゼネストに参加したために解雇され、誰かの伝手を頼って、松代の鈴本とかいう料亭跡を買い取って医院に改造した、というものだ。もっとも、母が好んで語ったのは、信州なのに雨戸のない家で、廊下に雪が積もり、そこで曽祖母が滑って転んで手の骨を折ったという気の毒な笑い話だった。朝起きると、吐息が凍って布団の端がバリバリになったと付け加えるのも忘れなかった。  

 ネット上の過去の情報はどんどん増えるので、先日、久々に国会図書館のデジタルコレクションで祖父の情報を検索したら、これまで十二指腸潰瘍の論文など、読んでもよくわからないものしか見つからなかったのに、『長野県地方労働委員会年報』という書籍が引っかかってきた。開いてみたらどんぴしゃり、祖父が日赤を辞めさせられた経緯が「長野日赤病院事件」として詳述されていた。  

 このページ自体には書かれていなかったが、祖父がクビになった背景には1947年2月21日に計画され、ダグラス・マッカーサーの指令によって中止になった「二・一ゼネスト」があった。長野の日赤でも1946年3月に病院の民生化を目的に組合が結成されているので、日本全国で労働争議が起こっていたのだろう。当時の院長がその結成を阻止しようとすると、組合側が院長の退職を要求して追いだしたのだそうだ。院長の後任には副院長だった祖父を推す声が多く、請願書が出されたが、日赤支部長の物部薫郎氏が反対して、別の人が院長として赴任してきた。それを受けて労組内部ももめて事態が紛糾し、物部氏が同年11月に紛争の責任者処罰を主張し、矢面に立たされた祖父が辞任を要求された。「馘首を取り消した後改めて辞表を提出」と体裁だけ繕われ、この事件は「昭和二十二年二月一日解決した」。ゼネストが予定された当日に「事件」は幕切りとなっていた。  

 祖父をクビにした日赤支部長は、内務・厚生官僚から県知事に任命された人でもあった。「事件」一か月後の3月に実施された知事選では、「官僚の物部か県民の林か」と訴えた林虎雄氏に敗北していた。もう少し時期がずれていれば、祖父は日赤に残れたのかとも思うが、物部氏はおそらく日赤支部長のポストには居座りつづけただろう。初の民選知事となった林氏は、長野で布教していたダニエル・ノーマン(ノルマン牧師)の教育を受けた人だったようだ。  

 その3月に祖母は6人目の子を出産したばかりで、育ち盛りの大勢の子どもを抱えた祖父母は途方に暮れたに違いない。戦争末期には40代前半で5人の子持ち、かつ日赤の外科部長として、松代大本営の工事現場から運ばれてくる負傷者の治療などにも当たっていた祖父も最後は一兵卒として召集され、甲府連隊に送られたと母からは聞いた。 

 伯母が晩年に朝日新聞の「女の気持ち」に投稿した文章によると、祖父は開戦の朝、子どもたちに「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と語ったらしい。そう書いた作文が地元紙に掲載されることになったために、先生からこの箇所を、「『日本は必ず勝つ』とお父さんはおっしゃいました。私はうれしくてたまりせん」と、書き直しさせられた。伯母はそのときのわだかまりを、70年間心の奥に閉じ込めていたという。 

 今回の検索では、長野県地方労働委員会のこの記録のほか、『日本窒素への証言』という冊子も引っかかってきた。直接見つかったのは、脳卒中で倒れて以来、右半身不自由となった祖父に代わっての祖母の投稿だったが、そこから祖父が一時期勤務していた朝鮮窒素肥料の病院が「興南病院」であることも判明した。水俣病訴訟のニュースを読むたびに、いつかこうしたことも調べなくてはと思う。

1948年3月松代小学校の卒業式

1941年11月 長野日赤時代