この小説の題名は、GHQに接収された第一生命ビルの「表玄関に立つギリシア神殿風の巨大な御影石の柱」と、その聖域に新たに住まい給うことになった「ゼウス神にも比されるべきマッカーサー元帥の姿を一目見ようとして」いた当時の人びとや、その柱の奥で展開されたことを暗示していたことも、読み返してみていまさらながら気づいた。数年前に馬場先門前のタリーズで軽食をとった際に、窓の外に見えたアカンサス葉の彫刻が見事なコリント式列柱の並ぶビルが頭に浮かんだが、こちらはアメリカ極東空軍司令部や政治顧問部が入っていた明治生命館だった。第一生命ビルのほうは、著者も指摘するように角柱なので、さほどギリシャ神殿風ではない。明治生命館を保存する形での再開発プロジェクトでは、その背後に立つ超高層の明治安田生命ビルとのあいだに、「パサージュ」が設けられたようなので、また丸の内にでかけたときに確かめてみよう。
じつは、たまたまフェイスブックで9条地球憲章の会主催の公開研究会として、青山学院大学の中野昌宏教授が「カナダで考えた憲法と九条──H・ノーマン研究と在住邦人との交流から」という講演をZoomでなさることを知り、申し込んでみたのだ。それと同時に、ノーマンさんとどういう関連があったのか母からも聞きだしてみた。なにしろ、「ノーマンさんのピアノ」とよく聞かされていたからだ。
実際には、母に記憶を正してもらうと、ピアノはノーマンさんのものではなく、1955年に国鉄総裁になった十河信二氏が戦争中に長野に疎開させていたものだったようだ。母は当初、轢死した下山総裁と勘違いしていたが、ネットで調べて確認してくれた。その疎開先が、祖父母が親しくしていた大滝さんというお宅で、その家が長野市県町にあったハーバート・ノーマンの父、ダニエル・ノーマン牧師の牧師館だったというのだ。少しばかり調べてみると、牧師館の建物は1904年にノーマン牧師設計で建てられた2階建ての横板張りの洋館で、母の記憶どおり1971年に飯綱高原に移築され、現存するようだ。写真も見つけたので、同じ建物か確認してみると、これに間違いなく、県町の旭幼稚園の裏にあったそうだ。長野市文化財データベース、デジタル図鑑によると、「明治39年から昭和9年までここに居住していた」という。引退後は軽井沢に移り住み、昭和15年に帰国とあり、この年、旭幼稚園のカナダ人園長も戦争で帰国していた。日本で生まれ育った息子のハーバートは15歳ごろに大学に入るためにカナダに帰り、その後、1939年までケンブリッジやハーヴァードで学び、1940年に外交官として再来日にした。太平洋戦争が始まると軟禁状態に置かれ、1942年になって交換船でカナダに帰国し、戦後再び、日本語のよくできる知日派であるがために、マッカーサーからの直々の指名で一時期、GHQの対敵諜報部に勤務することになったという。
占領軍として再来日したハーバートが、信州を訪ねる場面が『オリンポスの柱の蔭に』に描かれている。この作品は小説なので、事実かどうか不明だが、こんな具合だ。「宣教師館の敷地内には、実のなる木がいっぱい植えられていた。林檎、柿、桃、杏、それに胡桃まで。果実は食生活を豊かにするだけでなく、いざというときに役に立つ。父のダンは果実の栽培やジャムの作り方を信州一円にひろめていたから、自ら率先して模範を示していたのだ」。宣教師として初めて来日したのは1887年という父ダニエルは、軽井沢の別荘地開発にも協力したという。「ぼくは、じつは長野県人なんです」と、小説のなかでハーバートは自己紹介する。
小説にはこんなことも書かれていた。「家の中にも、懐かしい場所がいっぱいあった。地下室から地下道を通って隣の宣教団の宿舎へ抜けられる、まるで忍者屋敷のような仕掛けもあった[……]。雨の日には、姉のグレースや兄のハワードと三階の屋根裏部屋へ上って遊んだものだ。屋根裏部屋の窓からは、犀川にそそぐ裾花川をへだてて、すぐ目と鼻の先の近くに旭山が見えた」。移築先では、建物内に入れないようだが、いつか訪ねてみたい。
Zoomの講演会は、もちろんこうした少年時代の話ではなく、GHQ時代に彼がどの程度、日本国憲法の起草に関与したのかという点や、丸山眞男、羽仁五郎、鈴木安蔵、都留重人などの人脈、そしてカイロで自死した背景などに焦点が絞られていた。ハーバートの思想について調べたこともないので、私には判断がつかないが、小説にでてくるフランコ崇拝者のワインダー少将のモデルがウィロビーであることや、ゾルゲ事件のことなどを考えると、時代に翻弄された人なのだろうと思う。そう言えば、数日前の新聞に、ゾルゲがロシアでは第二次世界大戦で祖国を救った英雄として評価されていて、多磨霊園にある彼の墓の管理が、今後、遺族から在日ロシア大使館に移るという記事がでていた。ハーバートが後進国の日本をなんとか西洋並みの国に発展させたいと努力するあたりには、どことなくアーネスト・サトウに通じるものを感じる。彼が書いた『日本における近代国家の成立』を読んでみたくなり、古本を注文してみた。
ところで、十河家から譲られたピアノのほうは、河合楽器が1927年に創立と同時に生産し始めた64鍵しかない昭和型という小型のアップライトで、350円だったことが同社のホームページから判明した。いつピアノをもらったのか、母の記憶は曖昧だったが、小学生時代を過ごした長野市内の家の応接間にもあったことを思いだしてくれたので、おそらく大滝さんに荷物を疎開させた折に、ピアノだけは直接、母の実家に運ばれたのだろう。国鉄の貨物を利用できた人ならではの特権だったかもしれない。当時はまだ楽譜も輸入品しかなく、バイエルの教本のドイツ語を祖父が訳してくれ、一緒に練習までしたのだという。松代に引っ越してからは、バスに乗って長野市の先生のところまでレッスンに通ったのだそうだ。このピアノは、私が小さいころ祖父母が住んでいた屋代の家の応接間にもまだあった。調律されていなかった記憶があり、姉に確かめてみたら、高いほうのラの音が鳴らなかったと思う、とえらく詳しく覚えていたので笑ってしまった。私はその部屋の壁際にこけしがずらりと並んでいたのが怖かったのは覚えていたのに、姉はこけしについてはさっぱり覚えていなかった。人の記憶はまちまちだ。
たまたまオンラインで講演会を聴く機会があったおかげで、こうした一連のことを調べるきっかけとなった。また、高齢の母が記憶を探り、メールで私の質問に一つひとつ答えてくれたのは、じつにありがたかった。おかげで、わが家とピアノの始まりが明らかになったのは大きい。なにしろ、母はピアノを教えて生計を立ててきたのであり、姉はいまに至るまでピアノ一筋の人生を送っているからだ。
タリーズから見かけた明治生命館
いまでは周囲の高層ビルに囲まれて目立たず、周囲を切り取らなければ、「オリンポスの柱」には見えない。
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