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2021年4月23日金曜日

桜田門外の変異聞その1

 昨年、『埋もれた歴史』を自費出版した際に、大幅に削らざるをえなかった原稿の一部を、うちの紙の山のなかに再び埋もれてしまう前に、時間を見つけてもう一度調べ直して少しずつブログに掲載しておこうと思う。手始めに、桜田門外の変から。入り組んだ事件であるため、使われた拳銃と井伊直弼の首級という2回に分けるので、お時間のあるときにお読みいただければ嬉しい。  

 祖先探しとは直接関係がないのに、この歴史的事件に関心をもった発端は、調査を始めてすぐに読んだ佐佐木杜地太郎の『開国の先覚者 中居屋十兵衛』(新人物往来社)で、非常に気になる記述を見つけたからだった。  

 桜田門外の変の2カ月ほど前の安政7(1860)年1月10日、神田見附の筋違御門にさしかかったところで、井伊直弼の駕籠めがけて弾丸が撃ち込まれた。たまたま刀の柄に当たって止まったため、大老は無傷だった。証拠の弾丸は幕府の蕃書調所で調べたが見慣れない代物であり、「内々で東禅寺の英国公使館に持って行って鑑定してもらった。それは西洋製最新式の短銃の弾丸で、おそらくアメリカ製の連発短銃より発射されたものであろうということであった」。この事件で水戸生まれの宇和島浪人、飯田一郎が逮捕され、隠れ家から外国製短銃1挺と100発ほどの弾丸が発見された。拷問の末、「中居──」と口走った飯田は舌を噛み切って自殺した。「藤田長鎮が鉄砲方与力であるから、短銃所持を咎められても申しわけは立つであろう、と細心の配慮をして」、中居屋重兵衛が「アメリカ商館のホールに多額の金を支払って購いもとめた五連発短銃二十挺を、長鎮の手を経て、水戸烈士たちに渡したのである」と、同書には書かれていた。

 桜田門外の変で使用された銃は、ペリー来航時に贈呈された拳銃を水戸藩で模造したものが使われたという説をよく聞く。神奈川県歴史博物館所蔵の「ペリー来航絵巻」には、老中首座の阿部正弘に贈られた「六響手銃」(37.3m)を模写した正確な絵図があり、コルトM1851という当時の最新鋭の6連発銃の2番目のモデルとじつによく似ている。このときペリーは老中5人全員に「六響炮」も贈っており、こちらは全長74.6cmの6連発の小銃だったと思われ、その分解図もこの絵巻には掲載されている。しかし、拳銃は1挺しかなかったようだ。阿部正弘がそれを水戸藩に提供した可能性はあるのだろうか。水戸で製造されたと言われる高度な旋条が施された銃の現物も残っているようだが、安政7年の水戸藩に、いや日本のどこにもそんな技術があったとは信じがたい。明治以降につくられたものと考えるべきではないだろうか。  

 桜田門外の変は、横浜が開港してから9カ月ものちに起きた事件だ。その2年前に条約勅許を得るために上洛した岩瀬忠震は「連発銃(連響六響銃)を所持していて、これを川路聖謨や堀田正睦に貸している」と、小野寺隆太の『岩瀬忠震』には書かれていた。事件のころには外国製の拳銃を手に入れる機会は充分にあったはずだ。 「桜田門外の変斬奸趣意書」には「天誅に替り候心得にて斬戮せしめ候」と書かれていた。もし、暗殺に外国製の拳銃が使われたのだとしたら、なんとも皮肉な話だ。被害者の大老は、少なくとも建前上は開国を成し遂げ、当の拳銃の輸入を可能にした人なのだから。  

 同時代に神奈川にいたフランシス・ホールの1860年3月25日(安政7年3月4日)、つまり事件の翌日の日記にも驚くほど克明に事件の詳細が綴られている。「ピストルから2発、ノリモン[乗物]に向けて銃弾が発せられたが、激しい抗争ののち、襲撃者は抑え込まれた。ハリス宛のヒュースケンの手紙では、リージェント[大老]側は10人が殺され、襲撃者の2人が捕らえられたが、即座にハラキリをしたと報告されている。[……]襲撃者は水戸の従者と判明している」。日本人通詞とオランダ語で話し、それを英語に通訳・翻訳していたヒュースケンが、事件直後に詳しい情報を集めてハリス弁理公使に報告していたことになる。出どころは、ヒュースケンと親しく、英語も話せた通詞の森山栄之助だろうか。神奈川にいたホールに、大老の死は翌々日の3月26日に確実な情報として伝わっていたが、国内では5月20(閏3月晦日)にようやく公表された。  

 佐佐木氏が言及したアメリカ商館のホールは、詳細な日記を残したフランシス・ホールではなく、ウォルシュ商会にいた医師のジョージ・ホールのことと思われる。神奈川宿から横浜に移住した最初の外国商人と言われる重要人物で、同姓のフランシスの日記にもたびたび登場する。彼については拙著でもかなり触れたので、興味のある方はぜひお読みいただきたい。  

 プラント・ハンターとして知られるロバート・フォーチュンは『幕末日本探訪記』に『エディンバラ・レヴュー』紙の記事をもとに桜田門外の変について詳しく書いている。しかし、同書で述べているように、フォーチュン自身は事件後に来日した。本国に詳細にわたる報告をしたのは、事件当時、品川の東禅寺にいたイギリス公使のオールコック自身と思われる。 

 井伊直弼が襲われたという知らせを聞いて、オールコックはすぐに外科医として援助を申しでたが、幕府からは援助にはおよばないと丁重に断られ、容体は「悪化していない」と言われつづけた。彼の著書『大君の都』(1863年刊)には、大老の行列の近くに「油紙の外套[桐油合羽]に身を包んでばらばらに歩く若干の集団だけがいた」ことや、護衛側も雨具を着て不意を突かれたために反撃できなかったこと、負傷して逃げ切れないと覚悟を決めた浪士がその場で切腹し、仲間がそれを介錯したこと、実際には「2つの首がもち去られており、逃亡者が手にしていたのは、追っ手を誘き寄せるためだけのもので、本物の戦利品は別の人物の手でひそかに運ばれた」ことなどが詳しく綴られている。なお、オールコックなどイギリス側の報告には拳銃が使用された旨は見当たらない。  

 次回は、オールコックが言及していた「2つの首」に関して書くことにする。

F, G, Notehelfer 編・校註、Japan Through American Eyes: The Journal of Francis Hall, Kanagawa and Yokohama, 1859-1866, Princeton University Press, 1992


ペリー来航絵巻の図は、ネット上に公開されている嶋村元宏「ペリー来航絵巻について(二)」『神奈川県立博物館研究報告─人文科学─』第 32号、p. 53のスクリーンショット。この論文には「六響炮」と思われる小銃の分解図も載っている。コルトM1851はウィキペディアより。ペリー来航時に贈呈されたもののリストは、『大日本古文書幕末外国関係文書の5』を参照

2021年4月26日月曜日

桜田門外の変異聞その2

 前回に引きつづき、桜田門外の変の謎について書いておく。

 じつは井伊大老の首級は、実行犯の1人である広木松之介の手でひそかに水戸へ運ばれ、徳川斉昭に見せられていた可能性が高い。茨城県郷土文化研究会の『郷土文化』第45号(2004年)に掲載された水戸史学会副会長の久野勝弥氏の「井伊大老首級始末異聞」という論文は、水戸藩の関係者遺族たちが伝える話と、事件に関連して過去に刊行されてきた重要な史料をつぶさに検証する。この論文を読むために、4年ほど前につくば市立中央図書館まででかけて行ったのだが、それをじっくり読む暇もなく今日に至っていた。  

 この論文は手に入りにくいため、概略だけここに書いておくが、かなり説得力のある論旨なので、これを読まずに桜田門外の変を語るなと言いたくなるほどだ。結論から言うと、桜田門外の変の実行犯として薩摩藩からただ1人加わった有村次左衛門が、「井伊掃部頭」と声高に呼ばわり、人目につく方法で日比谷御門のほうへ走ったのは、井伊直弼の首級を無事に水戸へ運ぶための芝居、つまり囮作戦で、これは別人の首だったと久野氏は、オールコックと同じ主張をする。  

 久野氏がとくに重視するのは、『安政雑記』に収録された「或人松平大隈守外桜田屋敷留守居役奥沢何某か咄を直接聞致其侭写」と題された4カ条の聞き書からなる記録と、この暗殺事件に関する裁判記録だ。松平大隈守は杵築(きつき)藩主で、この事件は桜田門のすぐ前にあった同藩邸前で起きた。彦根藩の屋敷はその西隣りにあった。

『安政雑記』は沼田藩の藤川整斎(1791-1862年)の自筆稿本と推定され、明治9年に関係者から太政官修史局に寄贈されたものを、1983年になって汲古書院から、目次だけつけて、翻刻はせずに筆文字の写真版として刊行された。その第12冊から14冊は桜田門外の変に関する記録というが、私には読めないため、久野氏の論文に頼るしかない。留守居役から聞いた話の第1条は、明治21年に島田三郎が書いた『開国始末』に引用された杵築藩の留守居役「輿(奥)津何某」の話と当然ながら似ているが、こちらのほうがずっと古く、異なる点もかなりある。  

 留守居役の話の第4条には、「右之内供頭の首を持ち、龍之口の方へ駈走り、『掃部頭殿御首』と高声に呼び申し候に付、御家来多勢追駈け、龍之口にて其首取り申し候。又御近習のもの首打ち取り、是も外方へ駈走申し候。此方へも多勢追いかけ申し候。其内に誠の御首は窃に取隠し、何方へ持参致し候哉」と書かれている。「これを見る限り、井伊方の首級は三つ持ち去られている」と久野氏は考える。すなわち、もち去られたものの龍之口で取り返された供頭の首と、取り戻したとは書かれていない御近習の首と、井伊直弼の首である「誠の首」である。  

 しかし、その他の情報と突き合わせると、「三つの首級」説には首を傾げざるをえない。久野氏は「供頭の首となれば加田九郎太の首であることは間違いあるまい」としているが、供頭は加田ではなく、日下部三郎右衛門だった。日下部もこの事件で殺されたが、即死ではなく、藩邸に運び込まれてから死亡しているので、彼の首がもち去られた可能性はない。事件の目撃者は、杵築藩邸の二階から見ていたので、見誤ったのだろう。即死者は4名いて、供目付の沢村軍六と河西忠左衛門、永田太郎兵衞と加田だった。深手を負い当日死亡したのが小河原秀之丞、越石源次郎、日下部三郎右衛門、岩崎徳兵衞(または徳之進)である。  

 負傷した有村が和田倉門の辰の口にあった三上藩の遠藤胤統邸(現、パレスホテル東京)までたどり付き、その前で自刃したあと、横にあった首級は三上藩邸に収容され、のちに彦根藩が何度も返却を求めた際に、加田九郎太の頭と称して貰い受け、それを藩医が縫接した云々と『開国始末』に書かれていることから、加田は架空の人物だとする記述もネット上には散見される。だが、明治初期に作成されたという「桜田事変絵巻」の上巻詞書にも、明治19年建立の世田谷豪徳寺の桜田殉難派八士の碑にも、彼の名前は見られるので、実在した人物だ。加田は槍持ちだったと言われ、ならば行列の先頭のほうにいて、供頭と見間違えられたのかもしれない。  

 裁判記録からは、氏名不詳の被告人が、これは深慮のうえの計画で、「現にそれさえも追手等用心の為め替首をも設置」と供述しており、「誠の首」と「替玉の首」の2つが水戸に運ばれたと久野氏は推測する。首級が水戸に運ばれたとする説には、岡部三十郎が道三橋の下にある芥船に隠れて待っていて、関鉄之助が運んできた首級を受け取って、逃げてきた増子、海後の2人とともに隅田川を遡って千住大橋まで運び、そこから陸路で水戸へ行ったという説もあり、久野氏はどちらが「誠の首」を運んだかは不明とする。  

 しかし、「替玉の首」が実際、「御近習のもの首打ち取り」と書かれた即死者の誰かのものだったとした場合、水戸の遺族などに伝わる話に岡部らが運んだはずの首の後日談がないのは気になる。「供頭」の首は、有村が自刃した龍之口で「取りもどし候」とある。事件発生時に取り戻したのではなく、事件後、何度も三上藩邸を訪ねた挙句に取り返したという意味であれば、それが加田の首であったとも考えられ、それが本人の遺体に藩医の手で縫接されたのであれば、より筋は通る。前述したように、事件当時の情報を聞いたオールコックは、「2つの首」がなかったと書いているのだ。  

 衝撃的な事件が目の前で展開するのを目撃しても、40人以上もの人びとが乱闘した一部始終を正確に見てとるのは難しいだろうし、まして「誠の首」が密かに運ばれたことなど気づくだろうか。「留守居役奥沢何某か咄を直聞致其侭写」すと言っても、録音機のなかった時代、この雑記の筆者が話を聞いて書くあいだにも情報は不正確になっただろうし、奥沢某の憶測も含まれているはずだ。  

 留守居役の話の第1条は、「大兵の男壱人、中背の男壱人、切って懸り、短筒をどんと放すや、否(や)、刀を籠の中に指入れ、主人を引出して、二三太刀たたみかけてうち候。其音、鞠をける様成る音致し、手早く首打落とし剣に貫き、大音に『井伊掃部頭』と迄は聞こえけれども」と描く。一般には、関鉄之介が襲撃の合図に鉄砲を撃ったと言われるが、実際には銃弾は黒沢忠三郎によって駕籠のなかの大老に向けて打たれたと、前述の中居屋の伝記では推測されていた。しかも、「近年になって、井伊家文書史料を克明に研究せられた吉田常吉博士が、その著『井伊直弼』伝中に、──井伊家藩医、岡島玄達が、主君直弼の遺骸を検診した時、『太股から腰に抜ける貫通銃創があった』と、報告書に記している──と、発表」されているという。ちなみに、この本(『開国の先覚者 中居屋十兵衛』)では、中居屋が購入したのは「五連発短銃二十挺」となっており、明治になって林鶴梁が旧福井藩士の村田氏寿に語ったこととする。  

 拳銃で撃たれ、駕籠の外から突かれ、すでに事切れていたか、地面に瀕死の状態で崩れ落ちた大老の首は脇差しで「二三太刀たたみかけて」斬る必要があったのかもしれないが、これは複数の首が斬られた音だったとも考えうる。「御近習のもの首打ち取り、是も外方へ駈走申し候」という、有村次左衛門につづいて首を運んだ人こそ、実際には「誠の首」をもっていたという可能性もあるのではないか。  

 久野氏の論文には、甘酒屋に化けた水戸の侍が江戸を脱出し、利根川の大森河岸から水戸まで船で運んだとする船頭の子孫の話も引用されている。水戸まで船で運んだのだとすれば、大森河岸は千葉県の木下街道近くの六軒町のことと思われる。そこからは利根川、霞ヶ浦などを経由すれば水戸付近まで行けそうだ。となると、隅田川をそのまま遡ったのではなく、小名木川を通っただろう。実際には3つ目の首は存在せず、「誠の首」だけが岡部や広木らによって水戸まで運ばれたのではないだろうか。  

 広木については、1968年の明治維新百年を記念して水戸市美川町の妙雲寺境内に建てられた「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」に書かれた「供養塔由来」に、その大半がまとめられている。同論文から一部を引用させてもらうと、こんな内容だ。 「烈士の申し合わせにより 大老の御首級を携えて水戸に持ち帰り これを烈公[徳川斉昭]の御覧に入れる事が松之介の役目でありました 自宅に戻った松之介は御首級の危険を察し 姉花がその役に代りました 烈公様は御一見の後 これは浪士のなしたること 御首級は其の方へ預けおく 懇に御供養申し上ぐべしとの仰せ 松之介には墨染の衣を用意して 今死んではならん 命存えよとの仰せでありました」。このあと、事件後潜伏をつづけた広木松之助が、同志が相次いで処刑されるのを聞いて、文久2年の3月3日、事件からちょうど2年目に鎌倉の日蓮宗上行寺で自刃した旨がつづく。  

 台霊塔が建てられた妙雲寺には広木家の墓があり、1965年ごろに広木家とは関係のない骨壺が見つかった。三木敬次郎という檀家の1人が、井伊大老の首級に間違いないと考え、井伊家に返還を試みたが丁重に断られたという。論文に引用されていた遺族の談話によると、斉昭による首級の検分後、首台に納められ、三の丸の土堤の榎の大木の根元に埋められていたものが、大正2年に公会堂を建てるために土堤を崩した際に出土した。論文の文脈から、それを広木家の墓に埋葬し直したと読めそうだ。  

 その後、首級は台霊塔で供養されたわけではなく、その建立を請け負った高橋石材商店の人びとと三木敬次郎氏が、夜間にこっそりと豪徳寺の「井伊直弼の墓の前の合わせ石の下に埋葬した」のだという。この三木氏は、水戸家の3代藩主光圀の生母を助け、胎児が水子として葬られるのを救った仁兵衛之次の子孫なのだそうだ。戦後、大阪の四天王寺でこの事件の首謀者の1人である高橋多一郎の供養に訪れた折に、三木氏は偶然、松下幸之助に出会い、すっかり意気投合して出資を申しでた。それが現在のパナソニックが誕生した経緯であり、その後、この2人のあいだで水戸黄門のドラマ化の話がもちあがり、松下電器がずっとスポンサーとなったのだという驚くべき話も、久野氏は『これが水戸黄門だ!』(日之出出版、2003年)という雑誌に、高橋石材の高橋三郎聞き書きとして書いている。この石材店の高橋氏と多一郎との関係は言明されていない。  

 ところが、2009年に世田谷区教育文化財係が豪徳寺の井伊直弼の墓の傾きを直すために改修した際に、地表から1.5メートルの範囲には石室がないことを確認しており、その後、東京工業大学によるレーダー調査でも、地下3メートル以内に石室は見つからなかったと、2012年6月8日付の滋賀彦根新聞が報じている。記事では、豪徳寺のほかの場所に埋葬されている可能性が示唆されていたが、遺骨がなければ、首級の有無も確かめようがない。  

 井伊直弼の首級を取って走ったとされる有村次左衛門という21歳の若者は、生麦事件でリチャードソンにとどめを刺した海江田信義の2番目の弟である。連絡役となって事件を藩に報告したすぐ下の弟の有村雄助は、藩命によって両親と兄弟の前で自刃させられた。介錯したのは、奈良原繁、つまりリチャードソンを最初に斬りつけた喜左衛門の弟の喜八郎だった。桜田門外の変にかかわった犯人たちは、高橋多一郎や有村兄弟をはじめ大半が、明治35(1902)年までにばらばらと贈位されて靖国神社に合祀されている。鎌倉の上行事にある広木の顕彰碑も、贈位を受けて大正5年に建立された。その背景には、祖先の名誉を回復したい遺族や地元関係者の思惑があったかもしれない。それが、事件現場から逃げた数名が首級を水戸へ運ぶ任務を負ったという伝説を生んだ可能性も検証すべきだろう。この事件について書く人は、襲撃の様子ばかりを詳細に語るが、いま一度、事件全容の解明にもう少し努めるべきはないだろうか。

豪徳寺にある井伊直弼の墓(2018年11月撮影)。後方左手に見えるのが、正室の昌子(松平忠固姪)の墓で、私は彼女の墓詣でに行ったため、桜田殉難八士の碑は見損なってしまった。よって、ネット上の他の墓マイラーの方々の画像より、情報は確認した。近年、豪徳寺は招き猫の寺として有名になっている

鎌倉日上行寺にある広木松之介の顕彰碑。碑には「墓」と刻まれている(2017年10月撮影)

2025年6月29日日曜日

『孤城春たり』を読んで

 新聞の書評で面白そうだと思い、長らくリクエスト待ちしていた澤田瞳子の歴史小説『孤城春たり』を読み終えた。幕末の老中板倉勝静は生麦事件の後始末などでよく名前が登場する人なので、それなりに知っていたし、山田方谷も少なくとも名前だけは記憶にあった。だが、松山藩については、立派な城があることで有名な伊予松山藩だと思い込んでおり、読み始めてしばらくして「山間の小藩だけに、海がない」という記述に頭をひねり、そのうちに「あれっ、備中ということは岡山県??」と気づくという間抜けぶりでわれながら情けない。伊予のほうは親藩で、備中松山藩は当然ながら譜代藩だった。幕末の藩主の板倉勝静は桑名藩主の8男、松山藩に養子入りした人で、松平定信の孫に当たるとのこと。備中松山のほうの城は、「天空の山城」としてネット上でちらりと見たことのある城だった。 

 まったく知識のない方面の話で、登場人物もそれなりに多く、最初のうちは戸惑ったが、非常にわかりやすく、テンポよく書かれた小説なので、するすると読み進められた。歴史小説はよほどのことがないと読まないほうなので、澤田瞳子の著作も今作が初めてだったが、母親の澤田ふじ子がやはり歴史小説家だそうで、かなりの書き手であることは間違いない。何と言っても、明治維新でいちばん割を食った譜代の、それも小藩から見た幕末史など、これまでほとんど書かれていないし、いろいろな意味で私の祖先がいた上田藩の状況とも重なるものがあって参考になった。京都出身の著者が幕末の譜代藩について書いたということも、画期的ではなかろうか。京都は公家のほかは、職人、町人の町だったし、幕末には尊皇攘夷の中心地となった土地柄だからだ。  

 本書の中心となる人物は、備中松山藩の精神的指導者のような儒者、山田方谷である。当時の松山藩は5万石とはいえ、実際の石高が2万石に満たず、借金だけは大大名並みに10万両もあり、「貧乏板倉」と揶揄されていたらしい。その藩政を立て直したのが方谷で、無駄の多い大坂の蔵屋敷を廃止し、大名貸しを行なう豪商である銀主に藩の財政事情を包み隠さずに伝え、頭を下げて返済を数年待ってくれるように頼んで回ったという。本書では大坂屈指の両替商である加島屋久右衛門の名前が上がっていた。少し前にこの加島屋の親戚である銀商から、上田藩が借金をしていた記録を見ていたし、重い腰を上げて読み始めているE・H・ノーマンの『日本における近代国家の成立』にも、こうした問題に関する鋭い指摘があったので、興味深く読んだ。  

 山田方谷は藩の財政を建て直しただけではない。「義を明らかにして、利を計らず」と、正論を唱えつづけたそうだ。勝手不如意になると、利に聡い侍ばかりが増え、結果、世は衰微すると主張していたという。国のトップがことあるごとにディールだと言って憚らず、選挙民でなく資金源でもない人間など眼中になく、人の尊厳も幼い命もお構いなしで、損得がすべての判断基準のように振る舞ういまの世の中には、方谷のような人物は絶滅危惧種、いやすでに絶滅種なのかもしれない。道徳的、倫理的な説教が苦手な私ですら、「義はどこへ行ったのか」と言いたくなる昨今、本書を読むと、胸のつかえが下りるような感がある。 

 方谷は郷土の英雄として多少美化されてきたところもありそうだが、本書は方谷自身には多くを語らせず、教えを受けた藩士などの口から師の理念を代弁させて、いくらか客観性をもたせているので、さほど不自然なく受け入れられる。舞台を備中松山、江戸、京都、大坂と移動しながら、嘉永年間から戊辰戦争まで比較的長い年代を扱うので、時代ごとにそれぞれの登場人物の視点から物語を進め、大勢の口から方谷を語らせる手法が効いている。もっとも、それらの人物が語り手であるわけではなく、人数も枝葉も多く、一読したくらいでは、すべてのエピソードが頭のなかでしっくり収まらない。この書評を書くに当たって検索してみたら、山田方谷だけでなく、熊田恰のような印象的な藩士に関する情報もネット上にかなりあったので、全国的な知名度は低くとも、小説を書けるだけの十分な材料はそれなりに揃っていたのかもしれない。 

 いくつか印象に残ったことや気になった点を挙げておく。山田方谷が唯一の女の弟子、福西繁に陽明学について語る場面がある。「誰かを自らの思いのままに為さんとはすなわち、世を従わせ、己を傲岸に振る舞わせる行いです[……]それは同時に、人間とは究極的には、自らの声にのみ耳を傾けるべき存在であることを意味します」と語る方谷が、それが陽明学なのだと言う場面だ。ならば朱子学ではなく、陽明学を学ばせてくれとすがる繁に、方谷は「陽明学は優れた点も多いですが、これのみを学ぶと偏りが生じます」と答え、朱子学を理解してから学ぶようにと諭す。ちなみに、福西志計子は岡山の女子教育に大きく貢献した実在の人物で、ウィキペディアによれば、彼女が創設した順正女学校がのちに順正短期大学となったようだが、その創始者は加計学園グループ創始者だった! 

 方谷の名前を最初に知ったのは、記憶どおり、松本健一の『評伝 佐久間象山』からだった。象山と方谷は斎藤一斎の門下で学んでいる。一斎が陽明学に傾倒していることに納得できなかった象山が師に向かって「文章詩賦は学ぶけれども、経学の教授は受けない」と宣言したエピソードはよく知られている。象山は陽明学者であった大塩平八郎にも批判的で、陽明学の思想は治政を乱すと考えていた。象山はいち早く西洋の技術を取り込んだ人だったが、つねに為政者の立場に立つ元祖ナショナリストであり、保守本流的なところがある。ちなみに、ノーマンは大塩平八郎に関する注に陽明学は個人主義的、民主的思想だと書いていた。 象山より6歳年上だった方谷は、象山の覇気に辟易していたらしい。一応、象山の門人だった河井継之助に「佐久間に、温良恭謙(倹)の一字、何れ阿(有)ると」と漏らしたという『孤城春たり』に書かれたエピソードを、松本も引用していた。これは河井の全国遊歴の日記『塵壺』に書かれているようだ。河井もこの小説に少しばかり登場する。長岡にいた親戚が、長岡市街を火の海にしたので、地元では河井は人気がないと言っていたことなどを思いだす。象山とは意見が対立することの多かった方谷だが、京都・木屋町で象山が殺されたときは、丸二日間ものあいだ自室に籠り、家の者たちを心配させたと澤田は書いている。 

 この小説には、藩主が板倉家の分家だった安中藩の新島七五三太(新島襄)も登場し、藩の許し得ぬままおそらく万延元年に蘭方医杉田玄端のもとに勝手に入門し叱責を受けたと書かれていた。杉田玄端のもとに、嘉永6年か7年に私の祖先が蘭書の訳本を購入しに行った記録があるので、同じ譜代藩でも上田藩は早期から蘭学を奨励していたことなどがよくわかった。 

 同じころ江川太郎左衛門英敏の塾に入門した松山藩士2人の話が一つの章となっている。松本健一の評伝から、英敏の父である英龍によい印象のなかった私には、『孤城春たり』を読んで江川家の苦労がわかり、見直すものがあった。新島襄はのちに、松山藩が購入した洋式帆船に乗せてもらって箱館まで行き、そこから密航していた。この章は、英敏の後ろ盾となってきた初代外国奉行の一人、堀利煕の自害についても少々触れており、老中首座の安藤信正に叱責された程度で切腹するはずがないという台詞を、英敏に吐かせている。堀利煕はいとこの岩瀬忠震に比べて地味な人だが、はるかに芯の通った人物に思われ、彼の自害の理由について少しばかり調べたことがあった。

 同じ章に桜田門外の変に関する記述もあり、事件現場の地図を再び探しだしてみたら、松山藩邸は現場となった杵築藩邸前より、一本東の通りを入った先にあった。著者はこれまでおもに平安時代の作品を書いてきたらしく、桜田門外の変については全体的に、近年、判明してきた諸々の事実は考慮されない展開となっていた。とはいえ、個人的には小説ならではの、面白い箇所もあった。事件に出くわして慌てふためいた松山藩士の塩田虎尾が「長屋門の脇の番所へと駆け込んだ。[……]往来に面した出格子窓に顔を押し付ければ、様子見を決め込んだのは近隣の屋敷も同じらしい」という件で、向いに立つ長州藩上屋敷も表門を閉ざしていると描写されていた。ちょうど、上田藩の藩邸門の素人工作模型をつくったばかりで、番所の格子窓はどうなっているのかと繁々と眺めたあとだったので、なるほど、門を開けずにここから覗くわけだな、などとわかり、楽しくなった。ただし、古地図を見る限りでは、事件当時の松山藩邸は表通りに面していないので、梁受けで突きだした出格子窓からどれだけ覗いても、現場は見えなかっただろう。 

 鳥羽伏見後に佐幕派の藩が受けた扱いはさまざまだったと思われる。藩主の板倉勝静が老中首座を務め、徳川慶喜が大坂を脱出した際にも同行したとあっては、新政府軍として備中松山藩は見逃せない相手だったようだ。隣の岡山藩は外様の大藩で、幕末の9代藩主、池田茂政は水戸の徳川斉昭の子であり、「実父の影響から藩論を尊皇攘夷に傾け、長州とも誼を通じた男である」と、小説には書かれていた。こういうことを知るとますます、幕府を崩壊させた重大要因の一つは斉昭だと思わざるをえない。もっとも、兄である慶喜の東帰後はさすがに茂政は隠居したようで、ウィキペディアによれば、支藩から池田家の藩主を迎えるに当たって岡山藩は「倒幕の旗幟を鮮明にした」そうだ。この時期の松山藩の苦難は、やはり藩主が幕末に大老や老中を務めた姫路藩がくぐり抜けた事情と似ている。姫路城や松山城が日本を代表する城として現存するのは、当事者や関係者が衝突回避に尽力した結果の、奇跡のようなものだ。 

 岡山藩の矛先は備中松山藩に向けられ、京都・大坂に出向いていた松山藩士150名が、藩主の命令で帰国すると、国元ではすでに徹底抗戦を唱える主戦派を穏健派が抑えて城を明け渡すことが決まり、城下から立ち去る準備が進んでいた。折悪しくそこへ戻ってきた150名の恭順の意を示すために、その部隊を率いた熊田恰という藩士が切腹して首を差し出すことになった。上田藩は、若年の藩主が家臣の説得等もあって慶応4年3月という、それなり早い時期に上京して恭順したため、江戸屋敷こそ立ち退きさせられたが、こうした苛烈な扱いを受けることはなかった。 

 小説自体は、読者を泣かせるこのクライマックスで終わるが、ウィキペディアによれば、方谷は維新後の松山藩の再興にかなり尽力したようだ。榎本武揚らと蝦夷地で戦いつづける藩主板倉勝静を、プロイセン人を使ってなかば騙し討ちで引き戻し、自首させたらしい。このドラマも読んでみたかった。方谷は小説の最初から老人として登場していたが、晩年も陽明学を教えつづけ、明治10年に72歳で亡くなっていた。

澤田瞳子『孤城春たり』(徳間書店)
初出は「山陽新聞」2024年2月3日から12月10日号で、刊行にあたり大幅に加筆修正とのこと

サザエさんの家と同様の、紙工作版。格子そのものは開かず、その内側に雨・風避けで、油障子があったのではないかと推測中。極小サイズなので、番所の出格子窓があまり「出」ていない

アイスクリームの棒と竹ひごで、多少大きめにつくった裏門。『孤城春たり』を読んで、アイスの棒の見張り番も加えてみた。棒のストックがなくなり、残りはアイスを食べてからつづける予定

2017年5月31日水曜日

ロバート・フォーチュン

 春には目処がつくはずだった仕事が、読みが甘くていまだに終わらない。巻末の原註ときたら小さな活字に騙されていたが、ゆうに本文の2章分ほどもの量があって、ひたすらパソコンに向かう毎日がつづいている。そんな私の気晴らしとなってくれたのは、今年初めて花が咲いた庭のユキノシタだ。  

 ユキノシタは葉が食用にも漢方薬にもなり、花は可憐だが、さほど珍しくもなく、いくらでも自生する植物なので、わざわざ鉢植えにして眺めている人は少ないだろう。うちでも十数年間、繁茂したセンリョウの下に放置して冷遇していたのだが、数株を鉢に植え替え、少しばかり日当たりのよい場所に置いてやったところ、やたらに大きな葉を付けるようになった。私がそんな特別待遇をする気になったのは、ひとえにロバート・フォーチュンの本を読んだからだ。  

 幕末に来日した植物学者のロバート・フォーチュンは、1848年に東インド会社のためにチャノキを中国からインドへ輸送したことで知られる。もっとも、それに先立つ1835年にG.J.ゴードンが8万本の茶の苗木を送ったことが、イギリスの紅茶産業の始まりだったと、リジー・コリンガムが『インドカレー伝』のなかで書いているので、フォーチュンが紅茶の生みの親ではなさそうだ。  

 それでも、『幕末日本探訪記:江戸と北京』(三宅馨訳、講談社学術文庫)と題された彼の旅行記には、桜田門外の変の数カ月後に来日し、江戸にも二度滞在して王子や染井村を訪ねて回ったことなどが綴られ、当時の日本を知るうえで貴重な記録となっている。神奈川での彼の滞在先は、「古い友人で、中国のデント商会の支配人であり、ポルトガルとフランスの領事を兼任するジョゼ・ロウレイラ〔ママ〕がそこに住んでおり、私の滞在中、彼の寺の部屋を親切にも使わせてくれた」とだけ書かれている。ロウレイロはフランス領事館の置かれた慶運寺にいたと、どこかで読んだ記憶があるのだが例のごとく思いだせない。  

 フォーチュンは、ヘボン博士などに勧められて三ツ沢の豊顕寺も訪ね、ここでコウヤマキを見ている。かつてはたくさんの修行僧がいたというこの寺の広大な敷地は、現在は大半が豊顕寺市民の森として一般に開放されている。ネットで公開されている原書を最初に読んだので、Bokengeeと書かれたこの寺がどこなのかしばらく見当がつかなかった。コウヤマキは五重塔などの建材として重宝された樹のようで、関東では珍しかったのだと思われる。フォーチュンが見に行ったこの大木は1945年5月29日の横浜大空襲で焼失し、切り株だけになってしまったらしいことを後日知った。探しても見つからなかったわけだ。  

 フォーチュンの訪日目的の1つは、18世紀にアジアから導入された際に雌木ばかりがもち込まれ、実をつけることのなかったアオキの雄木を、日本で入手することだった。日本の雄木によって、「たわわになる深紅の実」がヨーロッパでも実るようになり、19世紀末にはアオキは大流行したが、その後は日本と同様、ありふれた存在になってしまったようだ。  

 フォーチュンが採集した植物は多岐にわたるが、その1つにヤマユリがある。江戸時代にはユリはもっぱら食料とされていたらしく、フォーチュンは野菜としてまず百合根を見ていた。横浜に居住していたアメリカの商人、フランシス・ホールと散歩にでかけた際に群生するユリに感動し、数日後、金沢方面まで遠出をした折にヤマユリの根を掘り返している。

 ホールもヤマユリの球根を故郷のニューヨーク州エルマイラにもち帰った、という彼の日記の解説を読んだとき、ふと頭に浮かんだのがJ. S. サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の幻想的な絵だった。提灯をもつ2人の少女の背景に描かれていたユリは、フォーチュンかホールがもち帰った日本のヤマユリだろうか。そんな発見を娘に伝えたところ、「絵はがきもっているよ」とすぐに探しだしてくれた。なんと1998年のテート・ギャラリー展のときの購入物! よほど印象に残った絵だったのだろう。サージェントはアメリカ人だが、生涯をほとんどヨーロッパで過ごしており、1885年から翌年にかけて制作されたこの作品はテムズ川を航行中に上流のパンボーンで見た光景だった。よってフォーチュンに分がありそうだが、1873年のウィーン万博で広まったものかもしれない。  

 そんなフォーチュンが2年近くにおよんだ日本と中国の滞在を終えて帰国の途についたとき、「なかでもとくに気に入っていた植物で、喜望峰周りの長い船旅に委ねたくないものは、私自身が世話をしながら陸路で故郷にもち帰った。そうした1つが、愛らしい小さなユキノシタだ。その緑の葉は、白、ピンク、バラ色とさまざまな色で美しく斑になり、色づいている」と書いているのだ。彼の言う陸路は香港、スリランカに寄り、スエズからエジプト国内を移動し、地中海をまた航行してサザンプトンまでというルートで、荒海から守り、上陸地では新鮮な空気に触れさせるという念の入れようだった。  

 名だたるプラントハンターがそこまで手をかけて故郷にもち帰った植物とわかると、道端の草も貴重に見えてくるからおかしい。彼が選んだユキノシタは、葉が赤い斑入りの変種らしく、うちの庭にあるのはごく普通のタイプだが、花が咲いた記念に、学生時代は植生を研究した娘に絵を描いてもらった。

 豊顕寺

 サージェントの絵はがき

 ユキノシタ(絵:東郷なりさ)

2026年4月20日月曜日

物理本から学ぶこと

 横浜の関内駅の近くに吉田橋というかつて関門が置かれていた橋、もしくはその名残がある。そこから港に向かってつづく大きな通りは馬車道と呼ばれる。幕末に横浜が開港してまもなく、この道を多くの馬車が行き交うようになったためと言われ、この通り沿いに最初に設置されたガス灯とともに、馬車はいわば、西洋の進んだ文明を象徴するものとなった。

 幕末の日本では、乗り物といえば駕籠、または馬しかなかった。当時、日本に滞在していたアメリカの弁理公使ハリスなどが、「ノリモン」がいかに窮屈で乗り心地の悪い代物であるか書いていたので、彼らの目には日本はさぞかし後進的な国に映っただろうと読みながら思っていた。だが、実際には、西洋でも19世紀にはまだセダンチェアという従僕が担ぐ一種の駕籠が使われていたことが、目下、校正中の回転をテーマにした物理本に書かれていた。日本でも床に座り慣れていない外国人用に、のちに椅子駕籠が開発され、人力車が普及するまでのあいだ短期間ながら使われたようだ。  

 この物理本には、車輪付きの乗り物の歴史を論じた章がある。車好きの人にしてみればいずれも当然のことなのかもしれないが、私などは、そうなのか!と驚くことがそこには多々書かれていた。その一つは、四輪の荷車や馬車が長らく角を曲がれない代物であったという事実だ。二輪馬車の場合、角を曲がることで内輪のスピードが自然に抑えられれば、何とか無事に曲がれたようだが、四輪ではそうはいかない。江戸時代までの日本で使用された数少ない車付き乗り物である牛車や大八車が不安定な二輪車であった理由が、ようやくわかった。  

 四輪の馬車が本当の意味で実用化されたのは、チャールズ・ダーウィンの祖父に当たる医師エラズマス・ダーウィンが、太り過ぎて馬に乗って診療に行けなくなり、操縦メカニズムを考案して以降のことなのだ。彼の没後の1818年にその特許がドイツ人によって取られ、アッカーマン式リンク機構として特許知られるようになったのだという。

 ということは、1866年1月(慶応元年12月)に、横浜に駐在していたイギリス公使館員のジョン・マクドナルドが自家用の馬車に老中松平伯耆守宗秀を乗せて東海道を走り、川崎の六郷の渡しまで送った一件は、イギリス人にとっても当時の最新技術を見せつけるチャンスだったに違いない。この馬車の後ろから、アプリン大尉率いる騎馬護衛隊が警護でついて行く様子を描いたワーグマンの絵を、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で見つけたときも驚いたが、いろいろ考えると本当に画期的な出来事だったわけだ。  

 この挿絵はあまりに印象的だったので、横浜開港資料館にある現物の新聞を撮影していただき、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス、2020年)で使わせてもらった。当時は、この馬車がそれほど最新鋭の乗り物とは思いもしなかったので、それ以上深く調べず、馬車のほうはおざなりに見て「老中一行を乗せた二輪馬車を御するマクドナルドや、その後ろにつづくアプリンら護衛隊の様子を」などと書いてしまったが、実際にはこれは四輪馬車だった。私が誤解したのは、大きな後輪に比べてステアリング機能のある前輪は車体の下に収まる小ぶりなサイズで、沿道で興奮する村人や子どもたちの陰になっていたためだった。当時の馬車には現代の自動車のように、型式によって名前がついていたこともわかったため、画像検索したところ、おそらくこれは大型のブレークではないかと思う。  

 今回の本で、アッカーマン式リンク機構も多少は理解したので、レゴでもそれらしきものを再現してみた。前輪を小さくしたいばかりに、古い型の車輪までヤフオクで入手したのだが、小さめのサイズでつくったこともあり、内輪と外輪がカーブに沿って別の角度になるような精巧なものではない。馬車の後ろには、当時の日本人が憧れたらしい紺地に白い一本線入りのズボンを履いたアプリン大尉も、アーネスト・サトウが揶揄した金ピカ帽を被らせて添えてみた。  

 この馬車の御者席に座っていたマクドナルドは、この数カ月後に医師ウィリスの治療の甲斐もなく、29歳で脳軟化症と卒中で亡くなり、横浜外国人墓地に埋葬された。彼が取り寄せたというこの馬車がその後どうなったのかは不明だが、明治2年、本町通りから神奈川宿まで通じる馬車道が開通し、2月ごろには乗合馬車が始まり、5月には下岡蓮杖らもその事業に乗りだしているので、ひょっとすると乗合馬車として使われていたかもしれない。実際、三代広重の「横浜海岸異人館之図」(明治3年)には、ブリジェンス設計のイギリス領事館の前に、よく似た馬車が描かれている。 

 馬車は曲がり角で横転しやすかったなどと訳していたせいなのか、だんじり(地車)祭りなどで、山車が横転する事故の映像が翻訳中たびたびフェイスブックのタイムラインに出てきた。気になってつい横転した画像を見てみると、岸和田の山車の車輪には、ステアリング機能は何もついていないようだった。梃子の原理で後輪を浮かせて、などという説明も見受けられ、ひたすらコース取りを人力で調整するものと思われる。ただでさえ高い重心の山車の上部に大勢が乗り込んでいるのも気になった。坂道で暴走し横転したという伊豆の国市の山車は、前輪が小さく、方向を変えられるようだった。この事故は曲がれなかったわけではなく、ブレーキ代わりの綱を後方で引く人がいなかったことによるらしい。 

 物理にも車にも疎い私が、車輪付きの乗り物についてこんなことを考えるようになっただけでも、ちょっとした進歩だと自分では思っている。いつもに増して、初校ゲラはかなり赤が入ってしまったが、通して見直したことでだいぶ頭のなかは整理された。ほかにも書きたいことは山ほどあるし、訳しながら「勉強」と称してつくったレゴ作品もまだまだあるので、追々また書くことにしよう。何はともあれ、まずは索引を終わらせねば!

レゴで再現してみた東海道を初めて馬車が通ったときの光景

拙著で使わせてもらった『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵

1885年のブレークの写真
By Thomas, John, The National Library of Wales Catalogue ウィキペディアより

一応、前輪が曲がれるようになっている。

横浜外国人墓地のマクドナルドの墓(右端)2016年4月撮影

孫が私の誕生日につくってくれた駕籠。雪の日に桜田門外の変を再現すべく外に出してみたものの……八甲田山のように。

2026年5月21日木曜日

『上田郷友会月報』

 先月から、校正に次ぐ校正で、なかなか自分のペースで仕事ができない。数日ばかり本来の翻訳作業に戻ったのを機に、原稿やレジュメ、企画書などに着手する傍ら、久々にグーグルで祖先探しにつながる新しい情報がないか検索したところ、珍しく曽祖父門倉安栗の名前で2件ヒットした。よく見るとどちらも同じネットオークション関係で、曽祖父の訃報記事が掲載された大正7年の『上田郷友会月報』の古本が売りにだされていた。出品者がその号の主要項目を書きだしてくれていたおかげで、検索エンジンに引っかかったようだ。

 記事そのものは何年も前に上田市立上田図書館で閲覧した際に見つけており、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも触れているが、現物の雑誌はもっていなかった。それどころか、これまでたびたび活用させてもらったこの雑誌を一冊も所有してなかったので、ゴミを増やすことになるかと迷いつつ入札し、めでたく落札した。せっかくの機会なので、すでにゲラ刷りも届いてしまったが、この数カ月間、見つけてはデスクトップのフォルダーに放り込んでいたいくつかの情報とともに、忘れないうちにまとめておく。 

 明治18年創刊の『上田郷友会月報』は現在もつづく長寿雑誌で、実質的には明治20年創刊の『中央公論』を超える雑誌と思うが、これまで広く公開されていなかったせいか、昭和23年6月から平成8年2月まで『郷友信濃』と名前が変わったせいか、世間の認知度は低い。現在は国会図書館デジタルコレクションで平成23年分まで読むことができ、このサイトにリンクがまとめられている。 

 郷友会の活動はよく知らないし、この雑誌の歴史もざっと読んだ限りだが、もともと上田藩の藩医の子どもなど、医学関係者が発起人となって始まった会とのことで、創設者の一人とされる山極勝三郎は世界で初めてがんを人工的に生成して原因究明に寄与し、日本人でノーベル賞候補となった最初の人だ。多分に政治絡みで受賞できなかったものの、著名な医学博士である。

 勝三郎氏に私の祖父がお世話になったことは親戚から聞いていたが、曽祖父のこの訃報記事を読んで初めて、曽祖父安栗が「十四、五歳の頃、医師山極吉哉氏(山極博士の養父)の書生として厄介になったのであるが当時は中々の腕白ものであった」ことがわかった。しかも、上田藩の藩医だった養父の「山極氏の意見で獣の医者よりは人間の医者の方がよかろうと云ふ説に伝次郎氏の未亡人も同意されたので、山極氏の薬局生となって始めて医者のいろはの手解きをして貰い傍ら、本郷の済生学舎へ通うて前期試験には山極氏の宅に居る頃に及第したのである」とも書かれていた。祖先は数百年にわたって馬役を務めてきたが、このとき馬との暮らしと決別したことになる。 

 曽祖父が日本医科大の前身となった済生学舎出身であることは叔母たちから聞いていたが、いつ医師免許を取得したのかは長らくわからなかった。当時はデジコレもなかの文字の検索機能がなかったため、何年分もの官報のケシ粒のような文字をひたすら追ってみたが諦めた経緯がある。この訃報記事に明治32年に医師になったと書かれていたので、格段に便利になったデジコレで検索すると、明治33年(1900)1月26日の官報の「医籍登録者」のリストに名前がすぐに見つかった。 
 
 山極吉哉が、私の高祖父の死後まもない明治22年の月報に「故門倉伝次郎先生小伝」と題した記事を寄稿してもいたことも、最近になってデジコレから判明した。高祖父は明治21年10月に没している。しかもそこには「門人 山極吉哉謹辞」と書かれていた。藩医であった吉哉氏に、馬役から馬医になっていた伝次郎が何を教えたのか思いつかないが、親しい間柄であったことは想像がついた。だからこそ、伝次郎の遺児が医者として独り立ちするまで面倒を見てくれたのだろう。 

 明治43年になって再度、伝次郎の略伝が月報に掲載されたが、その情報源の多くは吉哉氏のこの記事だった。吉哉氏の記事で新たな情報としてすぐに目に留まったのは、安政6年9月に藩主であった松平忠固が亡くなった際に「御遺物トシテ御紋付上下拝領」となっていたことと、横浜にいたイギリス公使館付き騎馬護衛隊隊長のアプリンに西洋馬術を習い始めたのが元治元年10月と明確に年月がわかったことなどだった。 

 今回私が入手した曽祖父安栗の訃報記事を書いてくれた「無濁生」が、郷友会の創設時から多年にわたって幹事を務めた宮下釚太郎であったことものちに判明した。この追悼文には、高祖父の伝次郎が幕臣とトラブルになって追われ、「桜田門内に駆け付け役屋敷(老中邸)を三匝して塀を乗り超えて邸内にはいられたと云う」というエピソードが紹介されていた。だが、さほど広くもない西の丸下の上屋敷に高祖父がいた可能性は少ないと思ったため、図書館で読んだときは半信半疑だった。少し前のコウモリ通信に書いたように、『象山全集』の頭注から佐久間象山が松代で蟄居となり江戸を発つに当たって、象山の甥から「松平伊賀守様 御上屋敷」の上田藩の弟子である伝次郎と桜井純蔵宛に、中山道に向かう途中の白山付近でひそかに会えればという内容の手紙が送られてきたことが判明したため、上屋敷のこの一件もまんざら嘘でもないかもしれないと思い直した。西の丸下からであれば、銀座の木挽町の象山塾まで通うのは訳なかっただろう。 

 宮下釚太郎はじつに多くの記事を書いているが、昭和3年の月報にも「名馬高砂に就て」というエッセイを寄稿している。当時、松平家の家令を務めていた宮下は、谷中の天王寺にあった松平家の墓地に行った帰りに立ち寄った古本屋で、『天下古今文苑奇観』に塩谷宕院の「記名馬今高砂」が収録されているのを見つけ、それが松平忠固の栗毛の愛馬のことだとわかったため、帝国図書館(いまの国会図書館)でその書を借りて読んでみた、という内容だ。 

 引用の原文は漢文で、「今高砂者奥之鍛澤所産也、其色栗毛、筋骨剛脛、眼清気深、胸下有施毛」と始まり、宮城県鍛沢産の栗毛の名馬を「嘉永三年、上田侯獲之」、つまり松平忠固が獲得したとする。「昔吾自姫路来先君賜良馬名高砂者」とつづき、姫路藩から養子にきた際に、当時の上田藩主松平忠学が高砂という良馬を与えてくれたようだ。「今此馬其流亜也、宜呼為今高砂、愛撫弗惜、出必従之」とあるので、おそらく新しい馬も仙台馬で似ているため、今高砂と呼ぶことにし、大切に飼いいつもこれに騎乗していたという。この今高砂もすでに老齢になりと書かれたあと、「如禄官吏乞骸骨者然、御藩士門倉信敏、介石野恒卿、請余為之記」とつづく。 

 古文は仮名交じり文でもなかなか読めないが、漢文となるとかなりお手上げ状態で、グーグル翻訳で中国語→日本語で変換してもよくはわからない。ただし、ここに名前の出てくる門倉信敏が高祖父伝次郎(諱が信敏)であることは間違いない。塩谷宕院(1809〜1867年)は遠江掛川藩に仕え、のちに昌平黌の教授となった儒学者とのことなので、石野恒卿を介して、伝次郎がこの馬について何か書いてくれと頼んだ、と推測してみた。うんと暇になったら、後半部分も頑張って読んでみるつもりだ。

 少なくともこの史料から、忠固は文政12年(1829)に養子入りした当初から仙台馬に乗っていて、最初の老中時代で西の丸下の上屋敷にいた嘉永3年時には新しい仙台馬を愛用していたことはわかり、伝次郎はその面倒を見る役目もあって上屋敷にいたとすれば、一応辻褄は合う。宮下釚太郎が借りたと思われる『天下古今文苑奇観』(2巻、明治12年)も、いまではデジコレで簡単に読める。便利な世の中になったものだ。この文章そのものは塩谷宕院が没する慶応3年以前に書かれたはずで、明治3年刊の『宕陰存稿』にも収録されていた。上田藩以外の古い文献に伝次郎(信敏)の名前が翻刻されていたのは、私としては画期的なことだった。 

 明治以降の伝次郎の経歴については、明治初期のものは動乱期のため史料が乏しく、私の知識がそれに輪をかけて乏しいため、長らく調べあぐねていた。だが、デジコレが進化したことと郷友会月報が公開されたおかげで、新たにいくつかのことがわかった。明治3年に伝次郎が「馬術局教頭」に任命されたなどと吉哉氏が書いているのは、明治維新後の上田藩内の組織改革に伴う組織のことで、曽祖父が生まれた翌年まで、一家は少なくとも上田に留まっていたようだ。明治5年9月に「軍医寮八等出仕拝命」、同6年3月に「允請軍医寮九等出仕拝命」、同7年1月「陸軍馬医副ニ任ス。同年三月横浜在勤被申付」とつづくので、明治5年以降は明治政府に出仕するようになったと考えられ、実際、官報などにも多少の記録が見つかる。明治8年6月には「叙従七位」ともあった。明治10年12月には、すでに57歳と当時にしては高齢だったのに、西南戦争に駆りだされた。その後も再び鹿児島へ「軍馬買弁」のために送られたりしていたため、鹿児島の馬関連でも多少の記録が残っている。  

 月報が『郷友信濃』と名称を変えていた時期の昭和35年の号には、これまた驚くべきことが書かれていた。時代もかなり経ているので、信憑性はかなり低そうだが、こう記されている。「明治天皇は乗馬が御好で馬をいたはられた。前に申上げた身長六尺余、体重三十貫の御身であるので馬に重みのかからぬ様かがみ腰でのられている天皇に、馬術の教官は馬政局長官、上田藩の門倉伝次郎先生である」。馬政局が設けられたのは伝次郎の死後の明治39(1906)年なので、長官云々は間違っているし、明治天皇も身長も167cm、体重92kg程度と考えられているので、やや大袈裟である。  

 明治天皇は、東京奠都後まもない明治5年(1872)に西洋式の出たちと馬具の騎乗姿を内田九一が撮った写真が残っている。幕末までは御所から外に出ることもままならなかったはずなので、多少の乗馬の心得はあったとしても、本格的に馬術を始めたのは東京に移ってからと思われる。『日本馬術史』(1941 年)等を参考にすると、明治天皇は西洋馬術を日本騎兵の開祖とされる大高坂正元(1850〜1924年)から学んだと言われているようだ。大高坂は土佐藩が明治初年に招聘したフランス人アントワンに西洋馬術を学んだ人らしく、明治4年に土佐藩からの御親兵のうち騎兵を率いたという。明治5年に明治天皇の馬術御指南役として宮内省出仕、6年、少尉に進み近衛騎兵隊付になるが、武技御教育をつづける等々が、ネット情報としてわかった。その後、明治10年にやはり西南戦争に行っている。明治天皇と年齢も近い現役将校なので、大高坂が実際の教官であった可能性は高い。

 もっとも、伝次郎が明治政府に出仕することになったのは、代々馬役の家で、嘉永4年に象山塾に入門して、そこである程度の西洋馬術を学び、その後、元治元年から少なくとも1年以上は横浜でアプリンから実際に訓練を受け、馬医としても活動していた経歴ゆえだろう。明治政府に出仕してまもなく叙位されたのも、明治天皇の西洋馬術と何かしら関係があるかもしれない。高祖父の戒名に「従七位」の文字が入っていたことは、最近になって一枚の古い写真から判明していた。となると、唐沢勇という人が昭和35年になって『郷友信濃』に書いた記事にも、何かしらの真実は含まれていたのかもしれない。  

 この記事は、伝次郎が「幕末東京愛宕山の石段を上り下りをして日本一の額を掲げられた人である」という、宮下釚太郎が曽祖父への追悼文に書いていたエピソードにも触れていた。上田の図書館でこの件を読んだあと、4年前に現場にも行ってみたが、女坂ならともかく、男坂はめまいがするような急坂で、この階段を馬で駆け上がったら、いまなら動物虐待と非難されること間違いなしの場所だった。神社でも「将軍梅」や「〈出世の石段〉のいわれ」も見ていたが、写真も古いPCに入れっぱなしで忘れかけていたが、本年1月に毎日新聞で講談「寛永三馬術の出世の春駒」の記事を読んだことで、この逸話を思いだした。寛永11年(1864)1月28日に将軍家光がお供の者たちに、愛宕山の急な石段を馬で駆け上がって梅の一枝を手折ってくるよう命じたところ、四国丸亀藩の曲垣平九郎が「馬を信じ、馬の気持ちを思いやりながら見事成功させ」たという内容だ。ついでにテリー・ベネットの写真集で、フェリーチェ・ベアトが1867年に撮影した愛宕神社の階段写真も見つけていた。  

 講談で長く語り継がれた話を真に受けて、高祖父がこの急階段に挑戦したのかどうかわからないが、宮下釚太郎が大正年に伝次郎の息子の訃報記事を書いたころまでは、少なくとも上田でそう語り継がれていたのだろう。愛宕山は、桜田門外の変の決起前の集合場所とも言われる。「愛宕山に参って、下谷に寄って、松坂通って〜」という遊び歌を母が子どものころに歌って聞かせたのは誰だったのだろう。気になるところだ。

 今回入手した『上田郷友会月報』第385号 
 大正7年11月25日発行

宕陰存稿』に収録された「記名馬今高砂」 
 画像は国会図書館デジタルコレクションより

 愛宕神社 2022年2月撮影