2025年9月23日火曜日

信州旅行2025年

 9月20 ・21日に上田で「市民のための歴史講座」が開かれ、幕末の老中松平忠固と上田藩の人びとについての研究発表に、15人の発表者の一人として参加してきた。先に発行された論文集に沿って、私は「松平忠固と関白九条尚忠の関わり」という突拍子もないテーマで発表したので、その内容を20分でまとめて話すのは至難の業となった。 ふだんMacを使っているので、フォントには注意したつもりだったが、当日使用したWindowsのPCでは文字化けしたものがあった。老眼で手元がよく見えないので、原稿は別途用意せず、しゃべる内容や難しい読みはすべてパワーポイントの発表者ツールに入れたのに、それが表示されない機種であることが土壇場でわかり、タイマーも見えないまま、うろ覚えで話すはめになった。それでもどうにかおおむね時間内にスライドにしたがって発表を終えられ、心の底から安堵した。 

 2日間とも100名前後の方が参加してくださったそうで、年齢層は高めであるにもかかわらず、入れ替わり立ち替わりで発表がつづくなか、居眠りもせず、皆さんじつに熱心に、メモを取ったりしながら聞いていただき、たいへんありがたかった。忠固のご子孫の方々にも、2017年に上田の願行寺で開かれたトークセッション以来でお会いすることができて、この間の研究成果をお見せできて嬉しかった。地元の明倫会の皆さまには、お弁当の手配や送迎といった細々としたことまでご手配くださり、臨機応変に対応していただいた。「忠固研」の3年にわたる活動が、忠固の地元の上田だけでなく、よい意味で幕末史を見直す起爆剤となれば、苦労した甲斐があったというものだ。 

 今回、じつはこの上田出張の前に長野市にも立ち寄っていた。なかなか自由時間の取れない私にとって、この機会を逃しては次にいつ行けるか定かではないと思ったため、思い切って駆け足調査を実施した。いちばんの目的は飯綱高原に移築されている旧ダニエル・ノルマン邸を訪ねることだった。ところが、最寄りの飯綱登山口バス停行きのバスは極端に本数が少なく、仕方なくだいぶ手前のバス停からバードライン沿いを歩くことにした。この付近は8月にツキノワグマの目撃情報のあった場所だ。例年9月は出没件数が増えるようなので、万一のことを考えて事前にクマ鈴と笛を購入し、ネット情報から蚊取り線香まで持参していったが、幸い杞憂に終わった。 

 ノルマン邸にこだわった経緯は以前に「ノーマンさん」「十河家のピアノ」の記事で書いたが、神奈川近代文学館まで行ってダニエル・ノルマン牧師の長男W. ハワード・ノルマンが書いた『長野のノルマン』を読み、工藤美代子の『スパイと言われた外交官』の古本を入手して次男ハーバートの生涯もおさらいするなどして、ハーバート本人の著作『日本における近代国家の成立』もおよそ読んだ。ハーバートがハーヴァード大学の博士論文として執筆し、太平洋問題調査会(IPR)の調査シリーズの一冊として1940年に刊行されたものという。 旅行直前にはもう一度、『長野県町教会百年史』を国会図書館デジコレで読み直した。1905年にノルマン邸と呼ばれる宣教師館を設計したダニエル・ノルマンは、1934年に引退する形で軽井沢の教会に移るまでこの家に住み、その後は後任の牧師が居住したものと思われる。日米関係の悪化からノルマン夫妻は最終的に1940年末に長男ハワードの一家とともにカナダに帰国し、半年後に亡くなっている。 

 工藤美代子によれば、次男ハーバートは同年5月に博士号を取得後、語学官として日本に赴任しており、1941年12月8日、太平洋戦争が勃発すると、ハーバートはカナダ公使館に抑留され、翌年7月に交換戦で離日した。終戦後の9月にはカナダの外務省の仕事で再び来日し、12月にGHQが設置されるとそちらに異動したと考えられている。 祖父の転勤によって母の一家が鳥取から長野に引っ越したのは1941年ごろと推測されるので、その当時、ノルマン(ノーマン)一家はこの家にも長野市内にも、誰もいなかったことになる。太平洋戦争中の出来事に関する『百年史』の記述はやや曖昧だが、敗戦1カ月前に教会堂は強制疎開として取り壊され、時期は不明ながら「ノルマン館は敵性財産として没収され、これを買った人が住んでいたので、教会の自由にはならなかった」とする。つまり、母の一家がお付き合いしていた大滝さん一家こそが、戦争中にノルマン邸に住んでいた人たちということになる。母が記憶していた大滝邦雄という名前で検索したところ、野辺山の開発を手掛けた高原開発報国社の代表であったことが判明した。『大衆人事録』には「宗教基督教」と書かれていたので、教会の関係者であったのかもしれない。大滝家は数年後には軽井沢へ引っ越したそうで、ノルマン館は1960年ごろに北野建設の所有となり、しばらくは専務の自宅として使われ、1971年に飯綱高原の現在地に移築された。 

 かなり改築も繰り返されたと見え、古写真に残るノルマン邸とはやや印象が違った。窓の鎧戸などもなくなり、戦後に増築されたと思われる部分もある。「平常多く使われる部屋はすべて南側にとってあった。サンルーム、リビングルーム、食堂、炊事場は一階に、寝室と子ども部屋は二階にあった」と、『長野のノルマン』には書かれていたが、肝心の南側のすぐそばに木立があるため、裏手に回ってもじっくり眺めることはできず、なかも覗けなかった。次のバスまで少し時間があったので、隣に移築されている旧長野師範学校教師館の入り口に座って少々スケッチも試みたが、どんどんパースがずれてしまった。建物は難しい。 

 長野県町(あがたまち)教会には、1898年にそこを園舎にして始められた旭幼稚園があった。この教会はカナダ・メソジスト教会の宣教師によるもので、幼稚園は東洋英和女学校(現在は女学院)と関係があるという。関連の書を斜め読みした程度で詳しくはないが、上田、屋代、松代など、私と関連のある場所がいずれもこの教会と密接に関連していた。しかも、東洋英和女学校の高等科が1918年に東京女子大学と合併とあり、祖母は東女卒なので、何かしら関係があるかもしれない。 

 というのも、祖父母のアルバムにあった集合写真の裏面に母の字で「長野 旭幼稚園」と書かれており、居並ぶ着物姿の女性たちのなかに祖母が写っていたからだ。母の妹たちがこの幼稚園に通った可能性もあるが、いまのところその確証はない。母の記憶では旭幼稚園の裏が大滝さんの住んでいたノルマン邸のはずだった。『長野の百年史』も「ノルマン宣教師館の隣りに旭幼稚園があった」とする。1919年2月7日の『官報』には「長野市縣町十二番地英領加那陀人ダニエル・ノルマン」という記述があったが、戦前の長野の市街地図はどこにも見つからなかった。 

 これはもう県町教会に聞いてみるしかないと考え、荷物をホテルに置いたあと、訪ねてみた。突然お邪魔したにもかかわらず、ホームページで拝見していた若い牧師さんご夫婦がじっくり話を聞いてくださり、旭幼稚園の百年史を繰って、1953、54年の卒園式の写真がまさに同じ場所で撮影されていることを確認してくださった。後ろに並ぶ職員のなかには外国人の姿も見られ、戦争中に一時期途切れていた教会との関係が戦後はまた復活していたらしいことがわかった。旭幼稚園とノルマン邸は実際にはどこにあったのかお尋ねしてみたところ、いまのホテル国際21付近とのお答えで、私は思わず声をあげた。どこかでそんな記述を目にした気もするが、まさにそのホテルに宿をとっており、私が泊まった南館の部屋の窓からは三角形の印象的な山が目の前に見えていたからだ。「それが旭山です」とのこと。 

 ハワード・ノルマンは屋根裏部屋の窓から、「ゲジゲジ山」と呼んでいた山道がジグザグにつづく山がよく見え、長野市街は南に向かってその山の裾野に展開しているとしていた。それと並んで石切場のある「ゴロゴロ山」もあったとするが、どれを指すのか判然としない。県宝に指定されているのに、ノルマン邸の元の場所は県町としか書かれていないのだが、県庁前の道路拡張工事で移転したことなどは確認できるので、このホテル付近と見て間違いないだろう。 

 近くにある長野市立図書館で司書さんに聞いてみたところ、昭和初めの地図を教えてくださり、その地図に県会議事堂(現県庁)と道路を挟んだ向かい側に旭幼稚園だけは記載されていた。幼稚園の北東には現存する犀北館も書かれているが、なぜか県町教会も記されていない。母の一家は当時、南県町の一角である徳永町に住んでおり、その斜めの通り沿いの家は1980年代くらいまでは存在したようだ。母たちが通った付属小学校は善光寺の近くにあり、子どもの足で通うにはそれなりの距離があったことなども、その地図からわかった。 

 グーグルマップを拡大してみところ、犀北館に「重森庭園」なるものを発見し、館内を覗きに行ったところ、すでに夕食時間帯だったのに、親切なウェイターさんがガラス戸を開けて庭に通してくださり、重森三玲の孫の千青氏作庭の石庭を見学させてくれた。北野建設が創設した北野美術館に重森三玲の庭があり、その関係で犀北館にお孫さんが庭をつくることになったらしい。三玲の庭には砂利に際に印象的なコンクリートの細い縁があるものがあったが、こちらの庭では代わりにスプリンクラーにもなる黒いチューブが使われていた。長くなった夏の期間、苔を保つのは容易ではないので、庭も進化しているのかと感心した。 

 じつはこの日、飯綱高原に行ったあと、善光寺の納骨堂、雲上殿にまで足を運んでいた。帰りのバスが善光寺北で止まってくれれば楽だったのだが、もう一度駅前まで戻り、別の路線バスで滝東まで行くはめになった。そこからグーグルマップを頼りに歩いたのだが、その登りのきついこと。重たい本の詰まったリュックをもち歩いていたため、すでに飯綱高原でくたびれていた身には辛かった。 

 雲上殿に着いたのは閉門の30分ほど前。前回きたのは、おそらく1992年秋だと思われる。祖母の衰えが目立ってきたので、納骨堂に永代供養されている両親に最後にお参りさせてあげようと一念発起して、幼稚園児だった娘と信州旅行をしたのである。といっても、私は荷物持ちに付いていったようなもので、すべて祖母任せだったため、タクシーを使ったのかどうかすら記憶にない。受付で曽祖父母の死亡日と俗名を告げてもわからず、一人娘だった祖母の名前を伝えたところ、該当するものがあった。「遺骨があるのでお出しすることができます」と言われ、祭壇のある小さな部屋に通され、そこに位牌ではなく、ミニチュアのような木箱が2つ運ばれてきた。木箱の表に短めの戒名と祖母の俗名が書かれ、管理番号が振られていた。どちらも戦後すぐの貧しい時代に亡くなったので、当時はそれが一般的だったとのこと。分骨したのだろうか。祖母とお参りしたときはお経を上げてもらったように思うが、今回は時間もなく、用意してきた最低限のお布施では足りなかったので、お線香だけ上げてきた。70年以上にわたり、不信心な子孫に代わって遺骨を守ってくださった善光寺さんには感謝している。祖母は賢明な判断をしてくれたに違いない。 

 3日間の旅のことだけで、やたら長くなってしまったので、ハーバート・ノーマンの『日本における近代国家の成立』の書評は、もう少しよく読み直してから、別の機会に書くことにする。上田での研究発表の帰りの新幹線でこの本を読みながら、考えさせられることが多々あったからだ。それにしても今回の信州の旅では行く先々で本当に多くの親切な人たちに出会うことができた。充実したよい3日間となった。

 旧ダニエル・ノルマン邸

 ノルマン邸の南面

肝心の玄関がひどく寸詰まりになってしまった。師範学校教師館からだと立木越しでよく見えなかったことを言い訳としよう。

 長野県町教会

 ホテル国際21からの眺め

 長野旭幼稚園、1940年代

 善光寺雲上殿からの眺め

 犀北館の重森庭園

 市民のための歴史講座パンフレット

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