祖先探しの一環で『象山全集』にはかなり目を通していたので、松代の八田という名前はよく登場することもあって以前から気になっていた。というのも、母の実家が戦後、松代で医院を開業しており、「はったさん」という名前を祖母がよく口にしていたからだ。同コラムによると、本町八田家が本家で、伊勢町八田家は分家だそうだ。その名称にピンときたのは、母たちの住んでいた場所は伊勢町だったと聞いていたためだ。
母の末弟に問い合わせてみると、八田家は松代藩の御用商人で、戦後の時代は金物屋を営んでおり、そこの女主人と祖母が仲良くなり、叔父も連れて行かれたとのことだった。いまもまだ家が残っているはずだという叔父の言葉どおり、検索すると八田家住宅が保存されているのが確認できた。戦後早々に単身東京に戻った曽祖父が急死し、西大久保の家は空襲で焼失したため、曽祖母は信州に疎開したまま、娘一家の近くに家を借りて一人暮らしをするようになったが、松代時代は町の東部にある東条にいたという。その家も、叔父によると、八田さんの別荘の一部だったらしい。
2014年に母と松代を訪ねた際に、祖父の医院があったという「御使者屋」前の場所に行ってみたのだが、ただの駐車場になっていた。御使者屋というのは松代藩のゲストハウスのようなもので、佐久間象山がしばらく暮らしていたことでも知られる。全集のなかでは「御使者屋時代」などと呼ばれていたし、すぐ裏手にある松代藩鐘楼と御使者屋のあいだで本邦初の電信実験がなされたとも言い伝えられている。残念ながら本邦初でもなければ、本当に実験したのかどうかも定かでないらしいが、現地には少なくともそのような案内板が立っていた。
象山と言えば、その弟子だった高祖父に関して、これまで気づいていなかった重要な事実が『象山全集』巻1から一つ判明していたので、横道に逸れるが、忘れないようここに書いておく。今年初めに国会図書館のデジタルコレクションの検索機能が拡充したおかげで、象山の年譜の頭注に、ゴマ粒のような文字で象山の甥の北山安世が山田権之助という人物とともに書いた書状が引用されていたことがわかったのだ。ペリー来航時の吉田松陰の下田踏海事件に連座して伝馬町に収監されていた象山が、国許である松代で蟄居となり江戸を発つに当たって、「九月廿四日門弟門倉、桜井へ宛て象山の江戸退去を通知せる文(頭注)あり。察するに門弟中親しき者へは一様に通知を発せるものか」と年譜本文にも書かれていた。書状には「二白、内密は白山辺にて被懸御目候様子に御座候」とあり、宛名は「松平伊賀守様 御上屋敷 門倉伝次郎様、桜井純蔵様」になっていた。知らせを受けて、高祖父と桜井が白山まで駆けつけたかどうかはわからない。
嘉永7年当時の上田藩上屋敷は西の丸下の役宅だろう。この当時は馬場などもある扇橋の抱屋敷か、のちにいた瓦町藩邸に住んでいたのではないかと推測していたが、この役宅にいたというのも新発見だった。高祖父が幕臣とトラブルになって追われ、桜田門から入って塀を乗り越えて役宅に逃げ込んだという逸話が曽祖父の追悼文に書かれていたが、まったくのホラ話ではないかもしれない。伝次郎の孫に当たる祖父が松代で開業したのは、日赤をクビになった際に知り合いが斡旋してくれたためと聞いているが、御使者屋の前に医院を構えたことの意味を、祖父がどう感じていたのかは、気になるところだ。何しろ、私が先祖探しをするまで、高祖父が象山の弟子だったという話は誰からも聞いたことがなかったからだ。
11年前に母と訪ねた医院跡の駐車場は、グーグルマップでいくら見てもどこだかわからず、叔父にもう一度聞いてみると、伊勢町の「メイン通り」沿いにあったと記憶していると返答してくれた。そこでふと母の遺品に、この旅のときの写真をプリントアウトして簡易アルバムに入れて渡してあったものがあったのを思いだした。開いてみたら、母の字でそれぞれの写真に丁寧にキャプションと説明が書かれていた。まるで自分の死後に、記憶力の悪い娘が困るのを見越したかのような母の周到さに、思わず涙が込み上げてきた。
叔父の記憶と母の説明、それに写真に映る背景を手がかりに、ストリート・ビューで確認すると、現在、「秘密基地アトリエ wanaka」がある場所、またはその隣の駐車場が、鈴木という料亭跡に開業したという祖父の医院および自宅があった場所であることがわかった。
「秘密基地アトリエ」とは何ぞやと思ってさらに検索すると、2019年に信州を襲った台風19号で廃業した築60年の布団店倉庫を、地元のアーティストがリノベーションした多目的スペースのようなものだった。この台風で上田電鉄別所線の赤い千曲川橋梁が崩落したことはニュースで知っていたが、松代の甚大な被害については恥ずかしながら知らなかった。長野県が作成した被害一覧のようなものを見ると、八田家住宅も長土蔵の一部が破損したほか、飯綱高原のダニエル・ノルマン邸も倒木によるかなりの被害を受けたようだった。
松平忠固の論文集からは、思いがけずいろいろな発見があった。じつはまだ全部読み終えていないのだが、最後までしっかり読みつづけよう。
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