松平忠固(ただかた)については、このブログでも何度か書いたので、繰り返すことになるが、最初のきっかけは、十数年前に上田藩士だった自分の先祖のルーツ探しを始め、幕末史にはまったことだった。もっとも、私の先祖の足跡が最初に見つかったのが1861年11月に横浜にやってきたイギリスの騎馬護衛隊や、1862年5月に来日したイギリス公使館付の医師ウィリス関連の記録であったため、1859年10月(安政6年9月)に死去していた忠固は長らく私の興味の対象とはならなかった。
2014年に、私の母が子ども時代を過ごした松代や屋代を一緒に訪ねたあと、上田にも立ち寄り、上田市立博物館刊行の『松平氏史料集』と『松平忠固・赤松小三郎』を購入したものの、斜め読みしただけでしばらく積読状態となっていた。
その後、『横浜市誌稿』や『史談会速記録』などに忠固の名前をわずかに発見することはあったものの、それ以上は調べあぐねていたところ、2017年11月に上田の願行寺で開催された「松平忠固公を語る講演会&トークセッション」に、忠固のご子孫の方からお誘いいただき、参加してみた。このイベントでは、赤松小三郎研究会でお会いしていた関良基先生や地元史家の尾崎行也先生、貿易会社の経営者として日本の貿易史を研究され、松平忠固に強い関心をもたれていた本野敦彦氏などが、ご子孫の方々とともに登壇され、いろいろなお話を伺うことができた。その帰りに、関先生が猪坂直一の小説『あらしの江戸城』(上田市立博物館、1958年)を紹介して下さったのが一つの転機となった。
以後、小説を書くうえで猪坂氏が典拠としたと思われる史料が次々に見つかったが、上田に残るもの以外は、大半が忠固の政敵が残した記録であることがわかった。そのため、最初は開国をめぐって、のちに将軍継嗣問題に巻き込まれて、水戸、福井、彦根などの大藩だけでなく、岩瀬忠震ら幕臣からも忠固は嫌われ者として語られるようになった。大量に残るそれらの史料が何度も引用されることで彼の評価は地に落ち、やがて忘れ去られた。上田に残された記録を読む限り、忠固は非常に聡明で冷静、かつ潔癖な人物に思われた。ただし、おそらく気難し屋で、自分の意見をはっきり述べるなど、日本の根回し社会には馴染まない側面があったのだろう。
私なりに探り当てた忠固像は、2020年に自費出版した『埋もれた歴史——幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)で、一章を割いてまとめてみた。この本で追究しきれなかったテーマは、のちにブログで何度か記事にした。その一つとして日米和親条約締結時の森山栄之助の役割について書いたことなどから、岩下先生のご紹介で横須賀の『開国史研究』21号に論文を投稿したこともあった。
こうした諸々のご縁から、本野氏が寄付された研究費を岩下先生が受けて立ち上がった忠固研究のプロジェクトに、ファミリー・ヒストリアンの延長でしかない私にもお声がかかった、という次第だ。ひとえに、研究会発足時には上田の歴史家以外に、忠固を研究した人がほとんどいなかったからだろう。
せっかく本格的な研究会に参加させていただいたのだからと、論文のテーマには自分のなかでいちばん大きな謎だと思っていた関白九条尚忠と忠固の関係を選んだ。九条尚忠も幕末の重大な時期に朝廷の最高位の役職に就いていた人物でありながら、政敵が残した記録ばかりが残り、忠固同様に歴史の脚注に片づけられてきた。2人の直接のやりとりを示す史料が見つからないなか、専門家の方々からは無謀ではないかと忠告も受けたし、自分でも背伸びどころか、竹馬に乗ったような不安はあった。それでも、これまで翻訳してきた科学書で学んだように、なくした鍵を街灯の下だけ探すのではなく、不完全なりに、部屋のなかの象にも挑んだつもりだ。また、自著を執筆した過程で、忠固の子どもたちについてかなり調べていた経緯もあって、もう一本、忠固自身の家族についてコラムも執筆した。拙稿を踏み台にして、いずれ何かしら違う展望が開けたらたいへん嬉しい。
もちろん、本論文集には、専門家の方々が同じだけの期間、上田をはじめ各地に史料調査に赴いて、それぞれの研究テーマと掛け合わせながら構想を練られた論文やコラムがぎっしり詰まっている。たとえば、忠固老中日記から忠固が平均して何人の対客をしたかを調べ、彼の仕事ぶりを数値で可視化を試みた、鈴木乙都さんの研究などは、毎日新聞の「首相日々」を思わせ、彼の性格の知られざる側面を明らかにする。
論文集ということで、発行部数も限られ、高額の本となってしまったが、お近くの図書館にリクエストいただくなりして、お読みいただけたら嬉しい。浦賀に来航したペリー一行にたいし、船に乗り込んで歓待するふりをしながら「船将」を突き殺し、残りの船員も斬り殺せと水戸藩の徳川斉昭が主張した時期に、開国を主張した松平忠固。攘夷を主張する孝明天皇のもと、ハリスとの条約締結は不許可という最終回答が朝廷側から下ったにもかかわらず、井伊大老に強引に調印を迫った松平忠固。日本の近代化はいまや、過度のグローバル化によって輝かしいものでもなくなり、単純な過去への回帰を願う声すら聞かれる。排外主義が選挙の争点にまでなり始め、長年の常識がどんどん崩れてきている昨今だが、世界から孤立して島国として生きるわけにもいかない。いま一度、幕末の原点に立ち戻ってみることは非常に有意義なはずだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿