2025年12月31日水曜日

2026年元旦に

 年末年始に帰るべきところもなくなり、スープの冷めない距離にいた娘一家も、自転車で30分ほどのところへ引っ越してしまったが、とりあえず元気に新年を迎えることができた。昨夜は近くに住む姉夫婦が天ぷらと年越し蕎麦の夕食に誘ってくれたので、何年かぶりにテレビで紅白歌合戦も見ることになった。 

 その後、孫がどうしてもまた除夜の鐘を撞きに行きたいと言うので、夜中に駅で待ち合わせて、今年も近所のお寺にお参りすることができた。帰りの電車の時間があったので、ゆっくりはできなかったが、3年連続はちょっとした快挙だ。娘が絵本『じょやのかね』の舞台にした船橋の飯山満の光明寺には何度くらい詣でただろうか。初日の出を拝みに行くほどの気力はなかったので、今年は省略した。 

 昨秋は2冊の本の校正が見事に重なって、初校、再校が入れ替わり立ち替わりやってきて、紙に埋もれるような毎日だった。そのうちの1冊『〈平等〉の人類史』は500ページ超の思想史の大作だったので、なおさらだ。12月なかばからは年末が締め切りの「忠固研」史料集のための原稿をどうにか書き上げた。  

 そんななかで、孫の労作「わたしのイネかずかん」(イネ科図鑑)が木原記念こども科学賞の低学年の部で最優秀賞をいただいたため、先月なかばには横浜市役所のアトリウムで行なわれた表彰式には顔を出し、晴れ姿を目に焼きつけておいた。考えてみれば、私はこの年齢まで何かまともな賞を受賞した経験がない。翌週には姉のピアノ教室の発表会があったので、それも聴きに行った。ふだんちっとも練習しない孫は、今年は自分の力量をはるかに超えたブルクミュラーの「牧歌」と「バラード」をそれなりに弾き、「きょしこの夜」を娘と連弾をした。上手な生徒さんの演奏に刺激を受けたのか、終わってから急に「タランテラ」を自分で練習しているらしい。 

 太陽の位置が低いこの時期は、15年ほど前に建った隣家の大きな二階のせいで日中は家のなかが暗く、寒々としている。それでも、冬至を過ぎるころから、細い陽の光が「冷たい水の中の小さな太陽」さながらに入るようになり、冬の午後、家のなかに長く射し込む西陽をありがたがっていた母を思いだす。昨年の日本庭園の本の仕事で谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読んだおかげで、暗いからこそわずかな光が大切に思えるのかとも思えるようになった。 

 一連の仕事が片づくと、休む間もなく、本来は年末に仕上がる予定だったはずが、まだ3分の1程度という次の仕事に必死に取り掛かった。当然ながら正月休みも返上で、残りの半分ほどまでにきたこの物理本を少しでも先に進めなければならない。遠心調速機の仕組みだの、太陽歯車と遊星歯車の動きだのを、動画を見たり、解説を読んだりしながら理解しようと努めている。 

 どこにも行けず、寒い家のなかでPCにかじりついていなければならない日々は、どうしてもストレスが溜まる。最近は、私のフェイスブックにやたらレゴの動画が流れてくるので、ストレス発散に眺めると、いろいろアイデアが浮かび、歯車の仕組みの勉強だとか、あれこれ言い訳をしつつ、何度もパーツを買い込んでしまった。娘には完全に呆れられ、使えなかったパーツを孫のレゴ箱に追加すると、「また撒菱が増える!」と怒られている。実際、私に似て整理整頓が苦手な孫は、床中にレゴを散らばしたままにしているので、抜き足差し足で歩かなければならない。 

 こんな調子で、何ともパッとしない毎日を送っておりますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

日本庭園の本に刺激され、この半年ほど育てていミニチュア苔庭と、長年集めた?馬たち。ステップの馬とチャリオットの10年前の紙工作もまだ健在。日本人形たちは結局、何にもならずに終わっているが、花と幸は上田紬の着物で正月を迎えることに。虫眼鏡でコケを観察するわが姿は、子どものころ苦手だったヘムレンさんにそっくり。「雑多な苔」は、フリント船長の書いている本のタイトルだったか

いつもに増してピンボケになったが、除夜の鐘の記念に

午後になると少しだけ差し込む陽射し

2025年12月18日木曜日

 橘、タチバナという名称を知らない人はまずいないと思うが、雛壇の下に飾られる「右近の橘」を思い浮かべる程度で、実際に橘を見たことや食べたことのある人は少ないのではないだろうか。 

 以前にも書いたように、母の実家の家紋は菱井桁に橘で、柑橘類は基本的に暖かい地方のものだし、何かしらルーツを知るヒントが得られるのではないかと漠然と思ってきた。墓地にある江戸時代前期の墓標に、線刻ながら、橘とわかる紋が彫られているのは以前から気づいていたし、幕末に書かれた史料に「家紋井桁菱之内橘」の文字を確認できたことで、その思いは強まった。 

 春に調べたときはすでに季節的に遅く、苗木の販売サイトしか見つからなかった。酸味が強くて生食用には向かないとの説明もあったので、12月になるのを待って、1900年をさかのぼる橘の歴史があるという和歌山県の橋本神社の橘の実を、その近所の果樹園のサイトから2個だけ(!)購入してみた。 一つはお供え用に綺麗にパッケージに入っており、もう一つは味見用となっていた。

 由緒書きによれば、11代目の垂仁天皇の家来の田道間守が不老長寿の妙薬を探して常世の国まで10年間旅をしてもち帰った「非時香菓」(ときじくのかぐのこのみ)の種から芽生えた苗を、和歌山県海南市下津町に移植したのだという。橋本神社の近くには六本樹橘創植の地という碑があるそうだ。 垂仁天皇は、実在したとすれば3、4世紀ごろの人で、田道間守のほうは伝説上の人物らしい。内容からすると、不老長寿の薬という点が徐福伝説ともどこか被るものがあり、こちらも九州のほか、和歌山や三重、愛知などにも伝説が残る。右近の橘が京都御所の紫宸殿前に植えられたのは10世紀後半のことだった。 

 果物としてのタチバナ(ヤマトタチバナ)は、沖縄原産のタニブターとアジア大陸産のマンダリンオレンジの交配種で、日本産の柑橘類の親の一つと考えられている。九州、四国、和歌山、三重などに「自生地」が若干あり、北限は伊豆半島の戸田だという。戸田は幕末にロシア軍艦ディアナ号が沈没し、ヘダ号が建造された地でもあり、タチバナ狩りもできるらしいので、いつか行ってみたい。 

 橘の歴史からも、科学的研究からも、先祖のルーツ解明につながりそうなヒントは見つからなかったが、購入した貴重な2個の橘は、一つを孫にあげて、絵を描いて欲しいと頼み、もう一つを自分の試食用とした。木の上で完熟した実を送ってくれたのか、柔らかめで、酸味は強いものの、十分に生食にも耐える味だった。10個の種が入っていたので、植えてみることにしよう。うまく発芽して育ったら、姉宅に移植してみよう。京都でも育つなら、横浜でも十分にいけそうだ。 先日、娘宅に行ったら、孫だけでなく、娘も忙しいのにちゃんと絵を描いてくれ、しかも小さな額に入れてプレゼントしてくれた! 

 孫の絵は紙一枚だったので、母宅から引き上げてきた100均の額にとりあえず入れてみた。娘が毎年制作してきた孫のミニ版画を入れられるように私が買って渡した額で、裏を開けてみたら、そこにもう2枚赤ん坊のころからのミニ版画が入っていた。表に入っていたのは、幼稚園に入ってブランコを立ち漕ぎできるようになった孫の図柄で、それが母の最後に見た「ひ孫」の姿ということになる。 

 日常にはまず見ることのない果物となった橘だが、じつは十大家紋の一つらしい。柏、片喰、桐、蔦、藤、茗荷、木瓜、澤瀉と並ぶ植物の紋で、残る一つは鷹の羽紋だった。カシワやキリ、フジはわかるとしても、カタバミ、ミョウガ、オモダカなど、随分とささやかな植物を家紋に選んだものだ。酒井雅楽頭家は片喰紋で、前橋の龍海院の墓地でこの紋をたくさん見た。 

   うちの父方は木瓜紋(もっこうもん)であることを、先日ようやく画像検索機能で確認した。灌木のボケのことかとも思ったが、読んで字のごとく、本当にキュウリらしい! 瓜の輪切りや鳥の巣を図案化したもの……となれば、これまた孫に絵を描いてもらわねばならない。キュウリはどうか知らないが、鳥の巣は大好きだから、楽しい絵になりそうだ。

 そう言えば、橘もずいぶん小さな果物なので、もう少し大きな果物にすればよかったのにねと話していたら、孫が「ドリアンとかね!」とすかさず言うので大爆笑した。ドリアン紋、強そうでいいかも。でも、考えてみたら、桃や柿なども、昔はずっと小さな実だったに違いない。山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ」というのは、メロンの祖先のマクワウリのことらしい。若い実はカラスウリのような縞があって可愛いが、マクワウリは地面で実をつけるので、木瓜はやはりキュウリか(12月20日加筆)。
 

 左)娘作、右)孫作

2025年12月4日木曜日

七五三 7歳

 今月朔日に、舞岡八幡宮という神社に七五三のお参りに行ってきた。三歳の七五三のときは一緒に祝ったじいちゃん、ばあちゃんたちが、この間に皆、鬼籍に入ってしまったことを思うと年月の経過を感じる。2年前の春に逝ってしまった母にはとりわけ、ひ孫の晴れ姿を見せたかった。というのも、孫が着た着物は、亡母のお宮参りのときの着物だからだ。 

 私たちのころは、ちょうど祖父が倒れたりして余裕がなかったのか、千歳飴をもらったくらいだった。年の離れたいとこの七五三のときになって、この古い着物があることを祖母が思いだしたらしく、いとこのおばあちゃんが子ども用に仕立て直してくれたのだそうだ。いとこ姉妹が着たあと、その着物は別のいとこの娘や、うちの娘、姪たちが代々着て、七歳の七五三を祝った。3歳のときの写真に加えて娘がまた、同じ着物姿で勢揃いした合成写真をつくってくれた。それぞれの成長ぶりが一目でわかって、何とも楽しい写真だ。 

 この秋は仕事が重なり、多忙になることが以前からわかっていたので、夏前から髪飾りを用意するなどして、少しずつ準備を始めた。といっても、お金をかける気はなかったので、ヤフオクやメルカリで中古品を探したあとで、自分でつくれるのではないかと考え、手持ちの木のビーズに拾った枝をつけて、家にあったセタカラーを塗って簪をこしらえ、着物の柄に併せて牡丹もどきを描いた。櫛は数百円の白木のものを買って色を塗り、絵付けは「絵師」の娘に任せた。孫の好きなカブトムシとエノコログサ、それにアオスジアゲハをえらく上手に描いてくれた。あとは娘の成人式のときに私がつくったホロホロチョウの羽付きのビーズの髪飾りに、孫がこれまで拾い集めたヤマシギなどの羽を付け足すことでよしとした(娘同様、孫にも羽収集癖があるので、羽はいくらでもある)。  

 着物類はこの四半世紀ほど姉宅で保管されていた。1か月ほど前にそれを受け取りに行き、恐る恐る着物の状態を確認したところ、小さな染みは随所にあるものの、90年前の着物とは思えないほど良好な状態だった。母よりも着物のほうが長生きしたなと感慨深い。母はいまの北朝鮮の興南で生まれており、お宮参りの写真が現地の写真館で撮影されていることは判明していたので、この着物は曽祖母が縫って、曽祖父が段飾りのお雛様とともに送ったのではないか、などと叔母とともに推測している。その後、日本にもち帰られた着物は、何度も引越しを繰り返すなかでも捨てられることなく、90年間、戦火にも災害にも遭うことなく保管されてきたわけで、子ども用の着物に仕立て直されてからは、合計7人の子の晴れの日に活用された。絹織物の伝播についてはたびたび訳す機会があったし、この数年は幕末の絹織物や生糸貿易について研究会で勉強してきたこともあって、絹地がこれほど長持ちすることに感嘆している。死んでいったカイコガたちも、少しは浮かばれるだろうか。 
 
 帯は3歳のときのお被布同様、大丸に勤めていた叔父の社員割引を使って、いとこの家が奮発して誂えたという立派な全通帯だ。小物類もおおよそ残っていた。娘の七五三のときは近所のおばあちゃんが着付けをしてくれ、髪は私が適当に結って済ませたのだが、いまはそんなことを頼める人も近くにいない。髪と着物を着せるのはともかく、袋帯を結ぶのは、どれだけ動画を見ても素人では難しいので、結局、美容院にお願いすることにした。  

 着付け動画から腰紐、帯枕、前板、三本仮紐等々、まだまだ細々としたものが必要であることがわかり、手持ちの端切れや椅子の張り替えの残りのウレタンフォームで手作りした。やはり超多忙な娘の代わりに、美容院の事前打ち合わせに行ってみると、先に用意した手作り小物類は無事に「合格」したものの、さらにまだ伊達帯と髪につける鹿の子が必要だという。伊達帯のほうは15分工作で出来上がったが、鹿の子なる髪飾りはどうするか悩んだ。「そんな変なもの本当にいるの?」と、娘は懐疑的だった。調べてみると、もともとは手絡という日本髪を結うのに使った布で、それに京鹿の子がよく使われたのが七五三の風習に残り、名前も鹿の子になってしまったことがわかった。ならば、別に絞りでなくても構わないわけだ。母の遺品に細かい青海波柄のついたオレンジ色の帛紗があったので、それを細く切ってつなぎ合わせ、なかに綿を詰めてヘビのぬいぐるみのような代物をつくった。 

 そんなこんなで迎えたお参りの日は、新嘗祭と兼ねて横濱水天宮から神主さんがきて祈祷をしてくださり、ありがたいことに穏やかな暖かい一日となった。周囲を田んぼに囲まれた鎮守の森のなかにひっそりと佇むような神社だが、境内の銀杏が見事に色づいていて、着物の色ともぴったり合い、これ以上は望めないほどの背景となっていた。創建は1302年と言われているが、千木や鰹木のある神社が明治期に多くつくられたようなので、そのころ再建されたのではないだろうか。拝殿は吹き抜けの舞台になっているので、嵐の日とかでなくて本当によかった。 

 この日、娘のママ友で写真家のなみちゃんが撮影にきてくださり、夢のような午後のひとときを、その空気まで見事に記録してくださった。孫は最後にはくたびれはてて、着物の裾をたくし上げて長い階段を降り、車に乗る前に帯揚げをむしり取ってしまったが、それもまたよい思い出となるだろう。 

 次にいつ誰が着るのか、それまでこの着物が原型を留めるのかどうかも怪しいが、取り敢えずクリーニングには出そうと思って干しておいた着物を畳む段になって、裏地の薄い絹が随所で破れかかっていることに気づいた。表地はいまのところまだ形状を保っているが、次に誰かが着るとすれば、裏地は一部仕立て直さなければならないだろう。

同じ着物で2度の七五三を祝った代々の子どもたち。これは、7歳の着物だけ着たもう一人の親戚の子も含めた勢揃い写真。













 Photo @なみちゃん