2025年12月4日木曜日

七五三 7歳

 今月朔日に、舞岡八幡宮という神社に七五三のお参りに行ってきた。三歳の七五三のときは一緒に祝ったじいちゃん、ばあちゃんたちが、この間に皆、鬼籍に入ってしまったことを思うと年月の経過を感じる。2年前の春に逝ってしまった母にはとりわけ、ひ孫の晴れ姿を見せたかった。というのも、孫が着た着物は、亡母のお宮参りのときの着物だからだ。 

 私たちのころは、ちょうど祖父が倒れたりして余裕がなかったのか、千歳飴をもらったくらいだった。年の離れたいとこの七五三のときになって、この古い着物があることを祖母が思いだしたらしく、いとこのおばあちゃんが子ども用に仕立て直してくれたのだそうだ。いとこ姉妹が着たあと、その着物は別のいとこの娘や、うちの娘、姪たちが代々着て、七歳の七五三を祝った。3歳のときの写真に加えて娘がまた、同じ着物姿で勢揃いした合成写真をつくってくれた。それぞれの成長ぶりが一目でわかって、何とも楽しい写真だ。 

 この秋は仕事が重なり、多忙になることが以前からわかっていたので、夏前から髪飾りを用意するなどして、少しずつ準備を始めた。といっても、お金をかける気はなかったので、ヤフオクやメルカリで中古品を探したあとで、自分でつくれるのではないかと考え、手持ちの木のビーズに拾った枝をつけて、家にあったセタカラーを塗って簪をこしらえ、着物の柄に併せて牡丹もどきを描いた。櫛は数百円の白木のものを買って色を塗り、絵付けは「絵師」の娘に任せた。孫の好きなカブトムシとエノコログサ、それにアオスジアゲハをえらく上手に描いてくれた。あとは娘の成人式のときに私がつくったホロホロチョウの羽付きのビーズの髪飾りに、孫がこれまで拾い集めたヤマシギなどの羽を付け足すことでよしとした(娘同様、孫にも羽収集癖があるので、羽はいくらでもある)。  

 着物類はこの四半世紀ほど姉宅で保管されていた。1か月ほど前にそれを受け取りに行き、恐る恐る着物の状態を確認したところ、小さな染みは随所にあるものの、90年前の着物とは思えないほど良好な状態だった。母よりも着物のほうが長生きしたなと感慨深い。母はいまの北朝鮮の興南で生まれており、お宮参りの写真が現地の写真館で撮影されていることは判明していたので、この着物は曽祖母が縫って、曽祖父が段飾りのお雛様とともに送ったのではないか、などと叔母とともに推測している。その後、日本にもち帰られた着物は、何度も引越しを繰り返すなかでも捨てられることなく、90年間、戦火にも災害にも遭うことなく保管されてきたわけで、子ども用の着物に仕立て直されてからは、合計7人の子の晴れの日に活用された。絹織物の伝播についてはたびたび訳す機会があったし、この数年は幕末の絹織物や生糸貿易について研究会で勉強してきたこともあって、絹地がこれほど長持ちすることに感嘆している。死んでいったカイコガたちも、少しは浮かばれるだろうか。 
 
 帯は3歳のときのお被布同様、大丸に勤めていた叔父の社員割引を使って、いとこの家が奮発して誂えたという立派な全通帯だ。小物類もおおよそ残っていた。娘の七五三のときは近所のおばあちゃんが着付けをしてくれ、髪は私が適当に結って済ませたのだが、いまはそんなことを頼める人も近くにいない。髪と着物を着せるのはともかく、袋帯を結ぶのは、どれだけ動画を見ても素人では難しいので、結局、美容院にお願いすることにした。  

 着付け動画から腰紐、帯枕、前板、三本仮紐等々、まだまだ細々としたものが必要であることがわかり、手持ちの端切れや椅子の張り替えの残りのウレタンフォームで手作りした。やはり超多忙な娘の代わりに、美容院の事前打ち合わせに行ってみると、先に用意した手作り小物類は無事に「合格」したものの、さらにまだ伊達帯と髪につける鹿の子が必要だという。伊達帯のほうは15分工作で出来上がったが、鹿の子なる髪飾りはどうするか悩んだ。「そんな変なもの本当にいるの?」と、娘は懐疑的だった。調べてみると、もともとは手絡という日本髪を結うのに使った布で、それに京鹿の子がよく使われたのが七五三の風習に残り、名前も鹿の子になってしまったことがわかった。ならば、別に絞りでなくても構わないわけだ。母の遺品に細かい青海波柄のついたオレンジ色の帛紗があったので、それを細く切ってつなぎ合わせ、なかに綿を詰めてヘビのぬいぐるみのような代物をつくった。 

 そんなこんなで迎えたお参りの日は、新嘗祭と兼ねて横濱水天宮から神主さんがきて祈祷をしてくださり、ありがたいことに穏やかな暖かい一日となった。周囲を田んぼに囲まれた鎮守の森のなかにひっそりと佇むような神社だが、境内の銀杏が見事に色づいていて、着物の色ともぴったり合い、これ以上は望めないほどの背景となっていた。創建は1302年と言われているが、千木や鰹木のある神社が明治期に多くつくられたようなので、そのころ再建されたのではないだろうか。拝殿は吹き抜けの舞台になっているので、嵐の日とかでなくて本当によかった。 

 この日、娘のママ友で写真家のなみちゃんが撮影にきてくださり、夢のような午後のひとときを、その空気まで見事に記録してくださった。孫は最後にはくたびれはてて、着物の裾をたくし上げて長い階段を降り、車に乗る前に帯揚げをむしり取ってしまったが、それもまたよい思い出となるだろう。 

 次にいつ誰が着るのか、それまでこの着物が原型を留めるのかどうかも怪しいが、取り敢えずクリーニングには出そうと思って干しておいた着物を畳む段になって、裏地の薄い絹が随所で破れかかっていることに気づいた。表地はいまのところまだ形状を保っているが、次に誰かが着るとすれば、裏地は一部仕立て直さなければならないだろう。


同じ着物で2度の七五三を祝った代々の子どもたち。7歳の着物は実際にはもう一人着ているので、写真が入手できて掲載許可が出たら追加します。













 Photo @なみちゃん