2026年1月21日水曜日

『〈平等〉の人類史』

 2年越しで取り組んできた仕事がようやく形になった。本文が450ページほど、膨大な原注を入れると結局500ページを超える分量となり、私の得意ではない思想史の本であったことや、出版社側の都合等で、なかなか刊行に漕ぎつけられなかった。  

 この間、ウクライナ戦争はつづき、ガザ侵攻も悪化の一途をたどり、第2次トランプ政権が発足して、世界中が振り回されてきた。長年、自由貿易を主張してきた民主主義国のアメリカが、幕末の「不平等条約」の関税率が穏当に見えるほどの高関税を一方的に課すようにもなったのだ。今年に入ってからは、年始よりベネズエラの大統領夫妻を拘束したうえに、石油利権を獲得して内政に干渉するという事件に次いで、トランプ政権は中国・ロシアに対抗するという名目でグリーンランドにも食指を伸ばし、国内では移民・関税執行局ICEがナチスのゲシュタポや戦前日本の特高警察まがいの一斉検挙や家宅捜査を強行している。 

 予測不能なこの2年余りを、それなりに心穏やかに客観視しながら過ごせたのは、『〈平等〉の人類史』(作品社)を訳す機会に恵まれたことが大きい。これまでの常識では考えられないこうした展開が、戦後の民主主義社会の当然の帰結ではないとしても、十分に予測しえた結果であることを理解したからだ。 本書の原題はEquality: The History of an Elusive Idea(『平等——捉えどころのない理念の歴史』)という。著者のダリン・M・マクマホンはダートマス大学の歴史学の教授である。書名を見ても、多くの人はさほどピンとこないだろうし、かく言う私もリーディングを依頼されたときはそうだった。近年は単なる平等(equality)ではなく、結果の平等を実現させるべく、ハンディキャップを考慮した衡平(equity)が主流ではなかったのか。そんなことを考えながら、500ページ以上におよぶPDFを読み始めたのだが、いつのまにか引き込まれていった。レジュメにはこう書いた。「平等という考えは想像上のもので、絶対的な平等など矛盾した言葉だという著者の主張は、とりわけ示唆に富む。しっかり読み込んだら、視野が一気に開けそうな気がする」 

 大和言葉は極端に抽象名詞の少ない言語であるため、哲学や思想関連の翻訳は、まるで辞書をつくる作業のように、一つひとつ言葉の定義を確かめながら、漢語やカタカナ語を織り交ぜた訳語を選ばなければならない。本書のテーマ「平等」にいたっては、著者によるequalityの説明と日本語の「平等」の意味がどうにも食い違う。本来は「同等」のほうが近かったのかもしれない。「平等」は最澄が唐で学び伝えた概念と言われ、日本人なら10円玉の裏側にある宇治の平等院鳳凰堂が真っ先に思い浮かぶのではないだろうか。 

 私などは平等と言えば、漫画『ベルサイユのばら』で学んだ「自由・平等・博愛」や、「男女平等」や「四民平等」が思い浮かぶが、後者は「士農工商」とともに、最近の歴史の教科書からは消えているらしい。後世の歴史家が明治維新を美化するためにつくった用語だったのだろうか。「博愛」はいまはもっぱら「友愛」と訳される。もっとも、この言葉の本来の意味は兄弟愛であり、そこに姉妹は入っていなかった。私は男女雇用機会均等法が制定された年に、おそらくその恩恵を受けて就職したが、この法律の名称には「平等」ではなく「均等」が使われていた。このころには、「平等」はどこか道徳臭くなっていたのだろうか。 

 日本にいつequalityの概念が入ったのかは、ちょっと調べたくらいではわからなかったが、ヘンリー・ウィートンの『国際法原理』が1864年に中国語に翻訳されたとき、equalityに相当する中国語が見つからず、「平行」と訳されたというエピソードが本書で紹介されていた。この中国語版は『万国公法』は一年を経ずして日本にもたらされ、勝海舟や松平慶永、坂本龍馬らが読み、大いに感化されたという。その後まもなく、日本人は「平行」の代わりに古い仏教用語の「平等」を訳語として充てたようだ。空海が9世紀に一律に誰でも平等に扱う平等に扱う「悪平等」ではなく「善差別」を主張していたそうなので、仏教用語としての「平等」は当初から、数学的なイクォール「🟰」の意味の強い絶対的なequalityとはやや異なり、もう少し曖昧さを含む言葉だったのだろう。 

 西洋の厳密な意味の平等を掲げたアメリカの建国理念やフランス革命は、古代ギリシャ時代の民主主義を手本としていた。それは要するに、税金を支払い、兵役に就ける能力のある男性のみが対象で、奴隷や召使による労働にもとづく「メンズ・クラブ」的なものだった。古代のスパルタでは虚弱児や障害のある新生児は奴隷として売られるか、野垂れ死させられていた。従来の西洋の平等の理念は、能力があることを前提とした平等だったのである。だが、人の能力には当然ながら大きな幅がある。女性を含めるとなると、平等にしなければならない人数は一挙に倍になり、男性と同じ能力と義務を期待することも難しくなる。だが、能力主義の理想を頑なに信じる人は、能力の多くは世代を超えた財力から生みだされるという事実には目を向けない。  

 占領軍が駐留していた敗戦後の7年弱の期間を除けば、他国の支配下に置かれたことのない日本では、「鬼畜米英」だった時代の記憶はすぐに忘れられ、明治以来、西洋社会はおおむねずっと追いつくべき理想でありつづけた。実際には、二度の大戦のあいだの時期に、日本は国際連盟規約の前文に人種的平等条項を入れる人種差別撤廃提案を出し、欧米諸国の二重基準にいち早く楯突いていたことを、恥ずかしながら本書で初めて知った。だが、その動議が握りつぶされると、日本政府は西洋を真似て、独自の民族的、人種的優位性を主張し始め、近隣諸国に侵略するという愚挙に出たことはよく知られる。 戦後は、国連憲章によって主権平等が謳われ、日本でも自由と民主主義が目指すべき理想となり、欧米社会をロールモデルに西側陣営につき、ひたすら先進国の仲間入りをすることが国是となってきた。

 数世紀にわたり植民地化されてきた国々は、名目上は独立したものの、安い労働力として原料生産や下請け産業を担わされた。これらの国々に工場を移転させた先進国が環境を改善する一方で、「開発途上国」と呼ばれた国は公害を押しつけられ、いくらかでも経済が上向けば、今度は消費者として購買力を期待される。 主権平等は結局のところ建前だけであり、現実にはさらに核保有国として認められた米英仏中露の戦勝五カ国と、その他の非保有国のあいだには歴然とした差があった。インド、パキスタン、イスラエルはいずれも表向きは民主主義国だが、核拡散防止条約は非加盟で、脱退した北朝鮮とともに、公然と核兵器を保有している。近視眼的に日本でも核武装をという声もあるようだが、イラクやリビア、あるいはいまのイランのような事態にはならないのか。それとも、こうした動きは危うい均衡を保ってきた戦後の核をめぐる体制が総崩れになることを意味するのか。 

 この数十年は、先進国に端を発する人為的気候変動によって、もともと人間が暮らすには脆弱な環境であった地域に住めなくなった人たちが、どんどん移民となって先進国に押し寄せている。先進国でも、安い労働力である移民と競合する低所得者層ほど排外主義に傾くため、いまやどの国も極右が台頭してきている。本書のファシズムを扱った章はとりわけ面白く、引用されていたナチスの法学者カール・シュミットの言葉、「民主主義は第一に同質性を必要とし、第二に——その必要が生じるとすれば——異質性を排除または根絶しなければならない」は、あまりにも的を射ており、訳しながら思わず唸っていた。ファシズムはもちろん、民主主義から生まれたものであり、表裏一体のものだ。 

 いまや、西洋の道徳的優位は崩れ、国連憲章などが謳ってきた世界の道徳的秩序も崩壊の瀬戸際だ。古くは公民権運動に始まり、アイデンティティ・ポリティクスや、昨今の気候変動絡みのグローバル・サウスの訴えは、当初の「平等」の枠組みから除外されていた人びとが、西洋の二重基準を糾弾するものだ。著者マクマホンはアメリカ人らしく、この現状にまだ希望を失わないが、道徳的・精神的秩序を失えば、弱肉強食が当たり前の世界になり、いっそう混沌とするだろう。世の中には弱者のほうが圧倒的に多く、その人口は増える一方だからだ。機械化、IT化が進み、大量生産・大量消費も不要になったうえに、AI時代が到来したいま、能力の劣る弱者は強者にとって労働者としても、消費者としても不要になってきた。すべての人が必要に応じたものを受けられる平等な社会など実現するのだろうか。 

 著者は将来に向けた明確な指針を示しはしないが、「想像上の平等の歴史を学ぶことで、その平等を新たに想像し始めることができる」と語りかける。そのための材料を、この分厚い一冊が提供してくれる。 

 日本国内でも不穏な動きは広がっているし、主食である米の値段は二倍になったまま一向に下がる気配がないが、世界の国々と比べたら、いまのところまだ平和と言えるだろう。日本にも被差別民は存在したし、明治になっても身分制度は残った。それでも、日本列島という、ほかに行き場がなく、鉱物資源も乏しい島国で、ひたすら人力に頼って地域が共同で水を管理して稲作をつづけきた日本では、早くから奴隷や畜力、機械力を利用してきた西洋諸国よりも、結果的に平等な社会で生きてきたのではないだろうか。万人どころか万物の平等を説いてきた仏教の教えも、社会の根底には残っているはずだ。現状を憂える人びとが、幕末の過激な攘夷論者のように、安直なヘイト思考に走るのではなく、本書を手にして、今後どんな社会に生きたいのかを真剣に想像し始めてくれることを切に願う。

『〈平等〉の人類史』
(ダリン・マクマホン著、作品社)
 原書(左)のカバーの筆による二本線は🟰かと、ずいぶんあとから気づいた(苦笑)。
 邦訳版(右)は、平等にはつねに差異がつきまとい、一色に塗りつぶされるのではなく、同質と異質の相剋であることをデザイナーが表現してくださったもの。


 宇治の平等院鳳凰堂

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