きっかけは、ハンサムキャブという元祖タクシーのような一頭立ての二輪馬車について訳した際に、その説明をあれこれ読んだことだった。ウィキペディアの日本語ページに、ナルニア国物語の『魔術師のおい』で魔女ジェイディスが乗っ取り、古代の二輪戦車チャリオットのように乗り回したのが、この馬車だと書かれていたのだ。その挿絵は朧げながら記憶にあり、母宅から引き上げてまだ床の上に積み上がっている本の山から探しだして確認してみた。瀬田貞治は辻馬車と訳していて、馬車屋のコックニー訛りはべらんめえ調になっていたので、何やらダサい馬車なのだと思っていた。もちろん、それがハンサムキャブであることも、二輪馬車を立って操縦する行為が古代の戦士を思わせることも、子どものころの私には理解できなかった。原書は姉宅に行ってしまったのか見つからず、正確な言い回しは確認できないが、いまさらながら、そういうことかと納得したのだった。
ポーリーン・ベインスの挿絵は細かいところまでじつによく描けているが、肝心の車軸はどこを通っているのかわからない。このところ、車輪の仕組みばかり訳していたので、つい気になってあれこれ検索すると、古い写真も、現存する馬車の写真もたくさん見つかった。ハンサムキャブは、フランスの二輪馬車キャブリオレを改良する形で1834年にイギリスでハンサム氏が考案した新型だった。小回りが効き、重心が低くて安定がよいため、たちまち人気を博し、1869年5月にはニューヨークでも利用が始まったようだ。いろいろ見た画像のうち、メトロポリタン美術館所蔵のイラストに目が釘付けになった。何と軽やかな乗り物であることか! 19世紀後半の欧米社会は、自転車技術が大きく発達したことから、馬車に関しても軽量かつ丈夫で実用的な乗り物が多数生産されたのだという。
シンプルなデザインをしげしげと見ているうちに、この轅(ながえ)部分を人が引っ張れば人力車になると思い当たった。2017年に『馬・車輪・言語』を訳した折に、金貨チョコレートのフォイルを使ってチャリオットの模型をつくったあと、戯れに轅を逆にしてみたら人力車になることを発見して、一人で吹きだしたことがあったが、あながち間違いではなかったかもしれない。古代のチャリオットと車体を逆向きにし、乗客が座れるようにした軽量の二輪馬車がまずつくられ、それをヒントに馬の代わりに人間が引っ張る乗り物が考案されたのだろう。発明はあるとき突然生まれるものではないことは、今回の本でも随所で強調されていた。
人力車は日本で1869年か1870年に発明されたとされている。ウィキペディアの人力車のページには、1899年になってから「人力車発明人ニ年金給与ノ建議案」が提出され、1870年に和泉要助が発案し、何人かの助けを得て製作したことが認定されたと書かれており、これが通説となっている。ただし、ウィキのページにもあるように、当初から異論もあり、とりわけ横浜にいたアメリカ人のバプティスト派宣教師ジョナサン・ゴーブルは自分が発明者だと主張しつづけたことで知られ、1909年発行の『ジャパン・ガゼット50年史』に寄稿した長年の横浜在住者も『横浜市史稿』もその説を伝える。
ゴーブルは海兵隊員としてペリー艦隊のミシシッピ号に乗って日本に最初にやってきて、そこで知り合った日本人漂流民のサム・パッチ(三八)こと仙太郎とともに、1860年4月に妻イライザと2歳の娘ドリンダとともに再来日し、一時期、神奈川の成仏寺にヘボンやブラウンなどの宣教師とともに住んでいた。ドリンダは1862年にコレラで亡くなってしまったが、ゴーブル夫妻にはほかに2人の娘が生まれている。1867年にはグラバー商会の依頼でしばらく長崎などに行き、後藤象二郎や坂本龍馬にも会う。ゴーブルと土佐藩の関係についてはこのブログを参考にさせてもらった。翌年、横浜に戻ったころから妻の病気が悪化し、歩行困難になり、移動手段として人力車を思いついたという。
ゴーブルの来日目的は布教で、日本語版マタイ伝を刊行したことでいちばん知られるが、性格にやや難があり、宣教師たちとの関係もぎくしゃくしていたようだ。しかし、多芸な人で、肥後のプリンス(熊本藩主か)のために天草に製材所を建てる依頼がきたと、1861年に隣人だったフランシス・ホールに語っているほか、靴職人として生計を立てていたとの記述も見つかった。
1990年にF・カルヴィン・パーカーがJonathan Goble of Japanという評伝を書き、人力車の発明をめぐる問題に一章を割き、さまざまな典拠を上げている。この本の一部は、2017年にアメリカのフォトヒストリアン、マーナ・ゴールドウェアと大量のメールをやりとりするなかで見せていただいていたが、まだ自分で確かめていない。上智大学図書館にあるので、暇になったら館内閲覧させてもらおう。
取り敢えずネット検索するうちに、ゴーブルが人力車の設計をアメリカの知人であるフランク・ポーレイに依頼していたという記述がいくつか見つかった。ニューヨーク州北部のキューカ湖畔のプトゥニー村のポーレイはペリー艦隊に乗り込んでいた大工だったらしい。店に残っていた「人が引く車」の原型の木型を、その鉄鋳物部品を担当した鍛冶屋の孫が見ており、1952年に新聞のインタビューに答えていたという。当時はまだ自転車の車輪も木製だったので、ポーレイは車輪と車体を製造し、車軸、ハブ、軸受等にのみ鉄製品が使われたのではないかと思う。人力車が誰の発明かを論じた「インベンション&テクノロジー」のサイトでは、ポーレイが製作した完成品を船で横浜まで輸送したと書いているが、根拠はすぐには確認できない。
開港後の横浜で大八車が使われている様子は、生麦事件の賠償金が支払われた際にワーグマンが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に描いている。牛車のような巨大な車輪ではなく、それなりに実用的に見える木製のスポーク車輪がついたものだ。戊辰戦争時には砲車も使われたようだし、火消しの大八車も普及していただろう。大八車に病人を寝かせて運ぶこともあったかもしれない。実際、1871年1月号の『ジャパン・パンチ』にワーグマンが初めて描いた人力車は大八車の上に椅子を載せたような乗り物で、乗客の西洋人は仰向けにひっくり返り、車夫が梶棒に宙吊りになっている。
ちなみに、その下には「Suspension of Habeus Corpus」(人身保護の停止)と書かれている。サスペンションを「停止」と「吊り下げ」の両義で読ませて笑いを誘い、さらに乗り物のサスペンションも掛けたのかもしれない。
余談ながら、筆記体の文字を読み取ったあとフェイスブックで見た動画が、アメリカの国土安全保障長官クリスティ・ノームが人身保護令状の意味を勘違いしていたうえに、その停止がアメリカ憲法第1条第9節で反乱などの非常時以外は禁じられていることも知らなかったことを皮肉る内容で、おかげでよく意味を理解することができた!
人力車に話を戻すと、『ジャパン・パンチ』の1871年9月号のイラストでも梶棒が車軸を越えて後部まで一直線につながり、その上に幌付きの椅子らしきものがあるが、乗客の西洋人は長い脚の置き場に困っている。1872年10月になると、梶棒と椅子の角度はやや狭まり、車夫が梶棒を小脇にかかえても乗客が後ろに倒れない、いわゆる人力車の形になっているうえに、板バネのサスペンションまで備えたイラストになっている。明治初期のベアト撮影とされる写真の人力車は、サスペンションはないが、まさにこのタイプの原型的な乗り物だ。注目すべき点は、乗客の足の高さが車軸よりやや低めで、重心を下げて安定性を高めてあったと思われることだ。ハンサムキャブとそっくりではないか。
明治、大正時代の人力車の写真を見ると、実際にはいろいろなタイプがあることがわかる。ゴーブルが「発明」した乗り物は、設計面だけでなくおそらく製造自体もポーレイに頼ったものだったのだろう。ゴーブルとほぼ同時期に大八車に椅子を載せただけの乗り物を、偶然にか、噂を聞いてか、和泉要助が考案した可能性も大いにある。何しろ、1871年以降日本全国に瞬く間に広まったのだ。明治初期にハンサムキャブが輸入され、それを和泉らが見たとも考えられなくはないが、横浜絵などを見る限り走っている馬車は四輪馬車が圧倒的に多い。通説で言われるように、馬車をヒントにしたのであれば、ハンサムキャブのイラストを見た可能性のほうが高そうだ。
最後に、ゴーブルが人力車を考案するきっかけとなった妻イライザについて書いておきたい。イライザは1882年に45歳で亡くなり、横浜外国人墓地に幼い娘の隣に埋葬されている。2017年に別の埋葬者の墓を訪ねるために許可を得て奥の区画に入らせてもらった際に、たまたま見つけて1枚だけ写真を撮っていた。墓碑には「イライザ・ウィークス、J・ゴーブル牧師の愛する妻」とあり、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださるから」と、欽定訳聖書の詩編23章4節が刻まれていた。ゴーブル自身は翌年帰国し、1896年にセントルイスで没している。
2017年に前述のフォトヒストリアンとやりとりするなかで、ピエール・ロシエが1861年刊行のネグレッティ&ザンブラ社のViews in Japanのために撮影したステレオ写真で、イギリスのヴァイス領事の使用人である日本人男女3名とともに写る若い西洋人女性のことがたびたび話題になった。ヴァイス領事は独身で、ブラウン牧師の娘ジュリアでもない。何年かのちにゴーブル夫人のイライザの後年の写真を見たとき、あの写真の女性は彼女だと直感したのだったが、そのことを件マーナに伝えたのだったかどうか。いつか暇になったら、鎌倉の八幡宮にでも行って人力車にも乗ってみよう。
ハンサムキャブをレゴでつくってみたあと、ほぼ同じパーツで人力車もつくれるのではないかと試してみた。梶棒の角度がうまくついていないため、ミニフィグが苦労している(苦笑)
ハンサムキャブを乗り回す魔女ジェィディス
メトロポリタン美術館のサイトで見つけたハンサムキャブのイラスト。パブリックドメイン
ベアト撮影とされる明治初期の写真。オークランド図書館のサイトにあり、パブリックドメイン
ワーグマンの『ジャパンパンチ』3巻より
横浜外国人墓地にあるイライザとドリンダ・ゴーブルの墓。2017年撮影



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