2026年9月12日土曜日

『老中松平忠固史料集』

 昨年7月に刊行された論文集に次いで、「老中松平忠固と生糸貿易研究会」からこのたび『老中松平忠固史料集』(岩下哲典編、吉川弘文館)から刊行された。史料集は、研究会メンバーが4年にわたる活動のなかで掘りだした、これぞと思う史料を集めた第I部と、忠固の老中日記からの抜粋である第II部、および水戸・越前・彦根という雄藩の史料に描かれた忠固の比較検討表で構成されている。

 第II部の忠固日記は、この史料集の目玉と言ってよい部分で、これは鈴木乙都氏が中心となって実現した。東大史料編纂所データベースで写本の画像が見られるとはいえ、一コマずつ細切れに見ていく作業は見やすいとは言い難い。『昨夢紀事』の饒舌さとは対照的な忠固日記だが、そこに書かれたことも、書かれなかったことも、日本の開国史の重要な時期に忠固が幕政の中心にいたことを考えれば、重要な意味をもってくるはずだ。老中日記の翻刻という試み自体が、ほとんど類を見ないものだそうだ。

 第I・II部の多くは、史学者も知らない、またはよく調べたことのない史料であり、雄藩の公刊史料のほうは逆に、史学者なら一度は目にしているはずのものだ。ところが、そこでは忠固は「敵」や「悪者」や「無能な老中」とされていたために、史学者も彼の存在に気づかないか、興味が湧かないままに、歴史の脚注に葬り去っていたに違いないものだ。この比較表は、関良基先生の労作だ。論文集に輪をかけて高額の本となってしまったが、研究者の方々や全国の図書館が購入してくださることを願っている。

  研究会は通算47回にわたったとのことで、基本的には毎月1度のオンライン会議だった。メンバーはそれぞれ独自の仕事や研究をかかえた人ばかりで、皆勤賞は、なかでもとりわけご多忙な会長の岩下先生くらいだったのではないだろうか。この間、たいへんなご苦労があったと思う。

   研究会の活動で何よりも貴重な体験となったのは、上田市立博物館と上田市立上田図書館で史料調査をさせていただいたことだった。上田にはかなり大量の史料が残されている。なかには虫食いのひどい分厚い史料もあったが、細い筆で書き込まれた墨の文字は200年近く前のものとは思えないほど黒々とし、和紙はまだ十分に形状を保っていた。博物館に収蔵されるまでに、誰によってどこで保管されて、今日まで残ったのだろうかと、ページをめくるたびに、包み紙を開くたびに、どきどきした。そんな体験を少しでも伝えられたら、という思いもあって、私自身は史料集に3点(掲載した画像としては4枚)の絵図を選んだ。 

 そのうち2点は京都のもので、上田藩と京都とのかかわりが何かしら見えてくるのではと期待してのことだった。1枚は上田藩の京都藩邸、もう1点は黒谷金戒光明寺の塔頭、歓寿院の絵図で、どちらも現存はしない。しかし、いずれも上田の領主となった藤井松平家が、上田に移る以前から、幕末まで維持しつづけていたものだった。他藩と比較することはできないが、それなりに特殊なかかわりだったのではないだろうか。 

 残る1点は、江戸の中屋敷で、忠固の没後に上屋敷となった隅田川沿いの瓦町藩邸の複数の絵図だ。瓦町藩邸は、私の高祖父がいた場所でもあったため、これまでに何度かコウモリ通信にも書いている。今回、史料集に掲載するために改めて調べたところ、すぐ近くが浅草御蔵で、藩邸の敷地内に入り込む形で入っているのが、その関連の御書替役場であること、藩邸のある場所が富士見の渡し場であり、南隣りの茅町には浅草代地河岸があり、柳橋芸者でも知られた繁華街であったことなどがいろいろわかってきた。要は交通の要衝であり、浮世絵にもこの一帯は数多く描かれていた。 

 絵図といっても、通りに面した狭い2箇所の入り口の複数の門の図や、内部の居住空間の大まかな平面図しかない。だが、そこに書かれた細かい文字を読み取ると、門の間口が12メートルほどであることや、見張りが常駐していたはずの番所や、非常口と書かれたくぐり戸があること、表通りとのあいだには下水が流れていたことなどがわかる。平面図には長屋がずらりと並ぶ様子が描かれている。江戸詰めの藩士は「家族を国元に残し、江戸の藩邸内の割屋・長屋に住んでいました」という『上田市誌歴史編 城下町上田』に書かれていた説明どおりなのだ。少し小ぶりの建物があったので、共同の「厠」かと思い、写真を拡大してみたら、「厩」であることがわかり、嬉しかった。 

 あれこれ眺めるうちに、いつもの悪い癖で、その門をつくってみたくなった。紙工作に始まり、少し進化してアイスの棒細工に、最後はレゴにまで手を出して、タン色のブロックやタイルをいくつも購入してしまった。1作目では門を開け閉めてしては、番所の兵士との会話を楽しんでいた孫も、レゴの門ができたころには「好きだね」と呆れていた。紙細工の門の前に立つ菅笠に野袴姿のおじさんは「大坂入城行列図」の絵巻のなかに見つけた高祖父を模したものだ。これも、3年前の史料調査で閲覧させていただいた。今回の史料集では、忠固が大坂城代に就任した弘化2年の同じ行列のものだが、絵巻とは別の行列帳の史料が、宮崎航平氏によって翻刻・解説されている。 

 私は絵図のほかに、短い老中書簡も2通、掲載していただいた。1通は、私が忠固について調査を始めた当初、『幕末外国関係文書』で見つけたハリスへの見舞い状で、卵300個を贈ったという目録が強烈で覚えていたものだった。冷蔵庫のない時代に、300個の卵を一度にもらったのか? 毎食、巨大オムレツをヒュースケンと2人で食べても、食べきれないぞ、などと想像して笑ってしまったものだ。ハリスがアメリカにもち帰った老中書簡の現物が、彼が設立したニューヨーク市立大学シティ・カレッジに残っていることがわかり、研究会に決して安くはない費用を負担していただいて、海を渡った老中連署の書簡の画像を史料集に含めることができた。残念ながら、卵の目録のほうは見つからないようだった。いつか誰かが現地でもう一度、探してくれることを願っている。 

 もう1通の書簡は、堀田正睦宛の老中書簡で、国会図書館のマイクロフィルムで明治期の写本は確認できたが、現物はあいにく見つからなかった。それでも、将軍継嗣問題に言及した重要な内容のものなので、忠固の立場を理解するうえで、いま一度、しっかりと読み返していただきたいと思い、敢えて加えてもらった。この問題に関しては、4年を経たいまも、研究会のメンバー内で意見の一致を見ていない。お互い、「推し」の歴史上人物があり、どの立場に偏って眺めるかで、結局、「藪の中」状態になるのが歴史という学問の宿命なのかもしれない。 

  昨日、史料集の刊行を記念して、研究会の活動の集大成となるお披露目会があり、私も参加してきた。昨年刊行の論文集にたいする佐藤隆一先生による詳細にわたる書評会があったあと、忠固のご子孫の方や上田の方々、関係の深かった地方からの方々、史学者など、大勢の方が参加してくださった史料集の記念講演会があり、そのあと丸ビルの高層階にある高級フランス料理屋に場所を移して、コース料理をご馳走になった。松平忠固の研究会が発足するきっかけをつくり、研究資金をご提供くださった東方商館の本野敦彦社長の奢りだった。上田藩は忠固の老中時代は西の丸下の役宅を上屋敷としており、36階のレストランからは、皇居一帯が見下ろせるという粋な計らいだった。これまで上屋敷の正確な場所を確認したことがなかったが、嘉永5-6年の大名小路の絵図によると、いちばん坂下門寄りが松平伊賀守だったようだ。左手に見えるのが桜田門だ。私の高祖父は幕臣とトラブルになって馬で逃げた際に、「桜田門内に駆け付け役屋敷を三匝して塀を乗り超えて邸内に」入ったらしいので、その光景も想像してにやりとしてしまった。 

 本野氏は20年前に、歴史の闇に完全に埋もれていた松平忠固を貨幣史の研究中に見出し、それ以来、忠固を世に知らしめるためにドラマ化を目指して奮闘されてこられた。その熱い思いがついに映画化のプロジェクトとなり、来年末公開を目指して動きだしているという。昨日は映画の関係者の方も何人もこられて、夕食会も大盛会となった。  

 本業だけでもいつも締切りに追われているので、慣れないことばかりのこの4年間は私にとっても本当に苦しい日々だったが、途中で投げだすことなく、ひどく足手まといになることもなく、何とか役目をはたすことができて肩の荷が下りた気がする。研究会の活動を通じて学んだ多くのことを、今後は気ままに、自分の好きな研究活動に応用していきたい。
 
上田藩瓦町藩邸の表門外取締門の①紙工作物

②アイスクリームの棒工作物、冠木門に屋根を付けた図

③レゴ・バージョン

丸ビル高層階からの眺め
大名小路内桜田神田橋内京橋南北図」東京都都立図書館 https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000013-00042225

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