2004年12月1日水曜日

人はそれぞれ

 少し前のことになるが、近所に住む姉のところへ行ったら、小学生の姪が玄関にぺったりと座り、自治会の班長をやっている姉のために、チラシを折ってセットする仕事を手伝っていた。のんびりした性格の子なので、雑然と置かれたチラシの山から一枚取っては折り目をつけ、向きを直し、それを丁寧に重ねていくという作業を繰り返していた。こんな調子でつづけたら、いつまでたっても終わらない。せっかちな私は手早くセットする方法を教えた。それによっておそらく作業時間はかなり短縮されたと思うが、姪はただ戸惑ったような顔を見せた。  

 私は単純作業や二度手間になることが嫌いで、できるかぎり効率よく、手間を省いて早く終わらせようと努力する。当然ながら、できあがりは少々雑だが、それが自治会のチラシくらいなら、誰も気にしない。  

 これまで私は、自分のこうしたやり方が正しくて、姪のように非効率的な方法は改めるべきだと思っていた。でも、はたして本当にそうだろうか、とこのごろ考えてしまう。たしかに、仕事となれば、効率よく利潤を追求することが求められるので、姪のようなタイプは不利かもしれない。しかし、非効率であることが、かえってよい結果を生むこともあるし、のんびりとつづけること自体を楽しんでいる人もいることを知ったからだ。  

 先日、大磯の文化祭に行き、そこで「こまたん」探鳥会の人たちと話をする機会があった。生物の専門家は誰もいないけれど、メンバーはみな鳥の観察が大好きで、夏のあいだ毎日、照ヶ崎の海岸に通ってアオバトを観察したり、丹沢の繁殖地を探し当てたりしているらしい。優れた研究も発表している「こまたん」だが、たとえば足環をつける生態調査はしないのだという。足環をつければ、正確に簡単に生態がわかるかもしれないが、それでは楽しみが早く終わってしまうからだ。鳥になるべく負担をかけないという気遣いもあるだろう。鳥にしてみれば、生態を観察されるほど迷惑なことはない。  

 動物の生態学を研究している学者は、新たな生態の謎を解き、それを人に先駆けて発表しようと鋭意努力するだろうから、「こまたん」のような考え方は信じられないだろう。本職ではないから、と片づけてしまうのは簡単だが、「こまたん」の話を聞いてから、人間にはいろいろな生き方があって、どれが正しいとは言えないのだと思うようになった。  

 結局、幸せな生き方に絶対的なものなどなく、人それぞれ何を幸せと思うかは違うのだ。どんどん新しい研究を発表して有名な学者になることに幸せを感じる人もいれば、鳥好きの楽しい仲間とひたすら鳥を観察することが幸せな人もいるのだ。たいていの人はおそらく、何らかの功績を残そうと努力するけれど、結局はたせず仕舞いに終わるのだろう。すべてを犠牲にして、脇目も振らず目標に向かって邁進した人は、人生の後半にさしかかって夢破れたときに、生きている意味を見失うかもしれない。たとえ目的をはたしても、そのために大きな犠牲がでたらどうだろうか。「こまたん」メンバーのように、研究の過程そのものを日々楽しんできた人なら、そうした心配は無用にちがいない。彼らにとっては、観察そのものが目的であって、研究の成果はあくまでもその結果でしかないからだ。  

 前述の姪は、別にそんなことを考えてチラシを折っていたわけではないだろうが、子供だって何を楽しいと思うかはその子しだいなのだ。もしかしたら、単純作業をしながら、姪は哲学的な空想にふけっていたのかもしれない。あれは余計なお節介だったかなと、いま反省している。

2004年10月30日土曜日

娘の修学旅行

 私が以前、勤めていた旅行会社は、修学旅行用に臨時列車を走らせたことからスタートしたような会社だったので、修学旅行部門は重要な位置を占めていた。一人当たりの旅行の単価は安くても、なにしろ大口団体だし、毎年決まって実施してくれるから、修学旅行は旅行会社にしてみればありがたいお客様だった。 

 もっとも、私自身は修学旅行を扱うセクションにいたことはなかった。だから、旗をもち、声を張りあげたバスガイドが先頭に立ち、修学旅行生をぞろぞろ引き連れているところに遭遇すると、ひるんでしまうのだった。なにしろ、旅行会社にいながら、私は団体旅行が大の苦手だったからだ。 しかし、会社を辞めて10年近くもたつと、修学旅行を取り巻く環境も大きく変わっていた。じつは先週、娘が沖縄へ修学旅行に行ってきた。生徒は3方面から自分の行きたい方面を選べた。少子化で学校全体の規模が小さくなっているうえ、こうして分割するので、各方面の全体数は50人から100人程度になる。この規模なら一般団体の枠組み内に収まるので、宿泊場所等の制約が少なくなる。また、班ごとに分かれて、タクシーやバスを使って自由に見学する部分も大幅に拡大されていた。  

 集合は羽田空港なので、各自で空港まで向かう。班ごとに集まると搭乗券をもらい、勝手にゲートまで行く。1日目はさすがに貸切バスで移動したらしいが、2日目からは完全に自由行動で、事前に立てた計画に沿って班ごとに好きな場所をまわる。娘たちのグループはアウトドア派ばかり集まっていたので、慶佐次のマングローブ、億首川でカヌーこぎ、新原ビーチでガラスボート、漫湖干潟と、沖縄の自然を満喫できる場所ばかり訪ね歩いたようだ。それも、2日目に手配してもらった観光タクシーの運転手と意気投合したとかで、3日目も予定を変更してあちこち連れていってもらったらしい。最終日は、それぞれ見学先から、ゆいレールなどを使って那覇空港に向かい、また班ごとに人員の確認だけして飛行機に乗り込み、羽田に到着すると集まりもせずそのまま解散だったそうだ。  

 これでは、旅行会社も宿と航空券のほか、ほとんど儲けるところがない。2日目の観光タクシーの料金を事前に集金していたのは、苦肉の策だろう。元同業者には同情しつつも、これだけ子供たちを信用し、自由行動させてくれた学校には感謝したい。ほとんどの子が沖縄は初めての旅だったにちがいない。それでも、事前に充分に下調べをし、計画を練れば、高校生でも問題なく旅ができることがよくわかった。もちろん、予定どおりに行かないこともあるし、事故が起こる可能性だってある。それでも、どの子も知らない土地でなんとか行動し、夕食の時間や、空港での集合時間に遅れることなくやってきたというのだから、すばらしい。その間、引率の先生たちは気が気ではなかったろう。 

 旅の楽しみは事前の計画と、行った先々でのハプニングと、現地の人との交流だと私はつねづね思っている。万事順調に計画どおりに行った旅など、味気ない。あらかじめ想定したことしか起こらないなら、家で旅のビデオを見るのと大差ない。多少のトラブルにもめげず、自分の足で歩いた旅だからこそ、それぞれの子の心に深く残るものとなっただろう。旅行会社には気の毒だが、修学旅行がここまで変化したのは、うれしい驚きだった。

2004年10月7日木曜日

土地開発

 今朝の新聞に、大量のチラシとともに、近所に建設中のマンションの大きな広告が入っていた。以前に住んでいたアパートの少し先にあった木立ちを切り倒し、山を削って建てたマンションだ。東海道がにぎわっていたころから、旅人を見つめていたのではないかと思われるような大木を無情にも引き倒し、巨大な穴になった工事現場は、とても正視に堪えないものだった。完成間近なマンションはすでに街並みと一体化しており、元の光景が思い出せない。  

 ここだけではない。この夏、足繁く通った尾根道から神社にかけての散歩道に、先日、二週間ぶりくらいに行ってみた。民家のわきにある小道を抜けて、その先にある私の好きな「山道」に出ようと思った途端、息を呑んだ。道そのものがなくなっていたのだ。木はすべて切り倒され、ブルドーザーが何台か忙しく働いていた。仕方なく、下の道を通って神社に行ったが、途中で何台も工事用の大型トラックとすれ違った。無性に腹が立ち、石でもぶつけてやりたい気分になった。  

 すべての土地が建物で埋まるまで開発しないと、気がすまないのだろうか。こんな山の斜面くらい、放っておいてくれればいいのに。ストレス解消で通っていた散歩道が、かえってストレスのたまる道となり、私には逃げ場がなくなった。  

 数日前、チンギス・ハンの霊廟跡が確認されたというニュースが報道された。チンギス・ハンの墓は、当初からありかがわからないように、目印もつくらせなかったという。そのニュースに関連して書かれていた白石典之・新潟大助教授の言葉が、とても印象的だった。「生きるために大切な草原に物をつくらないのが遊牧民の正しい姿で、チンギス・ハンはそれを守った」、というものだ。人間が地球の環境のなかに住まわせてもらっている、というこの謙虚な姿勢にくらべ、いまのわれわれはどうだろう?  

 まず、新しい道路ができる。すると周辺の山が崩され、どんどん宅地化する。山を崩し、木を切ると雨水が川にあふれるからか、最近のマンションはみな巨大な遊水地の上に建っている。子供の遊ぶ場所がないと困るので、申し訳程度に公園をつくる。人工の遊具しかない狭い公園など、小学生くらいになるともう見向きもしない。遊び場のない小学生や中学生は、ゲームセンターにたむろし、ショッピング街をうろつく。学校でいくら環境保護の大切さを教えても、自然に触れることのない子供は、何を聞いても実感できないだろう。  

 今朝のマンションの広告には、小さな字で、環状2号線沿いの西側の窓には、特殊なガラスを使用と書いてある。おそらく窓はとても開けられないのだろう。駅に近く、周辺にはショッピング街、病院、学校、公園があり、暮らしやすい環境だそうだが、本当にそうだろうか? 幹線道路から50メートル以内は癌の発生率が高いというニュースを、このあいだ見たような気がする。  

 チンギス・ハンの墓はあえて捜さないほうがいい。草原を掘り返し、墓をあばいて分析するより、謎のままにしておいたほうがいい。チンギス・ハンは静かに眠らせてやり、モンゴル人の昔からの知恵を「先進国」の住民に聞かせてやるのが一番だ。

2004年8月30日月曜日

大叔母を訪ねる

 先日、ふと思い立って、茅ヶ崎に祖父の妹に当たる人を訪ねてみた。娘が夏休みの宿題で祖先について書くというので、この大叔母に昔の話を聞いてみたらどうかと思ったのだ。  

 91歳になる大叔母の記憶は、最近のことになるとかなりあやふやだったが、昔のことは不思議と覚えていて、一番知りたかった関東大震災の話も、大叔父の助けを借りながら聞きだすことができた。私の祖父は本所に住んでいたので、震災で家は全焼し、焼け跡に残っていたのは金槌一本だったという話は、私も子供のころから何度も聞かされていた。当時、学生だった祖父は隅田川に飛びこんで難を逃れたらしい。この地震ですべてを失ったためか、祖父の家の記録はないに等しい。子供のころの写真も一枚しか見つからないし、早くに亡くなったという曽祖父の写真も一枚あるきりだ。  

 今回、この大叔母をはじめ、いろいろな親戚に昔の話を聞き、高祖父の代まではたどることができたが、その先は誰に聞いてもわからなかった。たかだか150年前に、自分の祖先が何をしていたかすら、知るすべがないのだ。  

 大震災のとき、祖父の家族が被服廠跡に避難し、そのあとすぐに別の場所へ移動したおかげで命拾いしたことも、今回の「調査」でわかった。この跡地には4万人が避難したが、そのあと火災旋風が起こったために約3万8000人がここで亡くなったそうだ。関東大震災が起きたのは1923年9月1日午前11時58分というから、いまから81年前のことだ。14万以上の死者・行方不明者をだし、57万棟が倒壊または消失したという。それだけの規模の災害となれば、関東の人はほとんどがなんらかのかたちで、この震災とかかわっているはずだ。だが、こうした災害ですら、80年も経てば人の意識からすっぽり消え失せ、9月1日は防災訓練の日にすぎなくなる。あと10年、20年もすれば関東大震災の体験者はほとんどみな他界してしまうだろう。1世紀という歳月は、人間の記憶を一新するのだ。  

 いや、人の記憶がなくなるのに、それほどの年月は必要ないのかもしれない。普通の家庭であれば、親の体験は多かれ少なかれ子供に伝わる。とはいえ、たいていの子は説教じみた話は聞きたがらないから、親の苦しい体験談を積極的に知ろうとするのは、よほど歴史に関心がある子くらいだろう。思春期になれば、親と必要なこと以外はしゃべらなくなる子も多いので、実際には子供に伝えられる期間はかぎられている。祖父母が近くにいる環境であれば、さらにひと昔前の記憶も伝わるが、祖父母とは疎遠という家庭も多いだろう。 

 そう考えると、50年、ひょっとすると30年くらいで、大半のことは忘れ去られるのかもしれない。ひとりの人間が生きた痕跡など、いとも簡単に消えてしまう。死んで10年もすれば、誰も私のことなど思い出しもしないと考えるのは、ちょっぴり寂しい。だから、祖先のことを若い世代の娘が調べれば、あの世にいる顔も知らない祖先たちは喜んでくれるだろう。91歳の大叔母の記憶は、今回の訪問で口から口へ確実に伝わった。ルーツを知ることは、自分を知ることにもつながる。暑い日に茅ヶ崎駅から延々と歩いて訪ねた甲斐があったような気がした。



2004年7月30日金曜日

猛暑

 暑い日がつづく。夜中に暑さで目が覚めるなんて、まるでバンコクにいたときのようだ。こうも暑いと、昼夜、冷房をつけっぱなしという人も大勢いるだろう。その点、わが家は、コンピューターのファンが唸るほど暑くならないかぎり、めったに冷房はつけない。午前中は東側の窓のカーテンを開けずに日射をさえぎり、すべての窓を開け、玄関のドアも半開きにして、扇風機をまわしてひたすら耐えている。  

 電気代を気にせずに暮らせるようになれば、私も一日中、エアコンに頼るようになるだろうか? そうなってみないとわからないが、ケチケチ生活をしていると、それなりに得るものがある。ただ暑い暑いと言っていると不快さが増すので、私は100円均一で買った温度計を目の前の壁にかけて、しょっちゅう気温をチェックしている。たとえば、いまは29度だ。なんだか暑くて仕事に集中できないと思うと、たいてい30度を超えている。これ以上は耐え難いと感じるのは35度以上。こう客観的にわかれば、それに応じて首を濡れタオルで冷やすとか、庭に水を撒いてみるとか、アイスクリームを食べるとか、ささやかながら対策がとれる。 

 先日、散歩にでかけたとき、ふと思い立ってこの温度計をもっていった。日傘を買ったものの、真夏の昼間の散歩は快適とは言いがたい。自然と木陰のある場所に足が向く。そんななかで、ひときわ涼しく感じる場所がある。尾根道の両側にちょっとした木立ちが残っている場所だ。崖の下は環状2号線が走っているのに、その一画だけはいつ行ってもひんやりとしている。それで実際、どのくらい涼しいのか、計ってみようと思ったわけだ。  

 日向の道路に温度計をだすと、目盛りは37度まで上がる。日傘の下では少し下がって35度くらいだ。日傘は紫外線を防ぐだけでなく、涼しいこともわかった。ちょっとした日陰に入ると目盛りはさらに下がって34度になり、前述の場所まで行くと、32度になった。ほんの数メートル手前の日向が37度なのに、この木陰は5度も気温が低いのだ。涼しいだけでなく、空気が澄んでいるような気もする。  

 木があるだけで、なぜこうも涼しいのだろう? 葉で日射がさえぎられることがまず大きい。それに木が生えている場所は地面の水分も多い。フィトンチッドのおかげで、さわやかな気分になるのかもしれない。わずかこれだけの木立ちが、なんの電力も使わずに5度も気温を下げられるとは、まったく驚きだ。  

 歩道でも、街路樹がある場所はいくらか涼しい。煉瓦で舗装されているところは、アスファルトよりも照り返しが少ない。定期的に水を撒ければさらにいい。日本は幸い、水が豊富な国だ。雨がもっと浸透するような舗装に変え、貯めた雨水を散水に使えるようにすれば、いくらか気温も下がるだろう。砂漠化すれば気温は一気に上がる。イラクは50度を超える暑さになるという。いったいどうやって人は暮らしているのだろう。 

 冷房の効いた部屋に閉じこもれば、電気を大量に消費するうえに廃熱で気温をさらに上昇させることになる。もう少し自然の力や人間の適応能力を知り、暑い夏を賢く乗り切れるようにならないだろうか。ケチケチ生活は、財布だけでなく環境にも優しいのである。

2004年6月29日火曜日

「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」

 先日、母が実家の前にあるクチナシを何本かもってきてくれた。何年も昔に引っ越していった人から譲り受けたこの木は、伸び放題に伸びて、いまでは見上げるような大木になっており、毎年、この時期に強い甘い香りを楽しませてくれる。  

 昨年、近所の人がご主人を亡くされたときも、母はこのクチナシをもって行ったらしい。花が終わったあと、その奥さんは枝を挿し木にし、それがうまく根づいたことを、とても喜んでくださったそうだ。何年か経てばきっと、毎年、命日が近づくたびに、甘い香りを漂わせるようになるだろう。  

 私のちっぽけな庭でも、一昨年の冬に近所の人からいただいた千両がうまく根づき、今年はもう花が咲いている。姪のかりんが生まれたときに植えた花梨の種は、すくすくと伸びて、今年初めて実を6個ほどつけた。強風の日、姪は実が落ちやしないかと心配したらしい。  
 庭中をみごとな配色の花で飾り、いつ見てもきれいな花が咲き乱れている家をよく見かけるが、花の咲いた苗を大量に購入し、咲き終わったら引き抜いて次の苗を植える、という園芸はどうも私の性には合わない。もちろん、私の場合は単に不精なうえに、庭の手入れをする時間がないせいもあるけれど、つねに花を絶やさないようにする必要があるのだろうかと、ときおり疑問に思う。それより、もう枯れたかと思った木から新芽が出てきたり、去年こぼれた種から、いつの間にかまた芽が出てきているのを見つけたりするほうが、よほど楽しい。  

 ペットにしても、同じではないだろうか。きれいに着飾った犬を、これみよがしに散歩している人がいるが、あのような人は飼い犬が老衰したら、最期まで面倒を見るのだろうかと、ふと心配になる。  

 以前の職場に、愛犬が老衰死し、悲しみのあまり有給休暇をとった先輩がいた。しょげかえった様子を心配した課長が、「おばあさんでも亡くなったのかな?」と、私にひそかに尋ねてきた。「いえ、そのう、いっ、犬なんです」と、私は答えに窮してしまったが、あれだけ家族同様に最期まで愛された犬は、幸せだったろう。  

「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」と、吉田兼好も言っている。生物はみな、生まれ、育ち、花開き、やがては老いて死んでいく。その途中だけを切り取って鑑賞するのではなく、変化を楽しみ、老いも死も受け入れることが、本当は重要なのだと思う。そうやって普段から生と死を身近に見てくれば、命の尊さが実感できるのではないか。  

 自分の理想からはずれれば、別のものと簡単に取替える。そういう考え方が、ひいては身勝手な殺人事件を起こすことつながるのだと、このところの一連の事件を見て思う。おそらく、人間はどんどん他の生物と接しなくなり、自分も生物なのだということを忘れてきているのだろう。

2004年5月30日日曜日

散歩のすゝめ

 このところ調子が悪く、いろんな人から気分転換に毎日歩きなさいと勧められたため、とにかく毎日かならず一度は外に出て、近所を歩くことにした。仕事が予定どおりに進むことなどまずないので、強迫観念からついコンピューターの前に座りっぱなしになってしまうのだけれど、眠いときや頭が働いていないときは、結局、何十分も同じ文章を繰り返し読んでいる。そんなときは、思い切って寝てしまうか、外に出るほうが、かえって能率が上がることに最近ようやく気づいたのだ。  

 たいていは一番眠い昼過ぎの時間が、私のお散歩時間になる。幸か不幸か、このあたりはどこへ行っても山あり谷ありなので、早歩きをすれば恰好のエクセサイズにもなる。途中でシジュウカラの幼鳥にでも出会えば、もちろん立ち止まって見とれてしまうのだが。  

 散歩の途中、疲れた様子で歩いているサラリーマンを見て、ふと会社勤めをしていたころを思い出した。来る日も来る日も同じ会社に通い、長時間拘束されたあげくに、夜遅くくたびれはてて帰る生活にほとほと嫌気がさして辞めたのだが、あのころはいつも、真昼間から自分の好きなところに行かれたら、どんなにいいだろうかと願っていた。だから、自分で時間をやりくりできる仕事に就いたはずなのに、そのことをすっかり忘れていたような気がする。こうして、たとえ30分でも昼間に勝手に散歩できることこそ、この仕事の大きな魅力のひとつだったのだ。ならば、その特権を楽しまない手はない。  

 そう考えたら、仕方なく始めた散歩がおもしろくなり、三日坊主にならずに、少なくともいまのところつづいている。歩いていると、毎日何かしら新しい発見もある。ついこのあいだまで、ちょっとした山道だったところが、すべて切り崩されて宅地に変わってしまったという悲しい発見もあった。梨農家が同じところにあるから、その場所だとわかるものの、すっかり開けてしまったその一帯から、かつての光景を思い浮かべることはもうできなかった。肩身が狭そうな梨農家が、ヴァージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』みたいに見えた。 

 歩くことには、別の意味の効能もある。普段、私はもっぱら自転車で用事をすませるので、なるべく平坦な近道をとろうとする。だから自然と同じ道ばかり通るようになるのだが、とくに目的もなく歩くときは、新しい道、ちょっと怖そうな道をあえて通ってみたくなる。それが案外、すばらしい近道だったりもする。決まりきった日常から脱せられるのだ。以前こんなことを聞いた覚えもある。毎日、同じ電車の同じ車両の同じ位置に乗って会社を往復しているような人は早くボケる、というのだ。毎日、家に閉じこもって画面にばかり向かい、同じスーパーに行って、同じ径路で店内をまわるような生活をつづけたら、これはマズイかもしれない。疲れた目と頭を休め、脳みそを活性化させるためにも、散歩は有益そうだ。  

 もっとも、この数日のように暑くて紫外線がいかにもたっぷりの日に、昼間から歩いたら、シミだらけになり、皮膚がんにすらなるかもしれない。ならば夕方にすればいいのだけれど、夕方になるとたいてい頭が冴えてきて能率があがるので、ちょっともったいない。やっぱり日傘でも買って、日焼け止めを塗りまくって昼間に歩くしかないかと思案中である。