2005年12月29日木曜日

アメリカのホストファミリー

 暮れにふと思い立って、アメリカにいる私の元ホストペアレンツに電話をかけてみた。私より一回りほど年上なだけの彼らは、高校生の私の面倒を見てくれていたころ、まだ結婚してまもないカップルだった。あれから四半世紀が過ぎて、そんな彼らもそろそろ定年を迎える。ホストマザーとはよくメールでやりとりしているので、それほど久しぶりという感じはなかったが、ホストファーザーと話すのはじつに十数年ぶりだった。  

 彼はパイロットで、無類の機械好きだ。一人で車を運転しているときは、絶対にラジオや音楽をかけない。エンジンの音を聞くのが楽しいのだそうだ。ある朝、ホストファーザーに学校へ送ってもらい、途中、ドーナツ屋で朝食をとったことがあった。彼はそこで紙ナプキンに図を描きながら、どうやって飛行機が浮くのか説明してくれたのだが、私は朝からドーナツにコーヒーという取り合わせと、やたら難しげな説明に参ってしまったのを覚えている。新しい路線を飛ぶ前の晩は、ホストマザーと私が呑気にテレビを見ている横で、彼は航空図らしきもの一心に眺め、翌日からのフライトのコースを頭にたたき込んでいるようだった。  

 ホストファーザーは毎日ランニングも欠かさない人だった。私もそんな彼を真似て、灌漑用水路沿いに一マイルほどジョギングをしていた。まだちゃんと運動しているかと聞かれて、時間があるときは泳ぎに行くけど、最近は忙しくて……と弁解すると、彼がこう言うのだ。「最近はみんな忙しすぎる。コンピューターのせいだ。コンピューターばかりいじっているから、みんな忙しいんだ。だから家では絶対にコンピューターは触らない」。そんな言葉を彼の口から聞くとは思いもよらなかった。そうか、あんなに機械や難しいものが得意な彼でも、コンピューターは苦手なのか。それで、彼からはメールもこないのか。そう思ったらおかしくなって、笑いがこみあげてきた。  

 考えてみれば、コンピューターがこれほど普及しだしたのは80年代なかばからだ。そのころすでに40代だったホストファーザーの世代は、ある程度は使えるようになっても、コンピューターにたいする抵抗感がある人が多いのだろう。まあ、そう言う私も、会社に勤めるまでコンピューターなど触ったこともなかった。それでも、いまでは毎日、コンピューターの前で長時間を過ごしている。私にとって、コンピューターはあまりにも日常生活の一部になってしまっているのだ。現に、今回の電話もインターネット電話を使い、70円弱で30分近く話をすることができた。なんと便利になったことか!  

 とはいえ、中学・高校時代からコンピューターに触れてきて、一日の予定管理から株の売買まで、あらゆる機能を活用している若者世代にはかなわない。いまの子供の世代にいたっては、親も充分にコンピューターが使いこなせて、生まれたときから携帯電話やカーナビなど、さまざまな電子機器がそろっていることが当たり前になっている。彼らが大人になったころには、ものごとの価値観が様変わりしているだろう。すべてのものが物理的な距離に支配され非効率的だった時代から、世界中どこでも瞬時に気軽にアクセスできて効率的な時代へと。もっとも、この25年間に便利さを得た代わりに、失ったものもたくさんあるにちがいない。 

 新しい一年はどんな年になるのやら。みなさま、本年もよろしくお願いいたします。

2005年12月1日木曜日

水について考える

 以前、新聞で、地下につくられた巨大な放水路に見学者が詰めかけているという記事を読んだことがある。江戸川の洪水予防施設としてつくられた全長6.3キロにわたる地下の大空間で、完成して実際に使用されるまで見学が可能ということだった。それこそ、昔のスパイ映画に登場しそうな地下の巨大な水路だ。  

 こんな巨大なものではないけれども、近所の川の横にはいまかなり大きな遊水地をつくっているし、新しく建つマンションの地下にも大きな貯水槽があることが多い。すぐ近くの小学校の地下にも大きな貯水槽があるから、大地震のときはあそこに行くといいと言われている。 実は先日、「雨と共生する水辺都市の再生」という国際シンポジウムに行ってきた。といっても、二日目の午後、参加しただけで、そもそもの目的は私が訳した本の著者ブライアン・フェイガンがこのシンポジウムに講演者として招かれていたため、彼に挨拶に行くことだった。フェイガン氏はがっしりした体格で、バイキングの子孫ではないかと思わせる気さくな感じの人だった。巨大なミシシッピ川に高い堤防を築いて管理することの危険について彼が書いたのちに、ハリケーン・カトリーナによる大被害が起きたため、講演の内容はそのことが中心になっていた。  

 フェイガン氏のあと、タイ、ドイツ、韓国、および日本の水と都市に関連するさまざまな分野の専門家の発表があった。インド洋の津波被害のあと、貯水池に塩が混じって飲み水として使えなくなった話や、地下水がヒ素で汚染されているバングラデシュで、竹を使って屋根の雨水を集める2ドル・プロジェクトを推進している話などは、切実な問題として強く印象に残った。雨として降った水が、コンクリートでおおわれた地面を流れて川に直行し、氾濫するのを防ぐために、最近は国技館のような大きな建物も、都心のビルも雨水を貯水するタンクを設けているのだという。大雨になることが予想されるときは、事前に時間をかけてその水を放出して備え、ふだんは溜めた水をトイレの水洗、散水などに使う。タイでは昔から民家に大きな水がめがあるし、ドイツでは地中に埋め込み式の貯水タンクを民家に備えて、それでトイレ、洗濯、庭木の水遣りなどを賄っているらしい。 

 日本では、「湯水のように使う」という表現があるほど、水は蛇口をひねれば当然でてくるものだ。私たちにとって水は便利で手軽なものだが、多すぎても少なすぎても厄介な問題を引き起こす。私はいまのところ、キャンプで水場から汲んできた水でやりくりした経験や、アルジェリアの砂漠のなかのホテルで水がでなかった経験はあるけれども、本当に水で苦しんだことはない。水の怖さのほうも、バンコクで多少の洪水を経験したくらいで、まだ本当に味わったことはない。このシンポジウムに参加したおかげで、ふだん、なんの気なく使っている水という資源について改めて考えさせられることになった。天から降ってくる雨水をうまく溜めて有効利用し、水害も防ぐなんて、これこそまさに人類の知恵だ。

2005年10月31日月曜日

イモムシにはまる

 昨今は虫嫌いの人が多いらしい。ムシキングやポケモンには夢中になるくせに、いざ本物の虫を見ると尻込みする子すらいる。虫嫌いの母親が、虫を見るたびに、汚い、危険、気持悪い(まるで3K!)と騒ぎたてるからだろうか。そのうえ不幸にも、幼児期にチャドクガに刺されでもすれば、間違いなく虫恐怖症になる。  

 かく言う私も、決して虫大好き人間ではない。でも、先月のエッセイにも書いたように、この夏初めてイモムシを飼い、キアゲハの幼虫のあと、ナミアゲハとクロアゲハに挑戦し、さらにルリタテハ、アオスジアゲハ、コスズメ、ヒメアカタテハと手を伸ばし、六匹の蝶を羽化させる貴重な体験をしたおかげで、虫を見る目がすっかり変わった。 

 たとえば、ルリタテハの幼虫は赤茶色の体にトゲがたくさん生えていて、いかにも毛虫だけれど、よく見ると渋い紬のような地模様をしている。Jの字型にぶらさがっている蛹化寸前の前蛹は、トゲが光って線香花火のようだったし、蛹になると、背中に二ヵ所メタリックに光るところがあってお洒落だ。ヒメアカタテハの蛹にいたっては、全身に燻したような金属光沢があって、イヤリングにしたいくらい。でもちょっと、ナルニア国の“死に水島”に沈んでいたレスチマール卿のようでもある。  

 蛹は羽化する直前に色が黒ずんで翅の模様が見えてきて、ほっそりとしてくる。太っていたおなかが徐々にへこんできて、妙に色っぽい体つきになるのだ。ちょうど幼な太りしていたのが、年頃になってすっきりと痩せたみたいに。以前どこかで、こんな美術品を見たような記憶がある。エミール・ガレの作品だった気がするのだが、蛹を女性に見立てたものだ。改めてガレの作品を見ると、彼がどれだけ丹念に自然を観察していたかがよくわかる。少年のころ、ガレは蝶の羽化を飽かずに眺めていたにちがいない。それできっと、いつかこの美しさを再現してみたい、と思ったのだ。ガレの作品の怪しげな美しさは、彼が自然の一番美しい瞬間を心にとどめて、その色や形や質感を表わすことにとことんこだわったからなのだ。トンボの翅のあの繊細さとか、蝶の翅のあの青の色を表わしたい、という願望が、次々に新しい技術を思いつかせ、あの不思議な世界を生みだしたのだろう。  

 時間がたっぷりあって感性の豊かな子供時代に、そういった感動を味わった子と、そうでない子は、成長してからものを見る目が違うはずだ。画面上で戦うしか能のないムシよりも、本物の虫のほうがよっぽど魅力にあふれている。静まり返った家のなかで、“はらぺこあおむし”がミカンやクスの葉をショリショリと食べる音が響けば、無性にうれしくなる。アオスジアゲハの幼虫が糞をしたあと、下半身が透けている様子は、求肥のお菓子みたいだ。

 もちろん、生き物だから、ときには不幸もある。先日も、クロアゲハの緑色の蛹がどんどん不気味な茶色になって悪い予感がしていたら、案の定、なかからブランコバエの蛆と思われるものが二匹、ブラーンとでてきた。せっせと与えた金柑の葉に、ハエの卵が産みつけられていて、幼虫のときにそれを食べて寄生されたらしい。これもハエの生きる知恵なのだろうが、大事なクロアゲハを乗っ取られたのはくやしい。まあ、よく見ると、蛆も黒い目のようなものが二つあって、ちょっと小トトロみたいだったけれど……。 まあ、虫は嫌い、なんて決めつけないで、一度、かわいいキャタピーを飼ってみてはいかが? きっといままでにない発見があるはず。

 ルリタテハの前蛹

 

 アオスジアゲハ幼虫

2005年9月30日金曜日

キアゲハの幼虫を飼う

 忙しさにかまけて庭のパセリを放っておいたら、いつの間にかとうが立ち、キアゲハの幼虫がたかっていた。黄緑色の体に黒の縞とオレンジ色の斑点がついた、なんとも奇妙な生き物だ。数日もすると、パセリはほとんど茎だけになってしまった。「飼ってみたら」という、娘の友人の虫博士のひと言に触発され、とりあえず大きめのを3匹、梅酒用の広口の瓶に入れて飼うことにした。それがこの夏のイモムシ騒動の始まりだった。 

 虫を飼うなんて、私が幼稚園のころ以来のことだ。捕まえて虫かごに入れた虫は、いつも餌と糞できたならしくなって、そのうちに死んでしまい、あまりいい思い出はない。飼うと決めたからには、きちんと餌をやって、こまめに掃除をすることにしよう。キアゲハの幼虫の食草を調べてみると、セリ科の植物らしい。ついぞ知らなかったが、パセリもセリ科だった。そう言えば、そばにあったキクの葉はまったく食べた形跡がない。あんなイモムシに、どうしてこれはセリ科で、こっちはキク科なんて見分けられるのだろう? 虫の餌を買うなんて、と思いつつ、近所のスーパーでパセリを買ってきて与えた。 

 青々としたパセリをたっぷり食べた幼虫は、しばらくするとやたらと暴れだし、その後、じっと動かなくなり、しなびて色艶が悪くなった。やっぱりだめか……。あきらめたころにふと見ると、なんと、縞模様がなくなって緑色の蛹になっていた! 縞はどこへ消えたんだろう? そこで、2匹目は監視体制を強化して、蛹化の様子をじっくり観察することにした。動かなくなったイモムシ――前蛹というらしい――をよく見ると、細い糸一本を体に回してぶら下がっていた。大きく痙攣したあと、背中が割れて、なかからまるで違うものが現われるところは、SF映画そのもの。縞模様がストッキングのようにするすると脱げ、ポトンと下に落ちたときは唖然とした。変身にかかる時間は、ものの5分くらいだ。  

 ところが、ショッキングな事件が起きた。スーパーのパセリを食べつづけた小さい幼虫が、次々に死んでいったのだ。結局、蝶になれたのは1匹だけで、羽化寸前までいった蛹も、なかで完全に蝶の姿になっていたのに、翅を広げて飛び立てなかった。パセリの農薬のせいだと断定はできないけれど、パセリ、シソ、セロリなどが、残留農薬の多い野菜のトップだと、あとから知った。初めて飼った虫たちの哀れな最期に娘はかなり参っていた。 

 そんなある日、ふと庭のパセリを見たら、伸びてきた葉にまたもやキアゲハの幼虫が……。育てる勇気のなくなった娘は、庭のパセリがなくなったら、餓死させるしかないよ、とあきらめ顔だった。ところが、件の虫博士と養子縁組の話をつけてきたらしく、4匹ほど引き取ってもらえることになった。いよいよわが家のパセリが丸坊主になり、残されたイモムシたちの運命がつきる日、私は駅の向こうの生協まで走った。パセリには懲りていたので、同じセリ科の三つ葉、セリ、明日葉などを買ってきて、念入りに水洗いすることにした。生協の野菜を食べて丸々太った幼虫たちは、無事にみな蛹化した。これだけ何匹もイモムシの世話をすると、私もちょっとしたお産婆さん気分だ。やたら動きだしたら、そろそろ前蛹になる。みずみずしい黄緑色からしなびた薄緑になったら、蛹化が近い、といった具合だ。秋の気配を察したのか、蛹はみなミイラのような姿で長い眠りについている。来年の春、めでたく蝶になれば、死んでしまったイモムシたちにも顔向けできるだろうか。

2005年8月31日水曜日

富士登山

 富士山に登ってきた。「富士山に登らないバカ、二度登るバカ」と言うそうだが、じつは私はこれが三度目だ。そのうえ、日ごろ運動不足で疲労気味なので、正直言うと出かける前からうんざりだった。ところが、以前から小学生の姪に、いつかかならず連れていってあげると約束してあった。そこで、同じくらい体力に自信のない私の姉と、もう一人の中学生の姪とともに、無理に気分を盛り立てながら出発した。  

 富士山に初めて登ったのは六年ほど前だった。近所のおばさんから、「富士山はどこからでも見えるでしょう。あの頂上に自分が立ったんだと思うと、なんでもできる気分になるよ」と言われて、思い立ったのだ。よく晴れた日には、船橋の小学校の校庭からでも富士山は見えた。富士山のように高い山でも、自分の足を一歩ずつ前にだせば、たとえどんなにのろくても、いつかはきっと頂上に到達できる。そのことを小さい姪にも教えたい。そう思うからこそ、これ以上、体力がなくなる前にその約束をはたすべく、重い腰をあげたのだった。 

 天候が最も安定するといわれる八月上旬に決行したおかげで、今回は晴天に恵まれた。初日は富士宮口から登って九合目の山小屋に泊まり、翌日未明に出発して頂上を目指した。富士山は禿山をひたすら登るだけなので、いわゆる山好きな人は少ない。まわりを見ると、ピカチューの特大の帽子を目深にかぶった子供、だぶだぶの学ランを着た応援団のような一行、キャミソール姿のギャルなど、信じがたい格好の人もいる。きわめつけは、尻尾付きのウサギの着ぐるみ。以前に登ったときは、白装束の中高年も結構いたが、今回は見かけなかったような気がする。海外からの研修生と思しき一行が100人近くいたせいもあって、中南米やアジア諸国を中心に、いろいろな人と挨拶をかわしながら登ることになった。  

 登り始めは、身体が慣れていないせいか結構しんどい。3000メートルを超えたあたりからは、高山病で気分が悪くなる人もいる。それでも、頂上を極めた人たちの顔は、一様にさわやかだ。山頂で北欧系のカップルが日本語で話しかけてきたので、「富士山に登ると、自信がつくでしょう」と返したら、「ジシン、怖いねえ」との答えが。仕方がないので、「おとといみたいな地震が、いま起きたら怖いね」と、ごまかしておいた。日本語は難しい。  

   山頂といっても、剣ヶ峰に登らないと3776メートルに到達したことにはならない。日本のてっぺんにあるこの測候所は、昨秋から常駐の人がいなくなり、自動観測になったそうだ。真夏の晴天の日ですら、ここに立つと足がすくむ思いがする。冬の猛吹雪の日など、どんな思いで観測をつづけたのだろうか。剣ヶ峰の先のちょうど大沢崩れの上あたりで、みごとな影富士を見た。富士山そのものの影が下界にくっきりと映っていた。  

   お鉢めぐりをしたらお汁粉にしようと、くたびれ気味の小さい姪をなだめすかしながら、火口をひとまわりした。頂上小屋で食べたお汁粉は、600円もするのにお餅一つ入っていないがっかりする代物だったが、姪は満足げに小豆汁をすすっていた。下りは、足は疲れるものの、息が苦しくないから助かる。小学生の姪は先頭に立ってトットコと降りていった。

  横浜からだと富士山は大きく見える。冬の晴れた朝、雪を戴いて宙にぽっかりと浮かぶさまは雄大だ。そんな富士を見て、私もあの頂上に立ったんだ、と姪は“自信”をつけてくれるだろうか。

 影富士

 日本のてっぺんでメールする姪

2005年7月31日日曜日

ダイエット

 このところ運動不足のせいか、数年前は緩かったはずのスカートがどれもきつくなっていることがわかって唖然とした。まわりには体重増加中の娘や姪もいるので、最近ダイエットの本を何冊か斜め読みしている。そのなかで驚いた共通点が1つあった。太るからと言って、食べたいものを我慢して食べないだめ、という点だ。健康によいものを自分が本当に食べたいと思うようになれば、自然に痩せてくるらしい。自分の欲望を一方的に抑えても、ストレスが増すばかりで、それがときおり爆発してかえって逆効果になるという。  

 子供のころ、「~しなさい」と言われると、途端にやる気が失せた。幸い、勉強しなさい、と言われた記憶はほとんどないので、もっぱらピアノのお稽古をしなさい、と毎朝夕、言われつづけたのだが。勉強にしろ、ピアノにしろ、自分から進んでやろうと思った日は、気持ちよくできたし、大いにはかどったのに、怒られて渋々と腰を上げた日は、少しも集中できなかった。だから、私の子供には、うるさく言わずに、なんでも自分でやる習慣を身につけさせてきたつもりだ。  

 でも、こうしたダイエット本によれば、自分のなかにいるもう1人の自分が命令を下し、欲望を押さえつけるのも、同じように効果があがらないらしい。自分に厳しい人間、自分を律することのできる人間が、かならずしもよい結果をだせるわけではないのだ。 

 それなら、自分を甘やかしていいのか、ということではもちろんない。要は、自分を強制するのではなく、やる気を引きだすことなのだ。ダイエットにしろ、勉強にしろ、仕事にしろ、自分がそれを楽しんでできるように、一種の自己暗示をかけるのだ。やらなければならないことと、やりたいことが同じ方向であれば、自分のなかの矛盾がなくなるので、ストレスを感じることもない。 

 問題は、どうすればやる気を引きだせるのかだ。まずは興味をもてるようにすることだろう。ダイエットなら、徹底的に食品の研究をして、カロリー計算ばかりでなく、それぞれの食品のもつ効果や先人の知恵を学び、実際に自分の身体で実験して、画期的な方法を開発するつもりにでもなれば、おもしろいにちがいない。勉強なら、与えられた課題をひたすらこなすのではなく、自分なりの勉強方法を見つけ、興味深いものがあれば、時間の許すかぎり脱線してとことん調べ、考えてみることだろう。仕事の場合は、なおさら苦痛なものが多いから、たいていの人は労働の対価を得ることに唯一の慰めを見出しているけれども、ストレスを減らすにはやはり仕事の過程を楽しむ努力も必要だ。受身の姿勢でノルマをこなすのではなく、効率を上げる、新しい需要を掘り起こすなどの工夫をすれば、どんな単純労働でも、いくらかは楽しくなるはずだ。 

 始める前や、集中できないときのために、気分転換の儀式のようなものも必要かもしれない。シャワーを浴びるとか、体操する、コーヒーを飲む、瞑想するなど、頭のなかをいったん空にできるものがいいような気がするが、まだこれといって自分にぴったりするものは見つからない。 ダイエットの本を読んで、思わぬ発見ができたような気がする。これで昔のスカートも履けるようになり、仕事も順調に進むようになれば、万々歳だ。

2005年6月30日木曜日

社会の一員としてのアイデンティティ

「戦場の結婚式」と題された連載記事が、少し前の毎日新聞に掲載された。沖縄戦のさなか、投降した日本軍の中尉とたまたま一緒にいた村の娘の「結婚式」の写真を米軍がビラに刷り、上空からまいて、投降を呼びかける心理作戦をおこなった。その一枚の写真をもとに、捕虜となった二人がどんな人生を歩んだかを、関係者を訪ねて取材したという内容だったが、戦後60年を経てもなお人びと心に残っているわだかまりの大きさに驚かされた。  

 ちょうど同じころ、40年ぶりにアメリカに帰国したジェンキンスさんを、郷里の人たちが冷ややかに迎えたというニュースが流れていた。脱走兵とされるジェンキンスさんの立場はさらに複雑だろうが、戦争中、日本では捕虜とならず玉砕せよと言われていたから、仲間を裏切り、敵国に寝返った行為と見なされた点では、どちらも同じだろう。  

 亡命、難民なども、国を捨てるという点では似ているし、暴力団から足を洗うとか、カルト集団から脱退する、あるいはもっと身近な例で言えば、他社へ転職するとか、学校の部活動を退部するといった行為にも、どこか共通するものがあると思う。自分の所属する集団と相容れなくなり、そこを抜けることは、とくに裏切るつもりはなくても、一般に内部の人間からは快く思われないのだ。 

 人間は社会のなかで生きる生物だから、自分が所属する社会のために貢献することは当然のこととされる。社会全体の利益となる行為は正当化され、奨励される。構成員は個人的な事情はいろいろあっても、社会のために働き、その利益を守り、拡大するために、精一杯つくさなければならない。社会につくせば、結果的に自分や家族のためにもなる。 

 こうしたことは、いずれももっともに思われるけれど、たとえば1つの社会の利益を追求することが、別の社会の不利益をもたらす場合はどうだろう? 他の社会を顧みず、自分の社会の発展だけを一方的に推進することに、疑問を投げかける人がいたとしたら? あるいは、人を殺したくないし、殺されたくもないと、平和時に誰もが思うことを、徴兵されて戦場に送られても、やはり思う人がいたとしたら? しかも、国の掲げる大義名分が、どう考えても間違っていると思われるとしたら?  

 どんな国でも、為政者が進める政策に国民が100パーセント賛成することはないだろう。社会が進んでいる方向が正しいのかという、疑問の声すらあげられず、国に忠誠をつくすことだけが無条件に強要されるのはたまらない。社会の軌道を修正しようとすることは、その社会を裏切ることではないのだ。  

 集団が比較的小さく、その周囲にもっと大きな社会が存在する場合は、外からの情報によって自分たちの間違いに気づき、軌道修正できるかもしれないし、そこから抜けだすことも容易だろう。しかし、1つの国全体がおかしな方向に進んでいった場合、そのなかで冷静な視点を失わず、正気を保つのはたいへんなことだ。 

 人間はいったん自分の社会にどっぷり浸かってしまうと、内部からしかものごとが見られなくなる。捕虜とか亡命といった問題も、それを内側から見るのと、外側から見るのでは、違った印象になる。過去を振り返って、見直すことも重要だ。ときには、鬼太郎の目玉おやじのようになって、別の場所から自分たちを客観的に眺めることも必要なのではないだろうか。

 6月23日は慰霊の日 琉球新報第一面より