2007年1月3日水曜日

消えゆくもの

 年末年始は、例年どおり船橋の母のところへ行ってきた。私が生まれ育ったマンモス団地は、数年前から建て替え工事が始まっており、母が住む地区も今春には全住民が立ち退かなければならない。だから、今回は正月休みというよりは、荷物の片づけに行ったようなものだった。  

 総数4600戸あまりというこの団地は、かつては子供であふれていた。私が小学校に入学したころは、たしか1クラス50人ほどで12学級もあり、あまりの児童数に4年生の1年間は近所の公園に建てられたプレハブの分校に追い出されたほどだった。  

 高齢化、少子化の波はここにも押し寄せていたが、うちの娘が幼かったほんの十数年前まで、近所にはまだ子供がそれなりにいて、異年齢の子が一緒になってよく遊んでいた。未整理の写真を片づけていたら、花見や水遊び、夏祭り、お月見、鮭鍋、芝滑り、雪の日のかまくら作りに橇やスキーなど、近所の人たちと家族ぐるみで遊んだ日々が蘇ってきた。 そんな幼なじみも、建て替えが決まってからは一人去り、二人去りといなくなり、代わりに空き家の数がどんどん増えていった。現在、母校は全学年合わせて50人ほどしか生徒がいなくて、この3月で閉校になるそうだ。  

 片づけの合間に、ゴーストタウンとなった近所を歩いてみた。建物はまだ昔と同じように残っていても、人の住んでいない家は一目でそれとわかる。窓が真っ黒だったり、反対側の窓を通して空が透けて見えたりするからだ。なんだか瞳孔の開いた目を見てしまったような、不安な気分になる。もう何ヵ月かすれば、ここはすべて更地になり、次に訪れたときには、まるで見当もつかない場所に変わっているのだろう。しょせん、形あるものはすべて歳月とともにいずれなくなるのだから、あまり感傷的になっても仕方ないが、もう二度と見られなくなる光景を、娘の友人からお借りしているデジカメで撮ってきた。  

 大晦日は、今年も真夜中に30分ほど歩いて、光明寺というお寺まで除夜の鐘をつきにでかけた。例年、近くまで行くと鐘の音が聞えてくるのに、今年はなぜか聞えない。もう人手のかかる鐘つき行事はやめてしまったのかと心配になったが、着いてみると今年もちゃんと、地元の消防団や町内会の人たちが篝火を焚き甘酒を振る舞いながら、待っていてくれた。新年と同時に鳴りはじめた鐘の音を聞き、火の粉をあげる裸火を眺めつつ、今年もこうして新年を祝えることを、しみじみとありがたく思った。変わらずにあるものを当たり前と思わず、それがまだこうして存在してくれることを感謝しなければならない。  

 元旦は、行徳まで初日の出と初鳥見にでかけた。行徳駅に着いたころには、すでに空が白みはじめていたが、競歩の選手になれそうな勢いで海まで急いだ甲斐あってどうにか間に合い、対岸にビルが建ち並ぶあまりにも都会的な海で、波間に浮かぶスズガモやカンムリカイツブリを眺めながら初日の出を拝んだ。そのあとは、行徳鳥獣保護区で娘の鳥仲間と一緒に観察会に参加し、穏やかな元日の朝にのんびりとバードウォッチングを楽しんだ。これまた別の友人にお借りしたスコープを担いで、一端のバーダーになっている娘を見ながら、こうして一緒に過ごせる日も、もうあまりないだろうと思った。  

 みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 十数年前はまだこんなだったが……

2006年11月29日水曜日

「キング 罪の王」

 久しぶりに映画を観てきた。ガエル・ガルシア・ベルナルというメキシコの俳優が主演する「キング 罪の王」というアメリカ映画だ。テキサス南部に住むキリスト教原理主義の牧師一家に、ある日、突然、隠し子が訪ねてくることから始まる悲劇、という内容に興味をひかれて、わざわざ渋谷まででかけた。  

 精油所が建ち並ぶ湿地帯も田舎町も、小ぎれいな住宅街も、この夏に私が訪れた場所とよく似ていたし、ドリー・パートンやボブ・ディランの音楽はなんともやるせない。ロックバンドが「ジーザス、ジーザス」と叫ぶキリスト教原理主義の教会の場面は、いかにもアメリカ的で興味深かった。しかし、なんと言っても、ストーリーの展開があまりにも衝撃的だった。クレジットが流れ終わるまで、放心したように席を立てなかったのは、私だけではなかったようだ。  

 ベルナルが演じる貧しい生い立ちの小柄なメキシコ美青年エルビスが、ウィリアム・ハートの演ずる、いかにもテキサス人風の大男の父親と対峙する場面では、おそらく誰もがエルビスに共感するだろう。美しい異母妹との禁じられた恋あたりまでは、偽善的なアメリカ社会との対比で、圧倒的にエルビスのほうが有利だ。ところが、しだいに彼の突飛な行動に観客はついていけなくなり、苦悩する牧師一家のほうに共感しはじめ、やがて衝撃的なラストでは、いったいなぜこんな結果になったのかと呆然とさせられる。主人公が途中から共感できない人物に変わるのだから、当然、観終わった後味は悪い。  

 エルビスが初めて父と対面したとき、父親は一応の礼儀はつくしながらも、内心のうろたえを隠し切れない。あのとき、もう少しエルビスを温かく迎えていれば、悲劇は防げたのだろうか。それとも、中途半端に受け入れたりせず、きっぱりと拒絶すべきだったのか。 『なぜノーマ・ジーンはマリリン・モンローを殺したか』という本に、モンローが実父を捜し当てて電話をかけた際に、冷たくあしらわれるエピソードがでている。生まれる前から父親に捨てられ、ほぼ養育を放棄した母親ものちに精神病院入りする、という境遇のモンローは、36年の短い生涯のあいだずっと、自分は親からも見捨てられた存在だという劣等感に悩まされた。女優としてどれだけ成功し、数知れない恋をしても、彼女の心の空虚感を埋めることはできず、最終的にやり場のない怒りを自らに向けることになったという。  

 親との関係は、人間の根幹をなすものだ。親の愛という生得権を奪われた子は、それを得ようと空しい努力をする。早くに親に死なれた子は、運命を呪うしかない。自分から親を奪った相手がいると思えば、その相手に嫉妬する。子供にとって欲しいのは親の愛情だから、捨てられたことに憎しみを覚えながらも、その一方でまだ愛情を求めずにはいられない。エルビス青年の不可解な行動は、こんな相反する気持ちからくるのではないか。 

 幼少時に心の傷を負った人は、成長してから情緒面や人格面に問題が生じるともいう。知能的にはなんら問題もないし、傍からはごく普通の人に見えるのに、極端に自尊心が低かったり、自己中心的だったりし、感情の起伏がやたらに激しかったりするのだ。そこに生活苦や人種的偏見などが加われば、怒りを外に向けて犯罪者となる人間は容易につくられる。離婚や日本人の父の認知・養育拒否などによって極貧の生活を強いられる「新日系人」が、フィリピンには2万人以上いるという。この映画が理解できないのではなく、実は現実の社会のほうが理解できないのかもしれない。

2006年10月30日月曜日

恋愛小説の翻訳

 10月になって娘の大学が始まり、朝5時半に起きて弁当をつくる生活に戻った。早起きするせいで午前中が有効に使えるのはいいけれど、午後になるとさすがに集中力も切れてくる。しかも、このところ日がな一日、恋愛小説を訳しているので、唯一の楽しみは、あと何ミリ……と右側半分のページの厚みが減っていくのを確かめることだったりする。  

「おとぎ話のような恋」とか書かれていると、ついげんなりしてしまう私だが、どんな本にもそれなりに発見はある。見知らぬ著者が書いた話を1文1文訳していく作業のなかで、訳者は著者の視点に立って物事を見ざるをえない。ただ読むだけなら、気に入らなければ本を閉じてしまえばいいし、反論も批判も自由だ。でも、翻訳の場合は、最後まで著者に付き合い、その主張を文章にしなければならない。だから、思考回路が異なる著者や、価値観の違う書き手の作品は疲れる。でも、考えてみれば、そういう作業をすることで、自分とは違う理論で、違う常識で物事を眺める習慣はついたのかもしれない。  

 たとえば、今回のヒロインは望まない妊娠に気づいたとき、自分で産んで育てるか、養子にだすかで迷う。一瞬、abortion(中絶)の間違いかと思ったが、確かにadoption(養子縁組)だった。舞台がアリゾナ州という保守的な土地だからか、中絶は選択肢にものぼらなかった。女性の場合、妊娠・出産は多くの犠牲をともなうから、養子にだしても世間体を保つうえでは役立たない。それでも、産むか産まないかの選択はなく、あるのは自分で育てるか人に育ててもらうかの選択だけなのだ。中絶が合法で、水子供養という免罪符までそろっている日本とはずいぶん違う。結局、未婚の母や養子制度を受け入れる許容量が社会にあるからなのか。堕胎は殺人という倫理観の問題なのか。それとも、アリゾナでは単に中絶が基本的に違法だからか。  

 こうしたことを考えだすと、しだいに頭が煮詰まってきて、それ以上パソコンの画面と向き合っていられなくなる。そこで、小雨のぱらつく強風のなか、私は外へ飛びだした。別にどこでもいいのだが、数年前、精神的に辛かったころよく通った神社に久々に行ってみた。途中の山道は、いまやすっかり住宅街に変わっていて、その真ん中に、梨農家が、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』のように、所在なげに座っていた。あと何十年か経てば、この家も、私が存在した痕跡もどうせなくなるのだから、あれこれ思い煩っても仕方ないか、と妙に心が軽くなる。  

 神社でわずかな賽銭を入れ、盛りだくさんのお願いごとをしたあと、急な坂道を登る途中で子猫を見つけた。あとを追うと、合計3匹の子猫と親らしき猫が2匹いた。子猫のうちの1匹は三毛猫だ。そう言えば、先ほどの小説に雄のcalico catがでてくるけれど、確か三毛猫はかならず雌と聞いたような……。家に帰ってネットで調べてみると、3万分の1の確率で三毛の雄も産まれることがわかった。猫の毛の色が変化してきたのは、人間がペット化したせいで、野生の猫は自然に同化する色になることも知った。要するに、適者生存の原理がどちらでもはたらいているのだ。ペットではきれいな色が好まれ、自然界では目立たない色が生き延びる。  

 こんなことをあれこれ考え、調べ、あとはひたすらパソコンに文字を打ち込んで、私の1日はまた過ぎていく。よく耐えているね、と娘にしょっちゅう言われている。でも、自分で選んだんじゃない、とも。

2006年9月30日土曜日

テキサス旅行2006年

 10日間ほどアメリカへ行ってきた。高校時代にお世話になったホストファミリー宅に泊めてもらったため、テキサス・オンリーの旅だったが、大学生になった娘を連れて四半世紀ぶりに訪れたアメリカ旅行には、多くの感動と新たな発見がたくさんあった。  

 テキサスはアラスカに次いで二番目に広いせいか、メキシコ湾沿いにあるためか、全米で最も鳥の種類が豊富な州らしい。私たちが滞在したヒューストン郊外の一帯は、グリーンベルトと呼ばれる緑の回郎が整備されていて、裏庭を抜けると、幅1.5メートルほどのコンクリート舗装の小道にぶつかり、そこを歩くだけで真っ赤なカーディナルやアオカケスはもちろん、42センチの大型キツツキにまで出会える。住民の多くは、この回郎をサイクリングやウォーキングに利用し、みごとに手入れの行き届いた湖畔の公園やゴルフ場で余暇を楽しんでいる。現地で知り合った鳥好きの人に、一日、メキシコ湾へ連れていってもらい、巨大な精油所の建ち並ぶ湿地帯で無数の蚊にたかられながら、多くの水鳥も見た。  

 週末はサンアントニオとテキサス・ヒルカントリーを旅行した。アラモの砦も見に行った。1835年~36年のテキサス独立戦争の折、ここでメキシコ軍と戦って命を落としたデイビー・クロケットら187名は、「メキシコ政府の圧制から自由」を守るため、命も惜しまなかった人びととして、アメリカ人に英雄視されている。この戦いに勝利して、テキサス共和国ができた9年後には、この広大な土地すべてがアメリカ合衆国に併合された。  

 テキサスには膨大な石油と天然ガスがあり、行く先々で小さな石油採掘機がちょっとした空き地で稼働しているのを見かけた。ガソリンの値段を見ると、1ガロン当たり2ドル35セント。1リットル72円くらいだろうか。日本のほぼ半値だ。テキサスが独立せず、メキシコ領のままだったら、世の中は変わったに違いない。一日中エアコンをつけ、どこへ行くにも車に乗るアメリカ人の暮らしを、これらの石油が支えているのは間違いない。  

 レストランでは、楕円の大皿に盛られた大量の料理がでてくる。店内を見回すと、8割くらいは肥満した人で、そのうち2割は信じられないほどの巨体だ。大量に食べて、大量のゴミを分別せずに捨て、ダイエット食品や薬に頼り、多くの時間をエクセサイズに費やす。なんと無駄の多い生き方か、と思わざるをえなかった。  

 一方、9・11がアメリカ人の心に残した傷の大きさも、言葉の端々に感じられた。かつては世界中の人びとの羨望の的だったアメリカ文化も、いまでは批判の対象になるばかりだ。それが彼らの自尊心を傷つけ、ナショナリズムに走らせているように思った。  

 でも、アメリカのそうした側面に賛成しないからと言って、アメリカ人全体を憎む必要はないし、アメリカ文化を全面的に否定する必要もない。今回の旅では、多くの人びとから温かい好意を受けた。エルパソからわざわざ会いにきてくれた昔の友人は、おいしいタコスをつくってくれたし、サンアントニオで泊めてくれた友人は多忙にもかかわらず町を案内してくれた。とりわけうれしかったのは、気難しいホストファーザーが、旅先からの私たちのリクエストに応えて、コーンブレッドを焼いて夕食を用意してくれていたことだ。私がモーニングサンダーという紅茶が好きだったことも、娘にリコリスを味見させたいと言ったことなどもちゃんと覚えていて、帰り際にさりげなくもたせてくれた。今度は25年も待たずに会いにきてくれよと言われ、私は強くうなずいた。

泊めてもらったお宅のウッドデッキで。実はせっせと仕事をしているところ
(画・東郷なりさ)

手入れの行き届いた(届きすぎた?)近所の公園

メキシコ湾:浜辺に水鳥がたくさんいた。

ついに食べたピーチコブラー:3人で食べてちょうどいい量だっ た。

アラモ砦:街中にあって、きれいに修復されているせいか、壮絶な戦いの跡地には見えなかった。

2006年8月31日木曜日

ペットと家畜

 このあいだ、カレーをつくろうと思ってラム肉を買った。パッケージに書かれた「仔羊肉」の表示を見て、一瞬どきりとした。このところカレーの本の仕事をしていたのだが、カタカナ語を減らそうと、マトンは羊肉、ラムは子羊肉としていたからだ。「子羊肉」では、メリーさんの羊を連想させてしまうかもしれない。編集者に相談した結果、「仔羊肉」とすることで落ち着いた。動物の子を「仔」と表記し、人間の子と一線を画せば、生まれて間もない羊を、私がカレーにして食べることへの罪悪感が少しだけ消える、ということか。  

 この件が妙に引っかかっていたところに、板東眞砂子さんが日経新聞に寄稿したエッセーで「子猫殺し」を告白し、それが大きな波紋を呼んでいることを知った。昨年、毎日新聞に連載された彼女のエッセーを読んでいたので、タヒチでのおおらかな暮らしぶりはおよそ想像がついた。南国の島では、人も動物もずっと自然に近い、ありのままの生活を送っている。避妊手術はせず、子猫が生まれたら自宅隣のがけ下に放り投げる、という行為は、確かにショッキングだが、あの背景ならまったく理解できないことではない。  

 もう二十年も前のことだが、タイの山岳民族の村で、池のまわりに子供たちが数人いて、鶏の羽をむしっているのを見たことがある。おそらくヒヨコから育て、さっきまで庭先にいた鶏だろう。その生々しい光景に私は血の気が引いたが、子供たちは嫌な顔一つせず、むしろ今夜はご馳走だぞと言わんばかりで得意げに見えた。ペットと家畜の線引きがあいまいな農村では、動物の生も死も生殖も日常の営みなのではないだろうか。 

 タイには野良犬もたくさんいる。乳首がずらりと並んで垂れ下がっている母犬をよく見かけたし、白昼堂々と交尾していて目のやり場に困ったことも何度もあった。日本では毛並みのよいお散歩犬しか見ないので、そうか、犬って本当はこんなだったな、と子供のころを思いだした。いまの日本で見かけるペットの犬猫の多くは、グラビアモデルのようにきれいだけれど、絹のお仕着せを着て宮廷に住む宦官のようなものかもしれない。  

 人間と動物がともに暮らそうとすると、それが家畜であれ、ペットであれ、どうしても不自然なかたちになる。食べられる動物の場合は、人間の胃袋に収めてしまえば、頭数の管理は容易にできる。しかし、食べにくい動物、利用しにくい動物はどうすればいいのか。こうした問題は、現在では野生動物でも起きているという。人間が特定の動物だけを保護しすぎると、それらばかりが頭数を増やし、環境を破壊してしまうのだ。鹿は最近、間引いて肉や革にする方向に進んでいるらしいが、猿はどうするんだろう?  

 板東眞砂子さんのエッセーは、人間社会がかかえている大きな問題に目を向けさせるものだと思う。彼女のやり方がかならずしも正しいとは思わない。いまの世の中には、子猫のような無力のものを殺すことに快感を覚える病的な精神の人がいることも考慮すべきだし、猫くらいの知能の動物にとって、避妊手術を施されることと腹を痛めた子を殺されることと、どちらがより苦痛かも検討の余地があるだろう。  

 それにしても、今回の騒動で何よりも嫌だと思うのは、問題を真っ向から見詰めた彼女にたいして、ヒステリックな抗議運動を起こしたり、ネットで匿名の暴言を吐いたりする人がこれほど大勢いる事実だ。自分の価値観だけが絶対に正しいと信じているのだろうか? 私にはむしろ、自分のうしろめたさを指摘されて逆上しているとしか思えない。

2006年7月31日月曜日

平静の祈り

 先日、家のそばの細い坂道に入ったところで、前方に小学校の一、二年生と思われる男の子が歩いているのが見えた。ふと見ると、泣きべそをかいている。子供と言えど、泣き顔は見られたくないかもしれないと思い、見て見ぬふりを決め込んだ。ところが、その子は私のほうを何度もちらちらと見る。ついに目が合ってしまったので、思い切って声をかけた。「どうしたの?」 
「忘れ物しちゃったんだけど、もう学校に入れないんだ」と、その子は言った。  

 よく聞いてみると、防犯上の理由で、いったん学校をでたら、もう教室に戻ってはいけないことになっているようだ。その日はちょうど金曜日で、大事なものを学校においてきてしまったことが、ひどくショックらしい。どうせ大切な玩具か何かだろう。  

 そんなことで泣く奴がいるか、と喉まででかかった言葉をのみこみ、何食わぬ顔で提案した。「まずお家に帰ってお母さんに頭を下げて、一緒に行ってもらえないかって頼んでみたら? 上級生はまだ授業中だし、お母さんがいればいいって先生も言うかもしれないよ」  男の子は半信半疑で私を見た。 

「それでもダメだったら、あきらめるんだよ。でも、とにかくやってごらん」 おばさんに入れ知恵されて、男の子は笑顔になり、喜んで駆けていった。その後、どういう結果になったかは、もちろん知らない。 

 このとき私の頭に浮かんでいたのは、じつは「平静の祈り」の文句だった。「神よ、われらに与えたまえ。変えられないものを受け入れる平静さを。変えうるものを変える勇気を。そして、両者の違いを見分ける知恵を授けたまえ」 この祈りを最初に唱えたと言われるラインホールド・ニーバーという神学者は、政治にも積極的に関与した人なので、本当はどれだけの人格者だったのかわからないが、少なくとも、この祈りの文句だけは、私の重要なおまじないになっている。 

 世の中にはいろいろな慣習や決まりがあるけれど、それらはしょせん共同体をうまく運営するために誰かがつくったものだ。つくった人があらゆる場合を想定できるわけではないし、時代とともに社会をとりまく事情も変わってくる。どう考えても納得のいかないことだって多々ある。そうした決まりごとは、盲目的にしたがわなければならないものではないし、かと言って自暴自棄におちいってやみくもに破っていいわけでもない。  

 普通の大人なら、「決まりだから仕方ないわよ。忘れ物をしたあなたが悪い」と諭すのだろうか。でも、あきらめきれないものもある。自分に正当な理由があると思えば、大人を説得することだって不可能ではない。そのためには信念も勇気も話術も必要だ。そういったものを、子供のころから少しずつ身につけていかなければ、不満をかかえながらじっと黙っているつまらない人間になるだけだ。ある日、その不満が大爆発することもある。  

 もちろん、あらゆる手をつくしてもだめなこともある。そのときは、その事実を淡々と受け入れる心構えも必要だ。とにかく、精一杯やったのだ。そう思えれば、案外あきらめもつく。難しいのは、いまが「変えられない」状況になったのか、それともまだ「変えうる」状況なのか、判断することだ。それは、子供のころから少しずつ体得していくしかないのだと思う。

2006年6月30日金曜日

ジグミ皇太子

「ジグミ皇太子のニュースを見るのに夢中で……」。しばらく音沙汰のなかったタイの友人がこんなことを書いてきた。タイ国王の在位60周年記念行事に出席した各国の王族のなかでひときわ輝いていたのがこのブータンの皇太子で、タイの女性のあいだで大人気だとか。 王族なんてあまり関心はないけれど、友人はどんな男性が好みなんだろうと好奇心がわいて、早速いつものとおりインターネットで「ジグミ(メ)」「ブータン」と検索してみた。すぐさま着物のようなものを着て、にこやかに微笑む人物がでてきた。「4人の妻がいて全員姉妹……」。えっ、この人を?と思ってよく見たら、これはお父さんのジグミ国王で、私の友人が惚れこんでいるのは、息子のジグミ王子のほうだった。オックスフォード卒の26歳。礼儀正しく謙虚かつ気さくな人柄で、なんと言ってもハンサム、と彼女はベタ褒めだ。  

 いくつかの写真を見くらべながら、私は考え込んでしまった。この顔どこかで見たことがある。確かにハンサムだけれど、白い歯を見せて笑っている姿なんて、ひと昔前によくいた、いかにも正義の味方風の面長の俳優や歌舞伎役者みたいだ。丹前のようなものを着ているところも不思議だ。ブータン人って、こんな顔をしているんだろうか。  

 ブータンという国があることは、子供のころからよく知っていた。なにしろ、国名がかわいいし、しかも、その首都がティンプーときている。『ヒマラヤの孤児マヤ』のネパールの隣でもあり、地名探しゲームにもよく出題されていた。でも、ブータンにどんな人が住んでいるかなど、恥ずかしながらいままでまったく知らなかった。  

 ブータンはチベットやインドの巨大な文化圏のはざまで、長年、外国人の立入を厳しく制限して伝統文化を保持している国で、GNPならぬGNH(国民総幸福)の追求を目標にしており、いまひそかに注目されているらしい。国民は、インドのアッサム地方から北上した一派と、北から南下したチベット系民族で構成されており、ブータンを訪れた日本人の多くが、この国の人びとに不思議な親近感を覚えるようだ。 日本とブータンのつながりはまだ明確にはわからないようだが、朝鮮半島経由で日本に渡った人びとと、どこかでつながっているにちがいない。DNAを調べて分析したら、おもしろい結果がでそうだが、自然人類学はとかく人種や民族の優劣を取りざたする厄介な問題につながりやすいし、いまは個人情報という点でも難しいのだろう。  

 日本人は古来より日本列島に住み、独自の文化を築いた民族だとよく言われるが、「古来」というのは、実はたかだか奈良時代あたりらしい。このころ同じ日本列島の住民という意識が芽生え、『日本書紀』という歴史を古代にさかのぼって書き、日本語をつくり、国民形成がおこなわれたのだ。それ以降の世代にとっては、その歴史が事実になった。  

 もちろん、言語、宗教、食べ物など、長年、同じ文化を共有することで民族はかたちづくられるのだから、たとえDNA上の共通点があっても、まるで違った人間ができあがるだろう。でも、ブータン人にこれほど親近感を覚える人が多いということは、数百年、数千年程度の歳月では変わらない、血によるつながりがあるはずだ。  

 ともあれ、ジグミ皇太子のおかげでまた少し関心が広がった。短期間のタイ滞在で、これだけブータンに外国人の関心を集めることに成功したのだから、あっぱれと言うべきか。