2014年12月31日水曜日

伊藤博文の千円札

 何年か前にアメリカの友人が、自分はもう使わないからと言って日本円とアジアの他国の紙幣を普通郵便で送ってきてくれたことがあった。開けてみると旧札だった。沖縄に駐留していた夫のもとで新婚時代を送ったときの記念として、何十年間も手元に置いてあったものらしい。このところ時間を見つけては片手間に幕末関連の本を読んでおり、伊藤博文や井上馨など明治の元勲の経歴を調べた際にふと昔の千円札を思いだし、この友人からもらった旧札を引っ張りだしてみた。そこには板垣退助の百円札も同封されていた。

  大英博物館のニール・マクレガー館長によると、「あらゆるイメージのなかで最も効果的なのは、あまりにもよく目にするためにほとんど気づかなくなっているもの、コインである。そのため、野心的な支配者は通貨をつくる」(『100のモノが語る世界の歴史』)。しかし、一万円の聖徳太子は別として、お札に刷られていたあとの人たちが誰なのか、子供のころはあまり気に留めたこともなく、両目のところで折り目をつけ、見る角度を変えて笑わせたり、泣き顔にしたりして楽しんだ記憶しかない。ウィキペディアで確認してみたところ、1951年に岩倉具視(五百円札)と高橋是清(五十円札)が、53年に板垣退助、63年に伊藤博文と、元勲たちが日本を象徴するイメージとして選ばれていた。明治以来、日本銀行券に選ばれたそれ以外のシンボルは、大黒様や菅原道真、藤原鎌足、武内宿禰など、神や伝説的な人物である。戦後、次々に元勲が選ばれたのは、当時すでに彼らが英雄としていわば神格化されていたからだろうか。

  伊藤博文と井上馨はともに、江戸末期に横浜居留地一番地にあった英一番館、ジャーディン・マセソンの支店長サミュエル・ガワーの手引きで1863年5月にイギリスへ密航し、長州五傑として知られるようになった。犬飼孝明氏(『密航留学生たちの明治維新』)などによると、長州藩がこのロスチャイルド系貿易商社から鉄製蒸気船ランスフィールド(壬戌丸)を購入した際に、井上が横浜で資金工面をしているので、そのときの縁故を頼ったようだ。伊藤と井上の二人はイギリスで薩英戦争や長州の外国船砲撃事件の報道を見て驚愕し、翌年6月に先に日本へ戻った。アーネスト・サトウは、「伊藤と井上はラザフォード卿に面会して、帰国の目的を知らせた。そこで卿は、この好機を直ちに捕らえ、長州の大名と文書による直接の交渉に入ると同時、一方では最後の通牒ともいうべきものを突きつけ、敵対行動をやめて再び条約に従う機会を相手にあたえようと考えた。……二人を便宜の地点に上陸させようと、二隻の軍艦を下関の付近へ急派した」((『一外交官の見た明治維新』)と書いている。

  ところが、この二人は渡航数カ月前の1863年1月まで、御殿山に建設中のイギリス公使館に放火するなど、過激な攘夷活動に走っていたのだ。犬塚氏によれば、井上はその直前には高杉晋作や久坂玄瑞らとともに、横浜の金沢まで遠出した外国公使暗殺計画を立てたものの未然に阻止されたため、「百折屈せず」と御楯組の盟約書に花押血判している。伊藤にいたっては、同年2月にも山尾庸三とともに塙忠宝と知人の二人を暗殺している。山尾庸三も長州五傑の一人で、のちに法制局初代長官を務めた。塙忠宝は塙保己一の四男で、幕命によって外国人待遇の式典について調査していたところ、孝明帝を廃位させようと企んでいると邪推されたあげくのことだった。 

 要するに、外国人や自分と異なる意見の人を短絡的に敵と決めつけ、放火や殺人も厭わなかった人びとが、当の外国人を頼って渡航し、あまりの国力の差に肝をつぶして前言を撤回し、外国の力を借りて政権の座に就いたのだ。君子は本当に豹変するらしい。その背景には、英公使館焼き討ち事件後に佐久間象山を訪ねた久坂玄瑞らが、象山から開国の必然性を説かれたことがあるようだ。井上は象山の海軍興隆論だけを聞きかじり、突然、「外国へ遊学して、海軍の学術を研究する必要がある」(「懐旧談」、犬塚氏の書に引用)と目覚めたという。 

 ハルビンで伊藤博文を暗殺したとされる安重根がテロリストか抗日義士かをめぐって、少し前にいろいろ騒がれていたが、当の伊藤は自身の非業の死を当然の報いと思っていたかもしれない。いずれにせよ、国を象徴する人物としてはあまりふさわしくないと判断されたためか、1984年にもう少し当たり障りのない夏目漱石に取って代わられた。件の旧札を送ってくれた友人は、かならずしも恵まれた人生を送っているわけではないので、円安で辛いが、せめて同額をドルに変えて、遅まきながら郵便で送ろう。このエピソードも添えて。 年末、仕事や雑事に忙殺されて引きこもっていたため、新年にふさわしくない話題で申し訳ありません。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2014年11月29日土曜日

『「立入禁止」をゆく』

 日ごろ私は運動不足解消を兼ねて近所を歩き回り、10キロ圏内くらいはどこでも自転車ででかけてゆく。往復とも同じ道を通ることはまずなく、途中で小道を見つければ入り込み、高台にでれば方向を確かめ、景観を眺めている。自分の住む街を、いわばテリトリーを探検し、そこで起こっているさまざまな変化を心に留めているのだ。そんな私だから、以前は通れた小道に、いつの間にか金網のフェンスが張り巡らされ、マンションの私有地につき立入禁止などという看板が立つと、腹立たしくなる。広大な土地を一部の人が買い占めた、という人間社会上の都合ゆえに、これまでそのなかを自由に突っ切ることのできたその他大勢の人の通行権どころか、ときには小動物の権利すらなんら考慮されなくなり、迂回を余儀なくされるからだ。  

 そんな私の性格を知ってか、翻訳仲間の桃井緑美子さんからのご紹介でいただいた仕事が、先月、青土社から『「立入禁止」をゆく』というタイトルで無事に刊行された。大まかに言えば、都市探検(urban exploration)の本なのだが、著者のブラッドリー・ギャレットは自分たちの活動をplace hacking、敢えて訳せば現場侵入と定義している。このキーワードで検索いただくと、驚くような場所への潜入写真がたくさんでてくるだろう。私は翻訳者にしては活動的だろうし、決められたことを従順に守る優等生であった試しもないが、著者が逮捕される場面から始まるこの作品には、正直言って、これを出版しても大丈夫なのかと少々心配になった。ギャレット博士は民族誌学の研究の一環として、みずから探検に加わるオックスフォード大の研究者なのだが。  

 一冊の本を訳すには、少なくとも数カ月間は著者に成り代わって、その主張を読者に訴えなければならない。著者の言うことがあまりにも深遠過ぎて理解できない場合も苦しいが、その主張に共感できないときはもっと辛いかもしれない。理解しがたい行動をとる人が主人公の小説を読んでいるみたいに、本書でもしばらく違和感がつづいた。建設途中のザ・シャードのてっぺんから、寒空のもとにロンドンの夜景を見下ろすなんて、私にはとんでもなく危険で愚かな行為にしか思えなかったし、下水道の探検など、アンジェイ・ワイダ監督の『地下水道』のような切羽詰まった状況であっても堪え難い。封鎖された入口を見つけだし、監視カメラをくぐり抜けながら深夜に地下鉄の廃駅に入り込むのも、全駅制覇するためにそこまでやるのかと、つい思ってしまう。都市探検という言葉ですら、日本ではあまり耳にしない。夜な夜なこんな活動をするほど日本人は元気ではないのか、危険なことには首を突っ込まないのか、善良な市民として禁じられたことはやらないのか、理由はよくわからない。かろうじて廃墟の探検だけはいくらか馴染みがあったので、本書に登場する若者たちの心情を少しでも理解しようと、根岸競馬場跡や松代大本営跡に行ってみた。  

 だが、日本では廃墟はそそくさと解体されるか、改修補強工事が施されて観光地と化してしまう。端島(軍艦島)なども、その典型例だろう。すでにツアーが何本も定期的に運行されていて、料金比較や口コミ情報までネットにあふれているので、ハイダイナミックレンジ合成された写真(HDR)の撮影場所としても手軽になり、単に長崎観光の一スポットとして上陸証拠写真を自慢するだけの場所になりつつあるようだ。つまるところ、あらゆることが経済活動となって消費の対象となり、娯楽産業や旅行産業によって提供されたスペクタクル、つまり見世物を、計画どおりに、期待されたとおりに、安全を保障されたかたちで楽しんで終わってしまうのだ。ひたすら稼いで、ひたすら消費するだけの人生に、彼ら都市探検家たちは、プレイス・ハッカーたちは疑問を抱いている。そして、危険に身をさらすスリルに生きていることを実感し、たがいに命を預け合うことで仲間と強く結びつく。  

 訳し進めるうちにいつの間にか、こうした若者を駆り立てる衝動やその背後にある日常の不満が理解できるようになり、そうなると、翻訳作業も順調に進むようになった。今回は久々に「僕」主語を使い、仲間同士の会話は許せる程度にくだけた調子で臨場感を重視するようにしてみた。見るだけで手が汗ばむような多数の写真とともに、楽しんでいただけたらうれしい。  

 もう一つ宣伝を。「100のモノが語る世界の歴史、大英博物館展」が来年4月から6月に東京都美術館で開催されます。『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)で取りあげた100点すべてがくるわけではありませんが、それに代わる品々も同じくらい好奇心をそそられるモノです。拙訳書もぜひお読みください! 

『「立入禁止」をゆく』 ブラッドリー・L・ギャレット著、    東郷えりか訳(青土社)

 『「立入禁止」をゆく』より

2014年10月30日木曜日

ナショナル・アイデンティティ

「自らを定義するために、人は他者を必要とする。では、敵もやはり必要なのか?」

 10年前にハンチントンの『分断されるアメリカ』の翻訳に携わった際に出合ったこの問いかけを、その後もたびたび思い返す。「一部の人は明らかにそうだ。『ああ、憎むというのは何とすばらしいことか』」と、ゲッベルスの言葉がつづく。この数年は、身近な隣国との軋轢が高まったからか、売国、国賊、反日など、まるで戦時中のような憎悪の言葉や、「ニッポン人の誇りを取り戻せ」、「世界に誇る日本文化」といったコンプレックスの裏返しのような主張もよく聞き、そのたびにナショナル・アイデンティティの問題を考えさせられる。  
 諸藩が競い合っていた幕末の日本で、国内統一の動きがでてきたのは、日本の近海に欧米各国の捕鯨船や軍艦が進出してきたのがきっかけだった。そうした外圧を受けて国体、皇国、尊王攘夷という概念を唱え始めたのが後期水戸学であり、一方、江戸中期に、それまでの仏教や儒学という大陸伝来の文化に反発して、日本古来の文化を追究したのが国学だった。いずれも日本がいちばんいいとする自国至上主義(ショーヴィニズム)にほかならないが、これが尊王攘夷論を生み、異国船打払令から、幕末に起きた数々の外国人殺傷事件や薩英戦争、下関戦争にまで発展した。  

 尊王攘夷を掲げていた雄藩は、いつの間にかその主張を倒幕へと変え、明治維新後は文明開化と称して一気に西洋化をはかった。維新後は彼らの天下となったため、鎖国下で時代遅れになっていた日本を近代化させた功労者のように評価されてきたが、よく考えるとかなり奇妙な展開だ。開国に踏み切り、進んだ西洋の技術を学んで日本の近代化を図ろうとしたのは、むしろ幕府側ではなかったのか。その中心で日本近代化の明確な道筋を示していた思想家の一人は、歴史書ではたいがい片隅に追いやられているが、佐久間象山だろう。  

 松代藩の朱子学者だった象山は、1840〜42年のアヘン戦争で清がイギリスに惨敗したことに衝撃を受け、天保13(1842)年に藩主真田幸貫が海防掛に任ぜられたのを機に、韮山代官の江川英龍のもとで兵学を学び、黒川良安から蘭学を学んだ。

 象山は同年9月下旬ごろに「海防八策」を提出し、11月には「海防に関する藩主宛上書」と題された長文を書いている。この上書には象山が中国やオランダの文献から知った当時の世界情勢が驚くほど詳しく書かれ、オランダから軍艦を買い上げ、専門家を派遣させて造船から海軍の訓練まで学ぶことから、国内にある銅を集めて大砲を大量に製造する必要があることなどが綿々と綴られている。1842年という早い段階での象山のこの提言は当時ほとんど理解されないままに終わったが、いずれものちに幕府が実行している。オランダから咸臨丸や朝陽丸を購入したのも、勝海舟らが訓練した長崎海軍伝習所も、もとは象山のアイデアだったに違いない。

 象山が描いた国家戦略は「夷の術を以て夷を制す」ものだったと、『評伝 佐久間象山』(中公叢書)で松本健一氏は書いている。下関戦争で長州藩が使用した18ポンド砲は、1854年に同藩が三浦の警備を命じられた際に、象山の指導で江戸で製造されたものだった。だが、朝陽丸は下関戦争中に長州藩に拿捕されて乗組員を殺害され、咸臨丸は戊辰戦争中に清水港で同様の憂き目に遭い、どちらも官軍側に渡った。  

 象山の門下生のネットワークは、小林虎三郎、岡見彦三から河井継之助、坂本龍馬まで全国にまたがり、それが維新の原動力となったと言っても過言ではない。やはり象山門人だった吉田松陰はみずからの死を予期した時期に、松下村塾の教え子である高杉晋作と久坂玄端を象山のもとで学ばせようと考えていた。勝海舟は妹が象山の妻であり、蟄居中の象山のために原書から西洋鞍まで手配し、死後は遺児恪二郎の後見人となり、生活費などの面倒を見ている。 

 「海防に関する藩主宛上書」は、近代日本の発端をつくった重要な文書と思われるが、ネットでざっと調べた限りでは、この長文を掲載しているサイトは一つしかなく、口語訳は中央公論社の昭和45年発行の『日本の名著30』を借りて読まざるをえなかった。かたや、象山は白馬に西洋鞍を置くような西洋かぶれだったために攘夷派に殺され、三条河原に首をさらされたといった記述は、ネット上に多数見つかる。象山全集を少しでも読めば、彼の愛馬、都路(のちの王庭)が栗毛だったことも、詳細にわたる検視記録も見つかるはずだ。現場には息子の恪二郎と象山門人だった山本覚馬が駆けつけているし、三条大橋に掲げられた立札には「斬首・梟木に懸け可きの処、白昼其儀能ざるもの也」、つまりさらせなかったと書かれている。松本氏は、天皇の彦根への「御動座」こそ象山が危険視されたいちばんの理由と考え、「禁門の変をまえに、公武合体派の孝明天皇が幕府側によって彦根に遷され、ひいては江戸への遷都がおこなわれてしまえば、〈玉〉は幕府によって握られることになるからである」と書いている。  

 日本が独立国としてどうにか近代化をはかれたのは、鎖国時代にも海外に目を向けていた人びとがいたおかげだ。それなのに、いまだに象山が「西洋かぶれ」の奇人のように扱われ、暗殺者である河上彦斎というテロリストのほうを称賛するような風潮があるのはなぜなのか。排外主義、狂信的愛国主義とも呼ばれるショーヴィニストが、つまり外国人を目の敵にする攘夷派が、日本にはまだ多数いるからに違いない。人間の脳の進化速度は、時代の急激な変化に追いついていない、という脳科学者たちの指摘は本当らしい。

 象山神社の銅像

『象山の書』に掲載されていた 「海防に関する藩主宛上書」

2014年9月29日月曜日

信州旅行2014年

 このところ翻訳していた都市探検の本に、冷戦中、イギリスのウィルトシャー州に建設され、放置されていた巨大な地下都市に潜入する話があり、仕事が一段落したのを機に、その日本版とも言うべき松代地下壕に行ってみた。長野市松代町は母が子供のころ数年間住んだ町でもあり、母を誘って一緒に行った。  

 周囲を低山に囲まれた千曲川沿いの小さな町である松代は、長野電鉄屋代線が2011年に廃止されてしまったため、いまではバスで行くしかない。それでも、旧藩主の真田氏にあやかって六文銭の紋が方々に飾られ、古い町並みはよく保存され、歩いて回るのによい観光地だ。幕末に開国論を唱えつづけた佐久間象山も松代藩の人だった。門下生の吉田松陰の密航事件に連座して、長らく松代で蟄居させられたのち、1864年に幕命で京都に移り、西洋鞍にまたがっていた折に、皮肉にも松蔭の門下生ら尊王攘夷派に暗殺された。佐久間家はお取り潰しになり、生家は古井戸が残るばかりだ。昭和初期になって彼を祭神とする象山神社が隣に建てられた。戦後その社務所を借りて開かれていたバイオリン教室に小さい弟たちが通っていたため、母はよく自転車で送り迎えをしたそうだ。  

 象山は1849年に蘭書をもとに電信機を自作し、当時住んでいた伊勢町の御使者屋と60mほど離れた鐘楼とのあいだに電線を架けて、日本初の電信実験を行なった。母が松代に住んだのはそのちょうど100年後で、しかも御使者屋の真向かいの家だった! 鐘は青銅製だったろうに、戦争中に供出されてしまい、当時は鐘楼を見ても古ぼけた小屋があるくらいにしか思わなかったらしい。  

 佐久間象山の名前は松代にある象山恵明禅寺に因むというが、この象山に太平洋戦争末期に、「松代大本営」の名で知られる巨大な地下壕が突貫工事で建設された。ただし、象山には政府機関とNHK、中央電話局が入る予定で、近くの皆神山、舞鶴山にそれぞれ天皇御座所、大本営が入り、3つの地下壕を合わせると全長は10kmにおよぶ計画だった。終戦直前に75%が完成していたが、証拠書類はすべて焼き捨てられ、長らく放置されていた。1985年になって篠ノ井旭高校生がこの地下壕を調査し、90年からようやく一般公開されるようになった。現在、見学できるのは碁盤目状に掘削された象山内の地下壕の内、約500mの区間だけだが、ヘルメットをかぶり、ボランティアガイドの説明を聞きながらトンネルのなかを随分歩いた気がした。トンネルの横幅は4mで、その内3mに各機関の事務室をつくり、残りの1mを廊下にする計画だったそうだ。  

 最盛期には1万人が工事に従事したが、戦争末期の男手不足の時期で、そのうち6000人は朝鮮人だったと考えられている。強制的に動員されたかどうかをめぐって、看板の文字がテープで修整されて話題になったので、ご記憶の方も多いだろう。工事は硬い岩盤をダイナマイトで崩し、岩屑をトロッコや人力で運びだすしかなく、作業は過酷だったという。母は戦後に松代に引っ越したこともあり、地下壕のことは何も知らなかったらしいが、祖父の病院に象山付近の飯場を指す「イ地区」の患者がきたことは覚えていた。伯母によれば、長野市内の病院にいたころ、負傷者が担ぎ込まれることがあって、祖父は戦後に地下壕工事との関連に気づいていたようだ。それにしても、住民が大勢立ち退きまでさせられながら、戦後何十年間も、高校生が調査するまで、こんな怪しい大事業について詮索されず、沈黙が守り通されたというのは、驚くべきことだ。  

 旅行前は時間がなく、ろくに下調べもせずにでかけたのだが、帰ってから少しばかり調べてみた。大本営移転というのは、本土決戦になって国土が焦土と化し、国民が死に絶えても、国体、つまり天皇を中心とした政体は護持すべしという発想によるものだ。この国体論は「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張した吉田松陰から始まるらしい。松代が選ばれた理由は、海岸線から遠く、岩盤も地元民の口も堅いうえに、信州は神州にも通じ、皆神山まであるということだった。ところが、皆神山は溶岩ドームで崩れ易く、結局、倉庫にしかならなかったうえに、1965年代から起きた松代群発地震ではこの山が震源地となった。地元民はその形状から、親しみを込めてケツ(なり)山と呼んでいるというから笑える。昭和天皇ご自身は移転計画を画策する陸軍に不審をいだきつづけ、戦後、長野を訪れて「戦争中、この辺りにムダな穴を掘っていたというが、それはどこですか」と、長野知事に尋ねられたそうだ。  

 大本営移転を発案して進言し、松代の地を選んだのは、陸軍士官学校を卒業して間もない、陸軍省軍事課の井田正孝という少佐だった。1935年ごろから平泉澄の青々塾に入門し、大政翼賛会常任総務の井田磐楠の養嗣子になっている。日本の降伏を阻止しようとした宮城事件の首謀者の一人でもあり、8月15日未明の阿南惟幾の自決の場にも居合わせた。戦後は在日米軍司令部戦史課でウィロビー少将のもとに勤務し、電通に入社し、総務部長および関連会社の電通映画社の常務を務め、2004年に91歳で死去している。東大教授の平泉澄は軍人教育に深くかかわった皇国史観のイデオローグで、戦後も全国で講演活動をつづけ、著書『物語日本史』(講談社学術文庫)は、ロングセラーになっている。  

 前線に送られた人の大半は餓死するか無謀な戦闘で若い命を落とし、軍の幹部の多くは自殺するか刑死したが、背後で暗躍した人間は戦後も巧みに生き延びたのだ。歴史とは、切り離された過去ではないことを実感した旅だった。旅のきっかけとなったブラッドリー・ギャレットの都市探検の本は、『「立入り禁止」をゆく』という題名で青土社から近々出版される。

 象山生家跡地

 象山神社社務所

 松代藩鐘楼

 松代地下壕

 皆神山

2014年8月30日土曜日

娘の最初の絵本作品Weihnachtsspuren im Winterwald

 8月の暑い日に、アトランティスというスイスの出版社からクリスマス・プレゼントが届いた。構想を練りだしてから2年半、ついに本になった娘の最初の絵本作品、Weihnachtsspuren im Winterwaldだ。イギリス滞在中に原案を制作したので、原文は英語、原題はLooking for Christmasだったが、昨年のボローニャ・チルドレンズ・ブックフェアで娘が各社に売り込んだ際に、運良く目を留めてくれたのが前述の出版社だったため、最初の作品が本人も読めないドイツ語で出版されるという、不思議な展開になった。理系の大学をでて、美術の教育を受けたこともなければ、英語もろくに勉強しなかった娘を、文字どおり有り金をはたいてイギリスの大学院の絵本づくりのコースに送りだした4年前を振り返ると、感慨深いものがある。  

 じつは娘が小学生のころ数年間ほど、幼なじみの友達も一緒に、遊び半分で英語を教えたことがある。私が大学で教わったとおりに、まずはリズムや音に慣れさせることを中心にし、そのとき教材に選んだ一冊がマリー・ホール・エッツの『もりのなか』の原書だった。他愛もない話なのだけれど、英語の教材にぴったりの単純な短い文ばかりで、白黒のシンプルな絵が不思議な魅力をかもしだす本だ。“When I went for a walk in a forest.”というリフレインが何度もでてくる。手で拍子をとりながら、抑揚たっぷりにこの箇所を繰り返すうちに、一語一語の意味はわからないまま、二人とも歌のごとくこれを覚えていた。子供はこうやって言葉を覚えるのかと、実感した一件だった。  

 大学受験も迫ったころ、少しでも英語の本を読ませたくて、ニック・ケルシュという写真家がレイチェル・カーソンの『センス・オヴ・ワンダー』にぴったりの写真を配した素敵な本を買ってやった。これは娘が初めて読み通したまともな英語の本で、見開きの写真の右隅に小さく印字されていた、“it is not half so important to know as to feel.”の言葉はよほど印象に残ったらしい。理系の大学をでたのに、研究者の道は進まず、進路を大幅に変えて絵本づくりの道に入ったのは、一つには周囲であまりにも多くの図鑑人間に出会ったためだったようだ。種の名前を覚え、見分け、自分が何種類の鳥を見たかということにばかり関心を向けがちな人たちは、自然を見て何か心を動かされることがあるのだろうか。逆に、人間社会やフィクションの世界にどっぷり浸かっている人が、現実に周囲に存在する自然に目も向けないことも思い知らされていた。  

 同書に、カーソンが甥と楽しむ、クリスマスツリー・ゲームという遊びがでてくる。それが娘のこの作品を生みだす直接のヒントになった。もっとも、実際には子供のころよく登った八ヶ岳で、登山道脇に極小クリスマスツリーみたいな針葉樹がたくさん芽生えているのを見たことがあった。のちに大学で植生を研究するようになると、娘は「林床には実生が多数ある」などと小難しい表現をしだし、一つのコドラート(区画)にどれだけ多様な植物があるかなどを調べるようになった。2年前、娘と二人で湖水地方を回った折には、あちこちの林でいろいろなサイズの若木を見ながら、話の筋を考えた。  

 原文を練った際には、親が知識としてただ子に教え込むことがないように、誰の台詞にするのか、どんな表現にするのか、同居していた絵本作家の卵たちと議論を重ねたそうだ。ページをめくるたびにでてくるリフレインは、大家のおばさんまで一緒になって考えてくれたという。訥々としていた娘の原文が、友人たちの力でリズムのよいきれいな英語になる過程を、メールのやりとりで見ていくのは刺激的だった。  

 ところが、出版が決まると、今度は編集者が各場面の科学的根拠から構図や全体を通しての人物の整合性、はては松ぼっくりの色まで、何度も細かい指摘をしてきて、そのたびにダメだしを食らった消しゴム判子が増え、刷り直し、スプレッド全体の数版のリノリウムの彫り直しまで、はてしない作業がつづいた。娘はその作業の途中で帰国したので、久々の暑さと度重なるやり直しにご機嫌斜めで、絵本づくりとはかくもたいへんなものかと思い知らされた。それでも、スイスの編集者はいつもユーモアたっぷりの励ましの言葉を忘れず、メールをもらうたびに娘はまた這いあがる力をもらっていた。アトランティス社にしても、こんなふうにまったく無名の外国人の作品を出版するのは初めてで、契約書を英文に翻訳するところから始めなければならかったという。紙の質感や色まで忠実に再現しようと努力してくれた出版社のおかげで、古風で地味ながら、読者が想像力を働かせる余地のある本ができあがった。  

 日本のアマゾン、紀伊国屋でも秋には取り扱ってくれるようなので、ドイツ語ですが、クリスマスに向けてよかったら読んでみてください。

 娘の初めての絵本作品

 話の筋を考えた湖水地方の林

 ニック・ケルシュの写真付きの
 『センス・オヴ・ワンダー』

2014年7月31日木曜日

神田小川町

「愛宕山に参って、下谷に寄って、松坂通って、目黒さんに参って、花坂下りて、お花を摘んで、お池のまわりをぐるっと回って、碁石を拾って、方々で叱られて、無念なことよ、お臍でお茶沸かせ」。こんな遊び歌をご存じだろうか? 頭、額、眉、目、鼻、小鼻、口、歯、頬、胸、臍と順番に触りながら歌う。 「東京市、日本橋、蠣殻町、パン屋のおツネさん」というのもあった。手の甲に、指一本、二本と線を引き、くすぐって、叩いて、つねる、という「一本橋こちょちょ」に似た遊びだ。いずれも母が、自分の祖母たちから教わった遊びで、母もよく孫たちにやって大受けしていた。  

 曾祖母のタケさんは神田の材木問屋の娘で、「松竹梅」ではないが、マスとウメという姉妹がいたというのが、私の聞かされていた話だった。目がぎょろりとして刈り上げ髪のモダン婆さんで、母は子供のころ一緒に住んでいたが、どうも苦手だったらしい。そのタケさんの生まれた場所が「神田区小川町一番地」であることがわかり、先日、梅雨の明けないうちにこの界隈を回ってみた。  

 私は長らく神田松永町に勤めていたので、須田町まではときどきでかけていたが、小川町はどこに位置するのか、いま一つ理解していなかった。娘の鳥グッズでお世話になっているバードウォッチング専門店ホビーズワールドが小川町なので、地下鉄の最寄り出口からお店までのほんの数メートルは知っていたが、私の頭のなかでその「点」はどこにもつながっていなかった。ネット上で明治時代の地図を見つけ、あれこれ調べるうちに、いまさらながらここが御茶ノ水駅から駿河台下まで下りた一帯、ちょうど学生時代にスキー用品を買いに足繁く通ったヴィクトリアやニッピンの店が並ぶ界隈であることを理解した。  

 曾祖母が生まれたのは1883年(明治16年)。江戸末期(1863年)の切絵図では、小川町絵図は内神田から飯田橋まで広がる広大な地域で、日本橋川沿いには騎兵当番所の馬場や洋学研究機関の蕃書調所があり、現在の小川町には老中だった稲葉長門守の上屋敷をはじめ、大名屋敷が並んでいた。小川町公式サイトによると、「明治5年(1872)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治11年、神田区に所属」したそうなので、曾祖母の家はその跡地に乗り込んだのだろう。明治時代には「東京を代表する繁華街」で、夏名漱石の『坊っちゃん』の主人公が「四畳半の安下宿に籠って」父の遺産である600円を投資して3年間学んだ東京物理学校や、「神田の西洋料理屋」がある学生街でもあった。  

 材木問屋は神田佐久間河岸にたくさんあったようだが、なぜ曾祖母の家は小川町にあったのだろうか。元禄時代に防火対策で、材木置場は深川猟師町や木場に移動させられたとのことなので、住む場所はどこでもよかったのかもしれない。佐久間河岸とどのくらい離れているのか確かめたいこともあり、浅草橋駅で下りて神田川沿いの通りを歩いてみた。見慣れた秋葉原周辺まではほんのわずかな距離で、そこから万世橋、須田町の交差点を通って靖国通りに入り、あっという間に小川町に着いた。なんと、ホビーズワールドの2軒先のビルが、漱石も訪ねたという金石舎のビルだった。美濃国の高木勘兵衛が1887年に創設した鉱物・宝石店らしい。表通りには昔を偲ばせるものは看板の文字くらいしかなかったが、裏通りに回ると、少なくとも昭和初期くらいの民家が二軒まだ残っていた。小川町界隈には以前にお世話になった編集者の事務所や神田医師会、白水社などがあった。稲葉家の屋敷神として祀られていた鍛冶屋稲荷は、幸徳稲荷神社と名を変え、ビルのなかにあった。この界隈はあちこちにお稲荷さんがあるが、開発の波のなかでどれも肩身が狭そうだ。  

 タケさんは、貧乏でも商売人ではなく医者と結婚したいと思ったそうだが、18歳で嫁いだあと、大勢の子供をかかえて早くに寡婦になったあげくに、関東大震災で焼けだされるという波瀾万丈の人生を送った。晩年の厳しい表情の写真からは、神田でニコライ堂の建設を眺めながら育ったであろう少女時代は想像がつかない。「洋画を観るのが好きな洒落た方だった」という親戚の言葉が、小川町の歴史を調べてようやく少し理解できた。

 佐久間河岸

 ニコライ堂

2014年6月30日月曜日

『姫神の来歴』

 ここ数カ月、あまりにも多忙で仕事以外何もできない状態がつづいたなかで、つい夢中になって読んだ1冊の本がある。『姫神の来歴』(高山貴久子著、新潮社)という日本の神話の謎を追った本だ。じつは著者の高山さんは大学時代の同級生で、卒業以来、音信不通になっていた。その彼女が昨年3月、本書の刊行を待たずに闘病の末に他界していたという訃報とともに、遅まきながらこの遺作のことを知った。きっこ(と私たちは呼んでいた)は、個性派揃いのクラスのなかでも、持ち前の明るさと美しい容姿ゆえにひときわ輝く存在だった。  

 日本の神話はこれまで私が敬遠していた世界だった。子供のころ松谷みよ子の本で、一連の神話を読んだのが最後だろう。神道と右翼がやたら結びついていることへの抵抗もあるが、古代の名前の読みにくさや、神話にありがちな矛盾だらけの突拍子もなさも、私が苦手とするものだ。しかし、「人は、実在しなかった人物やその事績を、長きにわたり、これほどの熱意をもって守り伝えることはするまい」という本書の序文につられて一気に読んだあげくに、たびたび引用されていた『出雲国風土記』まで図書館で借りて斜め読みしてみた。  
 本書のなかで、きっこは大胆な仮説をいくつも提示している。その一つは、八岐大蛇と国譲りの話が、実際には一つの連続した出来事ではないかという推理だ。出雲の地を治めていた大穴持命、つまり大国主命を、よそからきた(新羅と推測している)スサノオが酒を飲ませて斬り殺し、その妻であった櫛名田姫を奪って妻とした。しかし、それでは体裁が悪いので、八岐大蛇を退治したことにし、櫛名田姫を前面に立てるかたちで、事実上は自分が出雲を支配した。「出雲大社に大国主命が住まうとは、すなわち、〈死んで祀られた〉ことを意味する」。「櫛名田姫は、これ以上、国が荒れ、民人の命が失われることを良しとせず、新羅系渡来氏族との和睦を図ることとした」 櫛名田姫というのは、本来は『日本書記』にあるように「奇稲田姫」で、「霊妙なる実り多き田」という意味なのだそうだ。となると、「記・紀」にある櫛名田姫を櫛に変えて頭に差したエピソードは、のちに同じ音の「櫛」表記が定着して追加されたのだろうか。『出雲国風土記』にはスサノオがサセの木の葉を頭に刺して踊るという記述が見られる。出土している最古の横櫛は4 世紀末ごろで、呪力があると考えられていたそうだ。神話を彩るには都合がよさそうだ。  

 本書は1994〜96年に出雲の荒神谷遺跡などから300 本を超える銅剣と総数45個の銅鐸、銅矛16本が出土したことにも触れている。国内でこれほど大量の青銅器が一度に出土した例はほかにない。いずれも紀元前2世紀後半から紀元1世紀前半に製造されているそうだ。青銅器は一般に銅と錫の合金だが、インダス以東のアジア地域のものは鉛も含まれていることを、ネット検索で知った。錫の産地は非常に限られているし、鉛は同位体分析で産地が特定しやすい。『古事記』がつくられた712年は和銅5年。これは秩父市から日本で初めて銅が産出したことを記念した年号だ。733年完成の『出雲国風土記』にも金属に関する記述と言えば、飯石郡の飯石小川と波多小川に「有鉄」、大穴持命の本拠地の仁多郡に「以上諸郷所出鉄」と、砂鉄が産出する旨が記されているだけだ。荻原千鶴氏の解説によれば、中国山地では遅くとも6世紀には製鉄が行なわれていた形跡はあるそうだ。偶然ネットで見つけた阿部真司氏の「スサノヲの命の原像を求めて」という論文は、スサノオが産鉄集団のトップだった可能性を示唆し、『風土記』の飯石郡熊谷郷にでてくる久志伊奈大美等与麻奴良比売命(クシイナダミトヨマヌラヒメ)の名の「マヌラ」は、鍛冶の女神を意味するかもしれないと述べている。大量の銅剣や銅矛、銅鐸はどこからきたのか。所持していたのは誰だったのか。八岐大蛇からでてきた草薙の剣や、それに当たって刃が欠けてしまった十束剣は、鉄器の生産の始まりを暗示していたのか。本書を読んだおかげで、「神代」の出来事がおもしろくなってきた。  

 ついでながら、『出雲国風土記』は本草学の本かと思うほど植物には詳しく、動物に関しても、仁多郡には「鳥獣は、タカ、ハヤブサ、ハト、ヤマドリ、キジ、クマ、オオカミ、イノシシ、シカ、キツネ、ウサギ、サル、ムササビがいる」といった具合にそれなりに書かれている。タカ、ハヤブサの記述が多く、鷹狩りが盛んだったのは間違いない。狼は10郡中6郡に出没したらしい。タヌキ、カラス、スズメに関する記述はなく、なぜかムササビは頻出する。  

 きっこは、付箋紙だらけになるまで「記・紀」を読み、『延喜式神名帳』だの、貝原益軒だの、古代朝鮮の歴史書など多数の文献に当たり、およそ関係のある場所にはすべて足を運び、山奥の神社に祀られた神名を確かめ、土地の人に話を聞いている。美人のきっこにあれこれ由緒を問いつめられ、困惑する神主さんの顔が目に浮かぶようだ。詩人でもあった彼女は文章も美しい。10年かけて調べつづけたという入り組んだ謎のうち、神話に疎い私にもすぐに理解できたのはごくわずかだ。会ってもっともっといろいろ話を聞きたかった。

『姫神の来歴』高山貴久子著(新潮社)