2020年10月24日土曜日

古狐か穴馬か

 先日、ペリー来航時の森山栄之助に関連して言及した平山謙二郎について、気になって調べてみたところ、意外な事実が多々発見された。彼はハリー・パークスやアーネスト・サトウが古狐と呼んでいた幕吏であり、明治維新後は神道大成教の創始者となった。ペリー来航から明治初めまで、激動の15年余りを政治の第一線で生き抜いたのに、萩原延壽でさえ『遠い崖』のなかで幾度となく彼について言及しながら、そのたびに注を入れなければならないほど、読者の記憶に残らない、その他の登場人物としてしか描いていなかった。  

 平山謙二郎(諱は敬忠、号は省斎、1815-1890年)は、陸奥国三春藩士の次男として生まれた。20歳で江戸にでて叔父の家に居候し、28歳で桑原北林と安積艮斎に漢学を学ぶ。桑原北林が没した際に、34歳でその次女を娶り、嘉永3年、36歳で小普請平山源太郎の養嗣子となり家督を継ぎ、翌4年に徒目付となった。徒目付は目付の配下にあって、60人から80人はいたと言われ、封禄は100俵5人扶持ほどだった。  

 ペリー再来航時には40歳という、決して若くはない年齢の徒目付が、どういう経緯で応接掛の一員のごとく振る舞うようになったのかは不明だ。『省斎年譜草案』によると、その前後に遠藤但馬守や本多越中守、戸川安鎮などから褒美をもらっている。「正月十三日、浦賀表え亜墨利加船渡来に付、御用を為し出立、(鵜殿民部少輔随行)」。鵜殿民部(長鋭、号は鳩翁)は目付であり、徒目付はその配下にある。林復斎ら4人が応接掛として選ばれた嘉永7年正月11日(発表は16日か)の翌日、小人目付の山本文之助と吉岡元平とともに「今十二日出立致し候旨、御達しこれ有り」と「川越藩日諜」(『大日本維新史料』第2編第1、pp. 663-667)に書かれており、当初は井戸弘道と鵜殿長鋭の二人に随行する予定だったようだ。  

 先述したように、2月初めの老中と応接掛の内密のやりとりを、水戸藩士だった内藤耻叟が『開国起源安政記事』(p. 60、1888年刊)のなかで書いているので、水戸側に鵜殿を通じて情報が漏れていた可能性もありそうだ。応接掛の第五委員に儒者の旗本である松崎満太郎(純倹)がいながら、アメリカ側の中国語通訳であるウィリアムズと羅森とのやりとりを徒目付の平山が担ったのは、漢文の筆談能力の差だったのか、オランダ語のやりとりが通詞任せなので、漢文の筆記対談も徒目付に任せたのか、あるいは諜報活動の一環だったのか、いずれにせよ、これを機に平山は頭角を表わす。  

 ちなみに、三谷博の『ペリー来航』(吉川弘文館)では、オランダ通詞の森山栄之助は町人身分と書かれていたが、森山は前年のプチャーチン来航後に小通詞から大通詞過人になっており、二本差しが許され、扶持が給される武士の身分であった。オランダ通詞は世襲であり、彼の父親も大通詞である。したがって、森山が一人でウィリアムズらと交渉をつづけるなか、沈黙を守りつづけた平山がその日の記録に、「天下の大事、象胥[通弁]一人の舌に決す。その危うきこと累卵のごとし。官吏環視してしかも一辞も容ること能わず」と書いたとき、三谷氏は象胥(しょうしょ)に「通訳の小役人」と注を入れているが、両者に大きな身分の違いはなかったと思われる。森山はこの年の10月に普請役になった(森悟「森山栄之助の研究」、『英学史研究』21号、1989)。 

 平山については、アメリカ側の中国語通訳だったウィリアムズと、広東人の羅森が多くの記録を残している。なかでも条約締結の最後の詰めをした3月1日(西暦3月29日)の午後に、羅森から借りた太平天国の乱に関する手記を返却する際に、長文の漢文書簡を手渡した一件は印象深い(羅森著、野原四郎訳、「ペリー随伴記」『外国人の見た日本 2』、pp. 65-66)。ウィリアムズも引用しているのは以下の部分だ。

 「地球全体が礼節信義をもって相交われば、陰陽の調和が行きわたり、天地の慈しみの情があらわれます。反対に、貿易の利を競って交わりをすれば、そこからいがみ合いがおこります。むしろ交わりをしないにこしたことはありません」(「全地球之中、礼譲信義以相交焉、即大和流行、天地恵然之心矣、見若夫貿易競レ利以交焉、即争狼獄訴所二由起一、寧不レ如レ無焉」。原文は『幕末外国関係文書』付録1、pp. 637-8)。

  開国することで、利潤の追求を第一とする資本主義経済に組み込まれることへの嫌悪の情と解釈できそうだ。このあと、万年にわたって太平を保つには国防力が必要だと述べ、「我が国はその点に深く省みて、近ごろ兵を訓練し武備を計っています。砲術訓練や造艦事業が日ましに発展しています」と書く。幕末に剣術や槍術の道場が盛んになったことは確かだが、ペリーの初来航後に大船建造の禁はようやく解除され、日本の砲術の祖である高島秋帆は赦免されて出獄したばかりで、平山も初来航の前年から鉄砲稽古の取り扱いを始めて褒美をもらったところだった。

 ペリー艦隊がまだ滞在中の嘉永7年4月に、目付の堀利煕が勘定吟味役の村垣範正とともに樺太・蝦夷地の視察を命じられた折には、平山も随行して松前に向かい、松前藩からの要請で、箱館に赴いたペリーとの折衝に再び当たったほか、堀と村垣のために蝦夷地上知に関する上書を起草した。ペリー帰国後は、堀のいとこで、同年1月22日に海防掛の目付に昇進した岩瀬忠震に見込まれ、従者となった。その2年後、岩瀬が下田へ出張してオランダ船将ファビウスに感化され、開国貿易の信念を固めた際にも平山は同席し、翌安政4年には水野忠徳と岩瀬とともに長崎へ行き、事実上の自由貿易の開始となった日蘭および日露追加条約を独断調印した際にも居合わせた。貿易の利をあれほど嫌悪していたはずの平山は、ものの数年で日本の誰よりも先駆けて自由貿易を推進するようになっていたのだ。安政5年に岩瀬が堀田正睦らと条約勅許を求めに上京した折も同行し、失意の岩瀬が橋下左内に会って一橋派として再出発することで意気投合した会談にも居合わせた。平山はこの年、書物奉行に昇進するが、安政の大獄で左遷され、数年間は、甲府勝手小普請組にいた。

 文久2、3年ごろには返り咲いて、慶応元年には目付に昇進し、同3年には若年寄並兼外国惣奉行となり、フランスのロッシュ公使に軍事支援を求めたり、イカロス事件に関連してイギリス側との折衝窓口となったりして、サトウには「やや低い身分の出の鋭い狡猾な顔つきの小柄な老人で、近年になって昇進していた。われわれは彼に狐とあだ名をつけており、その名のとおりの人物だった」と、評された。一橋派として活躍した人の多くは当時すでに死去するか、慶喜を見限っていたが、平山は慶喜の側近でありつづけ、鳥羽伏見の戦い後に、慶喜が海陽丸で脱出してしまったのちは、「平山老人は天保山の要塞にいたが、身を隠そうと懸命に努めていた」と、書かれた。実際には、朝鮮に使節として赴く途上に大坂に立ち寄ったところだったらしい。慶喜とともに上野の寛永寺にまで行ったが、「慶喜が謹慎を命じていた顧問の一部は、ひそかに脱出した」と、サトウが書いたメンバーのなかに、小笠原長行や小栗忠順などとともに含まれていた(原書、pp. 252、315、366、『一外交官の見た明治維新』下巻 pp. 38、124、193)。

  明治以降は、日枝神社や氷川神社の祠官として余生を送ったようだが、養子の平山成信は、「明治期の官僚で、内閣書記官長(今の官房長官)、赤十字社社長などを務め」、その傍らで幕臣の功績の顕彰に務めたと、小野寺龍太が『岩瀬忠震』(ミネルヴァ書房)に書いている。平山敬忠を共感できない主人公にして大河ドラマを制作したら、幕末史が一気に見えてきそうだが、視聴率は保証できないし、1年では終わりそうにない。

『外国人の見た日本 2:幕末・維新』
 岡本章雄編(筑摩書房、1961年)

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