2021年5月11日火曜日

『コーラス』Les Choristes

 いまさらもいいところなのだが、先日、フランス映画『コーラス』(Les Choristes, 2004年製作)を観た。連休中、孫のお守りから解放されて少し時間があった折に、たまたまYouTubeにあった断片を観て、久々に聴いたフランス語が新鮮で、つい中古のDVDを買ってしまったのだ。封切られたころはまるで知らなかった。どのくらい話題になっていたのだろうか。  

 知らない方のために概略を書くと、La Cage aux Rossignols(邦題は『春の凱歌』)という1945年の古い映画のリメイク作品で、クリストフ・バラティエが監督し、彼のおじに当たるジャック・ペランがプロデューサーの1人となった。『WATARIDORI』というドキュメンタリー映画のコンビと言えば、思い当たる方もおられるだろうか。ジャック・ペランはもともと俳優で、本作でもモランジュ少年の老後の人物として登場する。聞き覚えのある名前だと思ったら、『ロシュフォールの恋人たち』でカトリーヌ・ドヌーヴの絵を描いた金髪の優男の水兵が、彼だった。じつは音痴で歌えないので、あれは口パクだったと、DVDのなかの久石譲との対談で暴露している! この作品では指揮者を演じるのだが、楽譜が読めないので苦労したという。  

 映画そのものは、戦後まもない時期に孤児や問題児を収容していた「池の底(Fond De L’Étang)」という寄宿学校を舞台に、そこに舎監として赴任してきた失業中の音楽家クレモン・マチューが繰り広げる学園ものである。問題児たちを有無を言わさず規律で縛る校長のやり方に疑問をいだいたマチュー先生は、荒れた子供たちに歌を教えることで心をつかんでゆく。合唱の練習に参加しない問題児のモランジュが、実際には素晴らしい声の持ち主であることを知った先生は、彼にソロパートを与える。  

 このモランジュ少年役のジャン=バティスト・モニエのボーイソプラノが何とも美しい。出演したほかの少年たちはほぼ全員、歌も演技も習ったことのない普通の子供たちだったが、ジャン=バティストだけはリヨンのサン・マール少年少女合唱団のソリストだったのである。映画のなかの合唱は、この少年少女合唱団員がカメラ外で一緒に歌っていたのだという。合唱団の指導者のニコラス・ポルトは、撮影のあいだ子供たちの合唱を指導し、マチュー先生役の俳優ジェラール・ジュノの演技指導もしていた。じつは、フランス各地を回ってバックに使う合唱団を決めていた際に、監督の耳に聞こえてきた歌声があまりにも美しく、部屋を覗いたら、声の主が美少年で、モランジュ役はほとんどその場で決まったらしい。  

 DVDには、映画前のカメラテストで撮影されたと思われる合唱団の1コマがあり、そこでソロパートを歌った当時12歳のジャン=バティストは、オクターブ上のシのフラットと思われる音までだしていた。私では、ニワトリが絞め殺されたような音しかでない高音だ。声の質は明るく澄み、音程が非常に確かで、発音も惚れ惚れするほど美しい。YouTubeで観た2005年に合唱団が行なったコンサートでも、女の子のソリストよりも高音を彼が楽々とだしていた。撮影時も、まわりの人が息を呑むほどの歌声だったと、監督が語っている。  

 ロケは、フランス中部のオーヴェルニュのラヴェル城という個人所有の中世の城を貸し切って、子供たちの夏休み期間に行なわれた。物語の始まりは冬なので、この城の入り口に人工雪を降らせて、子供も総がかりで緑のツタ類を引き剝がすなどした様子が、Makingという撮影裏話のなかに収められている。カメラドリーというレールを敷いてトラッキングショットで撮影する様子などが見られるのは面白いし、映画という空想の世界の創造主のような監督の熱い語りを聞くと、この映画を繰り返し細部まで観てみたくなる。最初と最後の場面でとくに活躍するペピノーを演じた、当時8歳のマクサンス・ペランは、プロデューサーのジャックの息子で、監督の年の離れたいとこに当たる。戦争孤児のペピノーは、土曜日には父親が迎えにくると信じ込んでいる。  

 若干の演技経験のあるパリからきた子役が2人いたが、残りは地元オーヴェルニュの小中学校から募集した子供たちなので、撮影は子供キャンプさながらの騒動だったようだ。映画の世界など何一つ知らなかった子供たちと、監督や共演のベテラン俳優たちが真剣に向き合い、話を聞き、アドバイスをし、励ます様子を観ると、映画のなかでごく普通の子供たちが、迫真の演技をしている理由がよくわかる。それでも、セリフをもらえる子と、名前のない脇役の子がどうしてもできてしまうので、多感な年頃の子供の集団を、うまく一つにまとめるのは至難の業だっただろう。  

 ソリストとして活躍するジャン=バティストは、平たい顔を見慣れている日本人からすれば、鼻が高く目が寄りすぎて見えるかもしれないが、ジェームズ・ディーンを思わせる上目遣いや拗ねた表情、あるいは若いころのダイアナ妃やメリル・ストリープのような恥じらいを見せ、その美声と相まって人目を引かずにはいられない。「顔は天使だが体は悪魔だ(Tête d’ange mais diable au corps.)」と紹介される。フランス語のtête(頭)は「顔」も意味する妙な言葉だが、キメラのように頭部は天使、体は悪魔、という意味とも解釈できそうだ。この文の後半部分は、ラディゲの小説の題名と同じだが、字幕はなぜか「心は悪魔」となっていた。  

 彼の危険な魅力だけが突出しないよう、製作者たちはかなり骨を折ったものと思われる。地方の合唱団のソリストでしかなかった12歳の少年が、この映画出演で世界的に有名になりすぎて、人生を狂わされないよう、大人たちはできる限りの配慮をしたに違いない。なにしろ、ボーイソプラノは変声期を迎えるまでだからだ。  

 合唱団を去ったあとの彼は、声楽家としての道は歩まず、マルチタレントのような道を模索していると思われるが、子役の宿命なのか、「Les Choristesの」という枕詞がついて回り、あの天使はいまどうしているのかと、絶えず過去の自分と比べられているようだ。彼はベッカムに似た長身の美青年に成長していたが、もはや天使のオーラはない。

 それにしても、フランス語をこんなに真剣に聴いたのは学生時代以来かもしれない。音を聞けば、綴り字が想像できるのがフランス語のいい点で、「反省室」と訳されていたのがcachot、つまり独房や土牢であることがわかったほか、gamin(子供、英語のkidに相当)、surveillant(舎監)、internat(寄宿学校)などの語彙が少しばかり増えた。  

 この映画のハイライトとも言える演奏会で、伯爵夫人が隅でいじけているモランジュに気づく場面は、たぶんこんな会話になっていた。 
Comtess: Excusez-moi, quel est ce petit garcon qui s’nstalle à l’écart? C’est un puni? (失礼、あちらにいる少年はどうしたのですか? 罰ですか?) 
Mathieu: Celui-là? (その子ですか?) 
Comtess: Oui. (ええ。) 
Mathieu: Celui-là, c’est un cas à part. Permetez? (その子は、別扱いです。もうよろしいですか?) 
最後の部分は、字幕では「彼は別パートです」となっていたが、それでは彼が拗ねていた理由がわかりづらい。

 独身のマチュー先生は、モランジュの美しいシングル・マザーにひそかに惚れているが、モランジュは母親に複雑な思いをいだいており、あいにくこの恋は実らない。マチュー先生は振られて気落ちしたあとも、いい教師でありつづける。彼は放火事件を機に校長から不当に解雇され、一人寂しく学校を去るのだが、見送りを禁じられた少年たちがお別れの言葉を紙飛行機に書いて飛ばす場面は感動的だ。最年少のペピノーだけは先生の後を追いかけ、ともに学校を去ってゆく。その日は土曜日で、ペピノーにとっては、マチュー先生が待ちつづけた父親となったのだ。  

 ほろ苦い物語と美しい映像、そして心に残る音楽とくれば、この作品に夢中になる人が大勢いるのは無理ない。遊んでいる暇はないのだが、「天使」をつい描いてみたくなった。歌もいくつかは覚えてみよう。フランス語の勉強と称して。

ジャン=バティスト・モニエ 
左は2005年の公演のビデオから。右は映画のなかで伯爵夫人に目を留められるところ

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