この「馬見所」を初めて見に行ったのは、『「立入禁止」をゆく』(B. L. ギャレット著、青土社)を翻訳中に廃墟探検についてあれこれ読んでいた際に、ここを探検した何人かの記録を見つけたためだった。内部の画像は心そそられるものだったが、後先や家族の迷惑を考えるおばさんとしては、好奇心を抑えるしかなかった。
その後、『埋もれた歴史』の調査で近くの馬の博物館や中華義荘に行った折にも、この廃墟を眺めた。周囲の敷地が狭いため、「馬見所」は間近で見ると全容がわからないが、谷を挟んだ高台にあるこの中国人墓地からは、まるで古城のようにそびえて見えた。もう少しよく見えないかと、道をさらに進んでみたが、行き止まりになり、鉄条網と英語の看板が見えた。そこが米軍根岸住宅地区だった。
当時はその区域を確認しなかったが、根岸森林公園とのあいだの細長い一角ともつながり、中区、南区、磯子区にまたがる約43ヘクタールの米軍施設だった。ということは、蒔田公園の少し先を右手に登ってゆく稲荷坂の付近からずっと一続きになっていたのだ。ここにはRacetrack Rd.という英語表記の道路標識があり、その先の敷地には外国の光景が広がっていた。保土ヶ谷などの崖地に住宅が立ち並ぶ景色を見慣れた身としては、その落差を思わずにいられなかった。本当の意味で「立入禁止」だったのは、むしろこの米軍基地のほうだったのだと、いまさらながら思う。
新聞記事は、かなり大きな見出しで「新たな観光資源に期待」と謳っていた。市民からは、「馬見所」の活用方法として、そう期待する向きもあるのだという。前述の書の著者、ギャレットから多分に感化されたのだと思うが、「観光資源」という言葉を聞くたびに、私はどうも反発を覚える。
競馬場の歴史そのものは、横浜の開港の歴史と切り離せないが、1930年竣工というこの建築物の歴史は、使用されたのがわずか12年間で、戦後から1969年まで米軍に接収、その後国に返還され、横浜市が買い取ったのは1987年のことという。関東大震災に遭っていないこの建物が、どれだけ耐震構造になっているかはわからないし、保全して一般公開するとなれば、それなりに大掛かりな工事になるだろう。米軍基地が21世紀まで取り囲んでいた歴史も、更地にして帳消しにできるものではない。
「建物にはつたが絡まり、窓ガラスは割れたままなど老朽化が目立つ」と、新聞記事は書くが、70年以上にわたって放置された廃墟なのだ。「活用」するのであれば、むしろ太平洋戦争をはさんだ昭和の苦い歴史を学ぶ場として、廃墟のまま、安全が確認できた場所だけ見学可能にすることはできないだろうか。米軍基地の一角も鉄条網とともに同様に残して、晴れて日本の一般市民もなかに入れるようにしてはどうだろう。観光資源としてやたら宣伝しなければ、ヨーロッパの朽ちかけた古城のように、あるいは全国各地に残る城の跡のように、そこを訪ねた人が静かに時の流れに思いを馳せる場所となるはずだ。大金を投じて大工事を施し、新しい窓ガラスまで入れて磨きあげた「馬見所」など、いったい何にするつもりだろう。
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