2021年6月12日土曜日

『横浜と上海』

 カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を読んで上海について調べた際に、以前に図書館から借りた横浜開港資料館刊行の『横浜と上海:近代都市形成史比較研究』(1995年)をもう一度読みたくなり、リクエストしてみた。当時、私の関心はもっぱら横浜の歴史だったので、なぜ上海と並べて論じているのか、あまり気にも留めていなかった。私のお目当ては、斎藤多喜夫氏が書かれた「横浜居留地の成立」という論文で、ちょうど訳していた『幕末オランダ商人見聞録』(デ・コーニング著、河出書房新社)に書かれていたことが、そのまま論文になったような内容に興奮した覚えがある。とくに資料として添付されていた、1860年1月に開港場として横浜を選択することが決定された居留民の集会の議事録は、一見、小説のようなデ・コーニングの回想録が事実にもとづいていたことがよくわかる内容で、情景が目に浮かぶようだった。  

 今回はむしろ上海に関心があったので、口絵の1855年当時の上海租界地図に、「上海」の所以となった城塞都市が大きく描かれ、その横にまだほぼ同面積でしかない租界があるのを見て、思わず声をあげた。横浜も寒村から始まったが、上海も急速に拡大した都市だったのである。  

 本が届いたころにはだいぶ忙しくなってしまい、じっくり読む時間は取れず、大半は斜め読みしただけだが、いくつか気になる点があったので、備忘録代わりにメモをしておく。一つは単純なことで、上海のInternational Settlement、共同租界は、イギリスとアメリカの租界を中心に構成されていて、そこにあとから日本やオーストラリアなども加わったようだ。『Footprints』で言及されていたJ・G・バラードが鉄条網越しに覗いた水田の向こうの光景はFrench Concession、フランス租界(Concession française)で、フランスだけは単独で租界を築いていた。もう一つ、華界と呼ばれた区画があり、一瞬、花街かと思ったが、中国人居住地区だった。  

 わざわざブログに書いておこうと思ったのは、この本に加藤祐三氏の「二つの居留地:一九世紀の国際政治、二系統の条約および居留地の性格をめぐって」という非常に興味深い論文があったためだ。ここにはとくに条約に関連する重要なことが多々書かれていた。上海と横浜は似たような経緯で「開港都市」(treaty port条約港の意味だろうか)になったが、アヘン戦争に敗北して「懲罰」として開港させられた5港の1つであった上海と、「交渉条約」によって開港された横浜では大きな違いがあったという。かりにペリー来航時に水戸斉昭の意見に従って交戦していたら、日本も同じ憂き目に遭ったということだ。「一門の大砲も火を噴かず、いっさいの交戦がなく、交渉のすえに締結された点」が南京条約とは決定的に異なると加藤先生は強調しておられるが、ペリー一行は、空砲をワシントンの誕生日にも条約交渉前にも何十発と撃っているので、この表現はやや違和感があった。  

 南京条約にはアヘン条項がなく、「公然たる密輸」状況を招来した、とも書かれている。アヘンの密輸は1823年にジャーディン・マセソンが福建沿海で最初に成功し、デント商会もそれにつづいた。条約上でアヘン貿易の「合法化」が明記されるのは、第二次アヘン戦争中の1858年に締結された天津条約の付則だという。その後もアヘンの貿易は「順調な伸び」を示したそうだ。  

 一方、日本では、「横浜開港を決めた日米修好通商条約(一八五八年)において〈アヘン禁輸〉が明示され、密輸は存在しなかった。貿易商品は、条約締結時のアメリカ側の期待とは別に、日本からの生糸輸出が主流となった」と、加藤先生も指摘しておられた。アヘン問題を早くから危惧していた佐久間象山は、ハリスとの交渉を前に想定問答集のような上書を作成しており、その草案は川路聖謨や交渉担当者の岩瀬忠震にも届いていたと考えられている。ハリス側の考慮があったのは確かだが、日本側も充分に理解したうえで交渉に臨んだのではないか。生糸に関しては、上田藩が中居屋重兵衛を通じて開港前から着々と準備を進めて売り込んだものだ。  

 日本にイギリス公使として赴任したオールコックが、上海の第2代英領事として1846年に着任し、上海租界の形成に力量を発揮したという指摘もこの論文にはあった。ハリー・パークスも上海領事だった。幕末史は日本の出来事だけを追っていては、とうてい理解できない。  

 加藤先生のこの論文で最も参考になったのは、最恵国待遇条項に関連する箇所だ。「列強の一国が(列強以外の他国と)結んだ最初の条約が他の列強に均霑されること、しかし後続の条約締結国は〈後塵をはいす〉ため、その条約内容は最初の条約以上には決してならない」と、これについては解説されている。均霑(きんてん)は、平等に利益を受けることだ。当時、最恵国待遇は列強間の合意であり、列強にとっては新たに戦争せずに条約上の権益を得られる割安の外交政策だったともある。ということは、日米和親条約に挿入されたこの条項は必然的に片務的になったのではないだろうか。しかも、これは清米間の望厦条約(1844年)、清仏間の黄浦条約(1844年)が締結された際に新しく生まれたものだという。ペリーに随行してきたウィリアムズは望厦条約の締結にかかわっており、この条項を入れたのは彼の発案だった。この条項が片務的であるから、幕府は不平等条約を結ばされたのだとよく批判されるが、当時の世界における日本の地位や、国際条約など結んだこともなかった当時の状況を考えれば、「その指摘は当たらない」とでも言ってみたくなる。  

 上海について調べたつもりが、思いがけず条約に関するよい資料を掘り当てたようだ。またいつか時間ができたら、この本を借りて、その他の論文も読んでみよう。

 1855年当時の上海租界地図

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