2021年6月22日火曜日

『藤岡屋日記』

 4月に鈴木藤吉郎について調べたとき、その事件について書いておられた関良基先生の参考文献が『藤岡屋日記』第8巻となっていたので、この巻を図書館から借りてみた。ざっと目を通してみると、上田藩主の松平忠固に関する記述があちこちにあったので、取り敢えずコピーだけとったものの、その後、忙しさにかまけて長らく私の狭い机に置きっぱなしになっていた。ファイルに片づける前に、気になった箇所だけでもまとめようと、いちばん肝心の忠固の死去時について書かれたところを再読してみた。 

 九月十日 
一 松平伊賀守病気に付、今日隠居仰せ付けられ、嫡子璋之助へ家督仰せ付けらる処、伊賀守、隠居致し候を残念に存じ、怒り忿死致し候よし。 
九月十四日 今卯上刻卒去     
      松平伊賀守忠優 四十八 

 『藤岡屋日記』は「日記」と言っても、日々の出来事を藤岡屋由蔵がその日に書いたわけではなく、方々から入手した情報を書き写してまとめたもので、それを情報として売っていたという。そのためか、9月10日の条に14日に死去した旨が挿入され、次の行は9月11日の条となっている。原本は関東大震災で焼失しており、どういう状態だったのかはわからないが、張紙や下ヶ札がついていたのかもしれない。忠優から忠固に改名してから2年を経ていたが、ここではまだ忠優となっている。情報の出処はどこだったのだろう。  

 水戸藩士だった内藤耻叟がこの9月の出来事として『開国起源安政紀事』に次のように書いた記述が、私の知る限りでは、忠固の最後に関連した上田藩以外の唯一の記録だった。「松平伊賀守隠居す。伊賀守は元老中たり。主として違勅条約に調印せしむる者とす。然れども井伊の為に憎疾せらる。是に至て内諭致仕せしむ」。内藤耻叟は、「内諭致仕」、つまり表沙汰にせず引退とだけ書いており、死亡については触れていなかったのだ。それに比べると、この日記の内容には驚くべきものがある。  

 ざっと読んだときには気づかなかったが、上田側の史料はすべて、死亡日を9月12日としているのに、ウィキペディアをはじめ、ウェブ上の人名辞典などはいずれも、この日記に倣ったのか、14日説を採用していた! 藩主の死をめぐっては諸々の事情から藩内で箝口令が敷かれたらしく、上田側の史料は曖昧模糊としたものしかなく、どちらが正しいのかは不明だ。 『藤岡屋日記』には、病気のため隠居を命じられたことが不満で憤死したという、なんとも釈然としない理由が書かれている。死亡時刻まで「卯上刻」、朝の5時40分と細かいが、上田側に残る史料で時刻に言及したものはまだ見たことがない。藩士を集めて9月4日付の遺言状が11月14日に読み聞かされたと伝わる。  

 忠固は芝西久保巴町の天徳寺に葬られ、その墓標には「今茲九月、以病致仕、伝位於今候、奉朝請、数日編*留遂不起、実安政六年巳九月十二日也、享齢四十有八、其月二十六日葬于都城南天徳寺先塋之次」と記されていた。編*はつくりの上部に不のようなものが付き、先塋は先祖代々の墓の意味のようだ。この碑文には、「奉朝請」と繰り返し書かれているが、何を意味するのか、ちょっと調べた程度ではわからなかった。9月26日には藤井松平家の菩提寺だった天徳寺に葬られたが、このお寺は虎ノ門3丁目に現存するものの、関東大震災後に墓地を縮小したようで、忠固の墓は一時期、多磨霊園に移されたが、いまはそこにもなく、都内の別の墓所に合葬されている。  

 天徳寺にあった墓の碑文は、上田郷友会の月報(大正4年1月号)の「松平忠固公」という特集記事に掲載されていた。上田の願行寺に遺髪と遺歯を納めた墓が、同年11月に建てられており、そこの墓碑にも、ほぼ同様の内容が刻まれていた。少なくとも死亡日は12日だ。 『藤岡屋日記』の一つ前のページには、9月10日の出来事として、松平伊賀守(忠固)の名代の三宅備前守が、「病気に付、願の通り隠居仰せ付けられ、家督相違無く、嫡子璋之助へ下され」云々と書かれている。田原藩主となった三宅康直は忠固の異母兄だが、当時すでに隠居しているので、この備前守は前藩主の息子で、娘婿に当たる三宅康保のことと思われる。上田藩は藩の存亡の危機に際して、田原藩を頼っていたのだ。  

 同日の『藤岡屋日記』には、安政の大獄で左遷された人びとの名前が連なる。木村図書、鵜殿民部少輔、黒川嘉兵衛、平山鎌(謙の誤記か)二郎、平岡円四郎。前月末には、岩瀬肥後守、永井玄蕃頭、川路左衛門尉などの左遷につづいて、安島帯刀–切腹、鵜飼吉左衛門–死罪、池田大学–中追放などの刑罰の情報、水戸の徳川斉昭の永蟄居なども書かれている。  

 この8巻は安政4(1857)年9月から安政6年9月までの記事なので、ちょうど忠固が老中に再任してから没するまでの期間が網羅されている。上田藩が神田小川町にもっていた上屋敷が、松平駿河守(杵築藩)に一時期渡り、それが今度は老中を辞任したばかりの長岡藩の牧野備前守の屋敷となり、西丸下の長岡藩の役宅に忠固が交代で入ったことなどもわかるし、この西の丸下の役宅に「和蘭陀領事官」クルティウスを迎えたときのことなども書かれている。いつか暇になったら、じっくり読むことにしよう。

 虎ノ門の天徳寺 2018年11月撮影

 上田の願行寺にある忠固の墓碑 2019年7月撮影
 
 十二日の文字が読める

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