2021年6月1日火曜日

日米和親条約11条&9条問題

 昨年10月に「森山栄之助の弁護を試みる」と題したブログ記事を書いたところ、幕末史がご専門である東洋大学の岩下哲典先生がお読みくださり、論文にしてはどうかと思いがけないお言葉を頂戴し、横須賀開国史研究会をご紹介いただいた。コロナ禍の真っ只中で、とうの研究会に参加したことすらまだないのだが、関係者の方々のご好意に甘えて、このたび『開国史研究』第21号に、「日米和親条約の第十一条問題再考」という、大それたテーマで拙稿を掲載していただいた。「再考」としたのは、10年ほど前にこの研究誌に、第十一条問題に関する今津浩一氏の画期的な論文がでており、今回、それをもう一歩突っ込むと同時に、応接掛の組織的欺瞞という今津氏の結論にも疑問を唱えたためである。  

 昨年末はたまたま本業のほうは校正待ちで、次の仕事も決まっておらず、ふと時間の余裕ができていた。おかげでそれをじつに有意義に活用することができた。岩下先生は原稿の段階でつぶさに目を通してご指導くださり、本当に感謝してもしきれない。関良基先生にも原稿を読んでいただき、貴重なアドバイスを頂戴した。森山の置かれた立場がよくわかるように、今回、アメリカの議会図書館蔵のポートマンのスケッチを使わせてもらったのだが、どうしても読めない手書き文字は、イギリスの知人コリン・カートランド氏がいつもながら解読を手伝ってくれた。  

 オランダ語、中国語、英語、日本語という、4言語で作成された条文の文言を比較し、条約締結までの日米双方の動きを日を追って検証したほか、前後の出来事を中心に時代背景も探った複雑な内容で、ブログに書いても頭には入らないだろうと思うので、ご興味のある方はぜひこの研究誌を当たっていただきたい。  

 論旨だけ手短に書くと、領事駐在について日本側は日米双方が合意した場合のみ可能と考えたのにたいし、アメリカ側はどちらか一方でも必要とすれば可能と理解し、その食い違いは第11条の各言語の文言の違い、つまり通訳・翻訳の間違いを発端としていたという従来の説に、一翻訳者の立場から反論するものである。実際には、四言語で書かれた条文には当然ながら、細かい違いはそこかしこにあった。 「一体、条約の表、一様の文段には候えども、銘々の心の赴く所に随い、解し方も同じからず」と、オランダ語、英語の通訳として交渉に当たった森山栄之助自身が語ったように、日米の条文の違いと言われてきたものも、通訳・翻訳にはつきものの微妙な差異に過ぎない、というのが私の主張である。各言語や法律の専門家に、ぜひ再検討いただきたい。  

 森山がいち早く英語を学んだ長崎時代のことや、応接掛でないにもかかわらず、交渉に深くかかわり、漢文版の条文作成に大きく関与した平山謙二郎という徒目付に関して、論文を提出したのちに判明したことなどはブログにも何度か書いたので、併せてお読みいただければ嬉しい。  

 なお、実際には第11条以上に、第9条の最恵国待遇の交渉経緯により大きな問題があり、にもかかわらずこれまでなぜか誰からも見落とされてきたことを併せて主張した。日米和親条約は、日本が開国に向けて大きな一歩を踏みだした出来事だった。ペリー来航時の幕府首脳部は、蘭書やオランダ商館長からのごく限られた情報から、世界事情や時代の波を理解して無駄な争いを避けた。だが、この条約の締結は幕府の英断としては評価されておらず、むしろ否定的に捉える人がいまなお少なからずいる。その際、不平等条約の事例としてかならず引き合いにだされるのがこの9条なのだ。この条項が公式の交渉の場で一度も論じられることなく条文に滑り込まされた経緯は、日米双方の専門家の目で、よく検証し直すべきだ。そして、初めてのことずくめのなかで、圧倒的な国力の違いを黒船と大砲で誇示する紅毛碧眼の大男たちを相手に、冷静に粘り強く条約締結にかかわった人びとの努力は、当時の状況と照らし合わせて再評価すべきだろう。

 ポートマンが描いた横浜の交渉現場。

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